第七十六話 王女チアン
「じゃあ、パンケーキ作ってあげるよ。ちょうど蜂蜜もあるからきっとおいしく出来るよぉ」
王城の厨房。ガラシャは棚から見つけた小麦粉と卵、バターと砂糖を手際よく並べながら、にっこりと笑った。戦闘の余韻もまだ冷めやらぬ城内で、ここだけは場違いなほど穏やかな空気が流れている。
「ありがとうございます、ガラシャ様」
レインは深々と頭を下げた。
「いいのよ、レインくん。信長くんって信じられないくらいわがままでしょ?ほんと、レインくんの苦労がわかるわぁ」
ガラシャは大きめの器にに卵を割り入れながら、くすくすと笑った。その気安い調子に、レインは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「そんな事は……いえ……はい。正直、ついていくのがやっとです」
「そうよねぇ。私も最初はびっくりしたもの。向こうに居たときも突拍子のないヤツだったけど、こっちに来てからは敵の命なんて何とも思ってない感じだものね。でも、あいつがいないとこの世界、変わらないのも本当だし」
ジュッと音を立てて鉄板の上でパンケーキが焼けていく甘い匂いが、厨房に満ちていく。レインはその香りを嗅ぎながら、胸の奥にわだかまる複雑な感情を持て余していた。
(俺の父上を殺したのも、あの人だ)
信長がこの地に攻め入った際、抵抗したレインの父は、信長の手によって討たれている。それでも今、レインは信長に従っている。人族が他種族に隷属することなく生きられる世界を、信長ならば本当に実現できると信じているからだ。だが、その信念と、時折垣間見える信長の非情さとの間で、レインの心はいつも引き裂かれそうになっていた。
「はい、焼けたわよ。温かいうちに持って行ってあげて」
ガラシャに手渡された皿の上には、蜂蜜のかかった黄金色のパンケーキが湯気を立てていた。
◇
チアン王女の療養する離宮は、王城の喧騒から離れた静かな一角にあった。
彼女はここ数日、特に体調を崩して臥せっていた。アンジュン辺境伯が反乱を起こして攻め込んできたという報せは聞いていた。城内で激しい戦闘が始まったという話も。不安に胸を締め付けられながら、震える手で毛布を握りしめていた。
そして、戦いの喧騒はやがて静まった。だが、その後どうなったのか、離宮にいるチアンには何も知らされていない。
「王女様、失礼いたします」
扉が開き、見知らぬ青年が入ってきた。付き添いの侍女の顔は、蝋のように真っ青になっている。
寝台に横たわるその姿を見て、レインは思わず息を呑んだ。
年は十三歳。病床にあってなお気品を失わない、深窓の令嬢そのものの佇まいだった。血の気の薄い、透き通るような白い肌。明るいプラチナブロンドの髪は、緩やかなウェーブを描きながら枕の上に広がり、差し込む光を受けて淡く輝いている。まるで陶器の人形のような儚さと、それでいて芯の強さを感じさせる双眸が、レインをまっすぐに見据えていた。
彼女を蝕む体調不良の原因は、いまだはっきりとしない。侍医の間では重度の貧血ではないかと囁かれているが、確たることは誰にも分からなかった。
「私はレイン・アンジュンと申します」
その名を聞いた瞬間、チアンの表情が凍りついた。
「む……謀反人ッ!」
か細いながらも精一杯の敵意を込めて、チアンはレインを睨みつけた。
レインは動じることなく、静かに膝をつき、目線を彼女に合わせた。
「王女様、誤解がございます。謀反を起こしたのはイーボチヤ伯爵とバンボン男爵。我らアンジュン軍は、その報せを受けて救援に駆けつけたのです。しかし……残念ながら、間に合いませんでした」
「ま、まさか……」
チアンの声が揺れる。レインは丁寧に、しかし淀みなく「事情」を語った。反乱軍がいかにして王城を襲い、王族の男子がどのような最期を遂げたか。
だが、聡明なチアンは、その説明にどうしても腑に落ちないものを感じていた。
(近衛の兵たちが、敵の正体を見誤るなんてこと、本当にあるのかしら……)
疑念を抱きながらも、それを言葉にする力は、今の彼女には残っていなかった。
「王女様。私は、人族という種が、いつまでもエルフや魔族に虐げられ続ける今の在り方を変えたいのです」
レインはまっすぐにチアンを見つめた。
「我が家の筆頭家老、織田信長は、そのための力と知恵を持っております。あの者がいれば、人族はいつか他種族と対等に肩を並べられる。……そのために、王女様のお力をお借りしたいのです」
しばらくの沈黙が続いた。レインの声には、打算だけでは説明のつかない、確かな熱があった。それは、チアンの張り詰めた警戒心を、少しずつ溶かしていった。
「……あなたのお父上も、オーガとの戦いで戦死されたと聞いています」
チアンがぽつりと呟いた。
「でも……本当は、違うのでしょう?」
レインの肩が、わずかに強張った。
「筆頭家老の織田信長……。悪鬼のような容赦の無い人間と聞きました。そしてオーガ達は信長の直属であるとも。そんな男が、あなたのような気弱な領主に従っていると?」
チアンの瞳に、初めて怒りとは違う色が浮かんだ。それは、憐れみにも似た、静かな理解の色だった。
「人族が対等に生きられる世界のために……あなたも、父の仇に頭を垂れているのですね」
レインは何も答えなかった。ただ、皿の上で少しずつ冷めていくパンケーキを、彼女の枕元にそっと差し出しただけだった。
「……冷めないうちに、どうぞ」




