黒はやがて朱に染まる
俺の姿は誰の目にも留まらなかった。完璧な悪事だ。誰も俺を責め立てることはないだろう。そう思っていた。
だが、俺は初歩的なミスを犯していることに気づいてしまう。「俺」は常に俺を見ているということだ。
罪と罰は表裏一体。誰かが裁かずとも俺が罪を意識している限り、罰は俺を追いかけてくる。いつまでも、どこまでも。
だから俺は逃げるのを止めた。考えることも止めて、空を見上げるだけのバカになろうと心に決めた。
今の俺の姿をあの性悪女が見たなら、さぞ癇に障る声で笑ってくれるのだろう。
今の俺のように空を見上げて黄昏れていた金髪のエレベーターガールも、新たな復讐対象ができて想像もできないような愛らしい顔で笑っているかもしれない。
……もしも、アイツが俺のしたことに気づいたらどんな顔をするんだろうか。
それを見れば俺は少しでも救われた気持ちになれるだろうか。……それとも、ますます俺を苦しめてくれるだろうか。
――――俺は悪くない!
いっそ、そう叫んでしまいたくなるくらいあの日の俺は不甲斐なく、白く乾燥したクソのように胸糞悪いクソ野郎だった。
あの女がなぜこんな真似をしたのか、その真相は俺にもわからない。だが、アイツはいつだってあの二人のことを気にかけていた。それだけは間違いない。
あの女は鍛え抜いたポーカーフェイスで黒子を演じ、裏では俺を操って船に爆弾を仕掛けさせた。
もう一人のバカ女は性懲りもなく幻術にかかって、そこに俺がいないことに気づきもしない。そうして船は飛び立ち、華と散った。
……というのは言い過ぎかもしれない。なぜなら俺はこの通り生きているからだ。
とはいえ、俺には今の船の状況なんて窺い知れないし、あの女が生き残っていたとしても他はクソ女に上手く騙されて皆殺しにされているかもしれない。
もしくは、逆にあのエレベーター娘に勘づかれ、拷問されている可能性もある。
そうであったとしても、その様子を見ることができないんじゃあ俺の心のモヤモヤは微塵も晴れはしないんだが。
「……バカバカしい」
どういう結果であれ、俺のしたことが罪じゃなくなる訳でもない。
…ホワイトデビル……
ふと、アイツと冗談で使っていたコードネームを思い出し、それを楽しんでいた自分が憎らしく思えた。
「元気出しなさいよ」
バーバラの洗礼は下され、遂に穴だらけの家に立ち退きの看板が立った。その看板の下で、やる気のない抗議団体のようにこれ見よがしに仰向けで寝転がっていると、知らぬ間にあの金ツイ娘が現れていた。
「……」
「何よ、そんなに睨まなくてもいいでしょ?」
「悪いな、この顔は生まれつきだ」
鼠娘の背中越しに、どこかの誰かに似てブクブクと太った白い雲が悠々と空を泳いでいるのが見える。
「それよりも何の用だ」
「別に用ってほどのことでもないけど……」
「用がないならこんな所で油を売ってないで仕事でもしてきたらどうだ」
「なによ、アンタだってダラダラしてるだけじゃない」
「残念だが俺は今、絶賛無職中だ。誰に何を指図されるいわれもない」
俺はあくまであの子のお守りをしていただけで、警察が本職という訳じゃない。紅鬼たちからそれを強要されてもいない。
あの女のいない今、何をするのも俺の自由……そう、自由なんだ。
「……奇遇ね。アタシも今日の仕事は終わって暇になったのよ。…だ、だからさ……アンタ、暇なんでしょ?どっか美味しいお店教えてよ。今日はお母様がたくさんお小遣いをくれたから奢ってあげなくもないわよ?」
森田を「母」と呼べるようになって、少しは自分のはしたなさに気づけるようになったかと思えば、そのあざといまでの金ツイっぷりは健在のようだ。
それに、森田もコイツに暇を与えるなんてえらく余裕のあることをする。
あの事件の後、お前たちもやることが増えただろうに。
――――ミラが僕たちを乗せてネコ缶から消え去ったことで、三大派閥は指導者も技術長も失ってしまった。
