3 第二次世界大戦に突入
3. 第二次世界大戦に突入
四年前に始まった支那事変は、段々その激しさを増していった。
そのころも戦績は良く、各戦場は勝ち戦だった。
しかし、日本の対戦相手である蒋介石政権は米・英・ソ連の援助を受けていたため、
重慶まで退きながらも潰れず、長い戦争を続けていた。
そしてとうとう昭和16年12月8日、日本軍は真珠湾を攻撃し、
米・英・ソ連をも敵に回してしまった。戦闘は大々的な世界戦争へと発展した。
私は14歳で、高等科2年の冬のことだった。
当然のごとく、将来のことを決める就職の選択をしなければならない時期で、
いろいろ求人募集を漁っていた。
この頃、私は毎日のように駅まで行って出征兵士を見送っていたが、
勇荘にホームに入ってくる機関車にどうしても気が取られるようになった。
こんな重くて大きいものを、どうやって引っ張って走るのだろう、
どうやって動かすのだろう。そうだ機関士になろう、機関車に乗って
男らしい仕事をしようと思うようになっていった。
そう決心してからは、兵隊さんの見送りは二の次で、
機関車の側に行き乗務員を見ながら将来の自分を想像することが多くなった。
大西先生はそれに気が付き、私の肩に手をかけて言った。
「どうだ、機関士になるか」
「はい」
私は素直に答えていた。
実はその少し前、満州鉄道からも就職の募集が来ていたので、
坂田くんと和泉くんと自分の三人でこっそり応募したことがある。
そのときは狭い日本から漠然と大陸に出て行きたかっただけである。
「なあ、就職はどうするんだ?」
「なんだか大陸はすごく景気がいいそうじゃないか」
「うちの一番上の兄ちゃんが満鉄に入社したんだ。俺たちも満鉄に行こうよ」
坂田くんは家が製材所をやっていて裕福だが、哀しいかな三男で、
外に就職するしかない。和泉くんはなかなかの野心家で、
大陸で一旗あげたいという思いがあったようだ。
そんなわけで試験当日、八幡浜の職業紹介所に三人で受験しに行ったが、
試験用紙が配られ、住所、氏名、年齢を書いた時点で試験官から、
「応募してくれてありがとう、しかし年齢が足りない。満十五歳を過ぎないと
一人では行けないところです」
と知らされ、往復の汽車賃を貰って帰ってきた。
満州国は実権は日本が握っていたが、たてまえは外国なので、
試験官が言うように満十五歳にならないと一人では行けないのであった。
もう満鉄は諦めるほかなかった。北京にある華北鉄道はどうかと調べたが
やはり結果は同じだった。こちらは完全に外国だ。
クラスの中でも就職の決まった人がぼちぼち出てくるようになり、
三十六人のクラスで六人ほど決まっていた。坂田くんも和泉くんも大陸は諦めて
大阪方面に就職を決めた。私は地元や国内で働く気がなかったので、
多少焦りを感じながらも大陸を諦められずにどこにも願書を出さずにいた。
年が変わり、昭和17年の3学期が始まって間もなく、
やっと朝鮮鉄道の募集が天神村の片田舎の学校にも届けられた。
「武市君、朝鮮だよ大陸だよ、行ってみるか。朝鮮鉄道なら外国ではないからいいだろう」
担任の大西先生が、少し興奮気味に教えて下さった。
朝鮮は日韓合併により日本からは「外地」と呼ばれ、国内であった。
早速応募し、2月8日の試験日を通知され、その日が来るのがとても待ち遠しかった。
合格通知は試験から一週間で届いた。
この頃まだ就職の決まっていない者がクラスの半数くらいいて、
大西先生もだいぶ焦っていたようだ。
国策で大陸にどんどん若い人を送り込もうとしていた時代でもあった。
「武市くんを見よ。朝鮮や満州に行くのは便所に行くくらいにしか思っていないよ。若者は大陸に羽ばたけ」
とゲキを飛ばしていた。
鉄道の他に大陸に行けるのは開拓義勇軍で、クラスで二人決まった。
2月半ばに合格通知と「四月十日付をもって朝鮮総督府鉄道局城津機関区庫内手を命ず」
の辞令と鉄道職員乗車証が同封された大きな封筒が送られてきた。
庫内手とはどのような仕事か全然わからない。
大西先生に聞いても先生もわからない。
機関区とあるので、駅の仕事ではないことはわかる。
何はともあれ、将来を決める就職先は決まった。
「朝鮮鉄道を受けたら通ったので四月に朝鮮に行くよ」
両親にいきなりそう言ったら、二人ともびっくりしていた。
特に母はショックだったようだ。
その頃我が家には自分のうちの一反と地主から借りた四反のたんぼがあり、
母と私たち子どもで農作業もしていた。3月27日の卒業式まで1か月あまり。
遊びたい気持ちも多分にあったが、最後の親孝行と思って、弟たちと一緒に
農作業を一生懸命手伝った。南国四国といえども二月はまだ寒い。
かじかむ指先に息を吹きかけ吹きかけ雑草取りをする。
兄二人は兵隊に行っており、姉は地元の日通に勤めていた。
一人二人を除いては皆小学生である。自分がいなくなると幼い兄弟に
計り知れない苦労をかけるなあとそれだけが気がかりだった。
ただし母のように事あるごとに朝鮮を諦めるように言われると、
それはそれで反発してしまう。少年は少年なりに複雑なのである。
父は本人が決めたことだ、龍は長男ではないからいずれは家を出る身だ、
朝鮮ならいいではないかと正式に認めてくれた。
その後は母はすっかり諦め、布団を作ったり着物を縫ったりして
就職の準備に掛かってくれた。
卒業式には皆、進路が決まっていた。
式は男女別で、男子は三十六人、元気で卒業した。先生もほっとしていたことだろう。
出発を二日後に控えた4月6日、父が一生の記念に四国の有名な
金山出石寺参拝に連れていってくれた。家から20キロのところにある、
標高千二百メートルくらいの霊峰である。参道を登りながら父は私に言った。
「人生いたる処青山あり。学もし成らずんば死すとも帰らず」
それから続けて言った。
「希望を持って家を出ていくのだから自分の道を行け。
故郷に錦を飾るなどと思う必要はない。朝鮮の土になる気で行くんだよ。
人間の命なんて明日がわからない。親の死、兄弟の死というものもあるだろう。
だがそれくらいのことでいちいち帰ることはない。その覚悟は出来ているか」
そう強く言われ、肝に命じた。




