11 咸興「難民」養成所・おやじさん
咸興「難民」養成所
養成所には同期の永野、村田、坂崎をはじめ17人が先着していた。
みんな寮で一緒だった仲間である。「よくここまで来たな」と、
まずはお互いの無事を喜びあった。
おいはぎに遭ったことなど話すと余計つらいので黙っていた。
どのグループも似たような苦労をしてたどり着いたのだろう。
と思いきや永野とそのそばにいた何人かは小ざっぱりとした様子である。
「俺たちは助役と一緒に来たんだ。助役なら列車に乗れる手筈があると踏んだんだ」
「要領がいいな。で、今助役はどうしているんだ?」
「家族連れだから、ここからは別行動だ。こう言っちゃなんだが
もう利用価値もない。助役の道もここまでしかないんだ」
なるほど、ここで同じ境遇でいること自体が、いろいろなものの崩壊の一端である。
区長は機関区で一応指揮を執っていたが、用が済んだらやはり一難民になるのだろうか。
我々7人もこの17人と合流し24人の大所帯となった。
永野が年長者ということもあり、リーダーと決まった。
年長者といっても19歳だ。まずは各自持っている米を全部出し合い
意志の統一を誓った。米は4斗はあったが、誰も現金は持っていなかった。
今後は稼いだ金やもらった食糧はいったんリーダーの永野に渡し、
それを24人で必ず分配することという決まりになった。
ここ養成所に100人以上入れる教室が20数室と
教養生の寝泊まりする二階建ての寮が一棟あるが、
もうすでに人でいっぱいである。私たちは教室の片隅に陣取った。
この教室の中は独身者は私たちだけで、あとは家族連れのようだ。
子どもがたくさんいた。炊事する場所とて決められた所はない。
めいめいに石や煉瓦を拾ってきて、かまどらしきものを作り煮炊きする。
難民独特の様子だ。そうか、俺たちは本当に難民になってしまったのかと愕然とした。
ここまで来ればなんとかなるのではないかと少しは期待していたのだが、
この先の目途など何も情報はなかったのだ。
家族連れの人たちもまだこの頃は金に換わる品物を持っていたようで、
それを売っては家族に食べさせていた。
帰国の列車が出るそうだ、このたった一つの情報を聞くまで、なんとか
食いつながなくてはならない。意気揚々と機関士になる訓練をここで受けた
のが嘘のようだった。今の私たちは意気消沈して日々、難民として養成されていく。
穴
4斗の米もいつまでもつかわからないので、何かないかと歩いていたら
パンを運ぶ馬車が工場から出ていくのに行きあった。
パン工場は養成所の真ん前に建てられていた。
こんなもの前に来たときにはなかった。いちいちいまいましいが、
こうなったらこれを狙うしかない。直径40センチ厚みが10センチくらいの、
かなり大きい丸いパンである。
大雑把な国民性なのか、容器にも入れず幌もかけず馬車で一日何回も連隊まで運ぶ。
工場の歩哨の目が届かない所まで馬車が行ったら、後ろから盗ることができる。
簡単だった。だがロスケも人の子、もしかしたら一つ二つは見逃してくれていた
のかもしれない。
そのうちに思いがけない仕事が舞い込んできてしまった。
養成所の子どもたちに麻疹が大流行したのである。
だが医者もいなければ薬もない。
体力の落ちている子どもたちが助かるはずもなくあっという間に
たくさんの子どもたちが死んでいった。私たちに与えられたのは
子どもたちの埋葬という悲しい仕事であった。
一日5.6回は埋葬のために3キロ先のお寺に子どもの遺体を運んだ。
小さな亡骸をこもに包んで天秤棒を差し入れ、
両側を二人で担いで運ぶのである。墓穴を一人分ずつ掘り、カラスに
つつかれないように丁寧に埋葬する。運び賃と埋葬代で一人60銭もらった。