唯一残った森田がそのすべてを補うつもりでいたらしいが、いくらネコ缶の生活可能な土地が限定されているとはいえ、一人で3つの派閥を管理すれば鼠派の持ち味でもある「家族」に雑味が生まれる。鼠の子どもたちは珍しく母の意見を断固拒絶した。
しかしまさかこの問題を、ネコ缶の「その先」をあの女が考えていたとは俺も森田も夢にも思わず、おおいに驚かされた。
「猫と犬は私たちで分担致しますのでご心配なく。以前ほどの力はありませんが、ぐうたらな猫と生真面目だけが取り柄の犬の番をするくらいでしたら問題ありませんので」
あの女はちりめんに指示して密かに紅鬼と蒼鬼を自立できるよう調整していた。
今の二人には異名の象徴だった角はなく、その上、性格も別人と言っていいほどに変わり果てている。
吊り目で高圧的な印象だった蒼鬼は目尻が下がり、包容力のある「お姉さん」に。無口でミステリアスだった紅鬼はよく喋り、よく笑う「普通の女の子」になっていた。
それでも、どんなに心に変化があろうとあの女から与えられた使命をまっとうしようと言う姿勢は変わらない。「機械」とはそういうものだと改めて思い知らされた。
俺がそう口を滑らせると、二人は揃って反論した。
「パンダさん、どうかあの方をわかってください」
この上、まだ俺を操ろうと言うのか。紅鬼は内蔵されているレコーダーからあの女の独り言を流し始めた。
『ミラ・タルタラ、私はアナタが憎い。
あの戦争は、アナタたちが始めたものなのに。
迫害され、荒れていた私を調教し、私の無念を晴らすと約束して傍に置いたのはアナタなのに。
アナタは恋にうつつを抜かし、適当な建前を立てて戦争も、私との約束も放棄した。
それでもアナタは私たちを身を挺して護ってくださった。だから、私はこの星でやり直したかった。裏切り者のいないこの星なら、親友と支え合い、アナタも私も幸せになれると。
……だけどまさか、アナタがそんなにもあの男を愛していたなんて……
私はアナタに従い、地球に帰る。奇しくも、アナタと同じようにこの星でした約束たちを手放して。
言い訳はしない。悪いのはアナタを信じた私なのだから。
ただ、もしも許されるのなら、アナタたちにはこの星で私の代わりに彼らを護ってほしい。
私の――――』
簡潔かつ理不尽な内容のそれは二人に向けられたものだった。誰よりもあの女の近くで、何度となく陰湿な嫌がらせを受けてきた二人に向けた……
「間違いなく…あの女がそう言ったのか?」
「調整中で言葉を交わすことこそできませんでしたが、これは間違いなくあの方の言葉です。100年間、一人で抱え続けてこじらせてしまった私たちの可哀想なお母様の―――」
「本音、か?」
たとえそれが本当だったとしても……
「だとしたらなおさら森田を見習ってここに残るべきだったな。子どもよりも主人を選んだ。結局はそれだけが唯一の『本音』だ」
正論パンチをかましてやったにも拘らず、紅鬼は「何も間違っていない」と平然と反論し続ける。
「お母様はただ、旅立つ二人を放っておけなかっただけなのです。あの二人も今や、紛れもなくあの人の子どもですから」
「詭弁だな」
対して俺は、反論への有効な言葉が見つからない。あの女のことを考えたくないのか。それとも、不本意にも二人の言葉に感化されつつあるのか。
LEDのように青天白日な紅鬼の声に代わり、アロマキャンドルのような蒼鬼の眠たい声が俺を追い詰める。
「母からはいろんな嫌がらせを受けました。幻術、下剤、睡眠薬、果ては無意味な改造だったりと。ベッキーのように腕を斬り落とされたこともありました……」
蒼鬼に言われ、紅鬼は綺麗に修復された自分の腕をうっとりと眺めていた。
「俺にはお前らのようなマゾヒストの気質はない。理解したくもない」
「ふふ、確かに私たちのケースは少し異常なのかもしれません。ですがパンダさん、イジメは歪んでいても愛情表現であることに変わりはないんですよ」
「……狂ってるよ、お前たちは」
俺に、あの女を許せと言っているのか?あの二人のために独り悪戦苦闘してきたあの女を俺にも愛せと?