どんな苦境にあっても三途の川はただでは渡れないものだと思った。
こうして敗戦の日からひと月半ほどで、この収容所の子どもたちは
いなくなってしまった。今度はお寺の方が大変なことになった。
こんなに人が死ねば墓地がなくなる。
ひとりひとりのお墓はどうしてもできなくなった。
そこで考えられたのが共同墓地で、地形に合わせて幅20メートルくらいの穴を
いくつか掘ることになった。
その穴に入って帰国できなかった人は何百、何千人いたのだろう。
おやじさん
10月に入った。帰国の情報は全然ない。
とにかく食いつながなくてはならないと焦っていた。
吉岡と二人であてもなく歩いていると、数軒露店があり、朝鮮人と日本人で
賑わっている場所にたまたま行き着いた。
店のはずれで一人のおやじさんが、片言の日本語で声を掛けてきた。
「イネカリをやってくれないか。どうしても日本人にやってもらいたい」
この地方でも水田がたくさんあり稲作をしている。
そういえば丁度刈入れ時で人手が必要な時期だ。
おやじさんはこの場所が日本人と出会いやすいと知っていて、
求人に出向いてくれていたようだ。
条件は賃金は一日5円、食事つき住み込み、稲刈りの経験はなくてもいい、
10人面倒見たいと言う。吉岡と二人でいたから、
「あと8人、部屋に帰って連れて来ますから」と言うと、
「いったん帰ると気が変わるかもしれない、今ここで集めてくれ」と言う。
仕事を探している日本人はたくさんいたので、見も知らぬ若者たちがたちまち8人揃った。
だが、はて?何故日本人がいいのか?としばし考えた。
もしかして実は日本人に恨みがあって、連れ帰って苛めようという腹つもりなのか、
苛めないまでも仕事だけさせて最後に放り出すつもりなのか、
価値のなくなった日本円の使い道に困っているのか、
本当に人助けをしたいのか…。
5円あれば、戦時中までは万年筆や時計が買えた。
だが敗戦後、日本円の価値は急激に下がった。
今の5円で買えるのは大きなりんご一個だ。
すべてのことが手のひらをひっくり返したようなものだが
この貨幣価値の変化にも信じられない思いだった。
いったい何を信じればいいのかわからない。
祖国だって上役だって何の頼りにもならないのだ。
10人揃ったところでおやじさんの前にまた戻った。
私はこのおやじさんを信用しようと決めた。
―顔が亡くなった親父に似ているから―
母ならなんと言うか考えてみた。
両親は仲が良いから、お父ちゃんに似ている人なら信用しろと言うだろう。
―お前は物おじしないし人懐こい性格だから、しっかり働いておいでー
きっとそんな風に言ってくれるだろう。
朝鮮語ではおやじさんのことはアボジ、お母さんのことはオモニと呼ぶのだが、
このおやじさんのことは以後もアボジではなくおやじさんと呼ぶことにする。
自分と吉岡は稲刈りの経験はあるが、他の若者はやったことがないと言った。
おやじさんはそれでも構わないようだ。
「大丈夫、大丈夫。頭数が揃えばなんとかなる。早く早く」
帰国の情報を得る必要があるので、稲刈りが終わっても終わらなくても
一週間でおいとまするという約束をして、皆おやじさんの後に続いた。
小道や農道を歩いて一時間ほどでおやじさんの家に着いた。
朝鮮の民家はどの家も必ずと言っていいくらい家が囲ってある。
生け垣もあるがほとんど石で、どこにでもある薄っぺらな石を重ねて囲ってある。
この家も例外ではない。この屋敷はかなり広いが、よくもこんなにたくさんの石を
集めたものだと思った。おやじさんが言うには、昔から朝鮮では窃盗は現行犯主義で、
家の敷地内で捕まえればよいが、まんまと敷地の外に出られてしまえば
犯罪が成立しないらしい。そのために囲いは必要なのだそうだ。