バカげてる!!
あの女は俺に、やっちゃならないことをさせたんだぞ?
……冷たく底のない深海に、あの子を沈めさせたんだ。
「……好きにすればいいさ。俺にはもう関係ないことだ。これ以上、関わってくれるな」
あの日のことを一秒でも思い返すだけでぐったりと萎えてしまう。
もう何も考えたくない。……帰りたい。
訳のわからない真相に掻き乱され、白猫は足取りもままならない様子でフラフラと二人の前から立ち去っていった。
「……気づかれなかったわね」
おっとりとした蒼鬼が優しく微笑んだ。紅鬼が清々しい笑顔でそれに応えた。
「当たり前でしょ?誰の娘だと思ってるのよ?猫一匹騙すくらい訳ないわ」
二人はレコーダーに続きがあることを白猫に言わなかった。
そこに悪意はない。今聞いたところで彼はそれを受け入れられないだろうし。
だったらもう少しの間、二人だけの宝物にしていたい。そんな子どものような欲求が彼に意地悪をさせたのだった。
そうして一応の解決を迎えた今回の事件後、無気力な乾物として入れもしない家の前で日干しにされる俺。そろそろ「いい臭い」がしてきた頃合い、そんな夕暮れ時に小娘は現れた。
「どうするのよ。行くの?行かないの?」
デブ雲に視線を戻しながらも視界の端に、もじもじと揺れる二本の夕陽色に染まった尻尾が映る。
「……お前は気が滅入ってる時、周りの人間にどうしてもらうのが一番嬉しい?」
「な、なによそれ。そんなことを聞いてどうするのよ」
……ここまで鈍感な奴だったか?それともわざとやっているのか?
まあいい、気づかないからといって怒鳴り散らすほど俺もガキじゃない。そっちがそのつもりなら、ガキのコイツにも理解できるよう、ご機嫌ナナメな紳士の恐ろしさってやつを俺が教えてやる外あるまい。
「どうやらお前は俺を励ましに来てくれたらしい。その気持ちはすごくありがたい。だが、問題を解決しなければ意味はない。一生俺の面倒をみるつもりもないんだろう?」
「と、当然でしょ!?」
ぴしゃり、と鞭のようにしなる鼠の尻尾が俺の頬の毛を容赦なく削り取った。
その一撃の重さに危うく俺の方が後悔しかけたが、なんとか持ち直し、攻め続けた。
「そもそも俺は自分のケツは自分で拭く主義だ。施しなどいらんし、ましてや愛のこもった手作り料理を振る舞われた日には―――」
「き、きにゃあぁぁぁっ!!」
キメ台詞を言い終わる前に特大のビンタが炸裂し、俺は壁に叩きつけられた。その無様な姿はさながらTシャツに張りついた二次元のカエルのよう。対して小娘はプチトマトのように真っ赤っか。
本当に、オタクの期待を一切裏切らない奴だ。
「な、な、なに頭のオカシナこと言ってんのよ!!ア、アタシがなんでアンタなんかに……!」
それにしても、なんて重たい拳してやがる。世界タイトル級か?ビンタ女王か?こんなもんをあと2、3発ももらっちまった日には輪っかを浮かべたお姉ちゃんたちの所までブッ飛ばされちまう。
「……そ、そうだ。今回のことでお前に非は一切ない。それなのにこんなに優しくされた日には俺はお前に烈情を催しかねな――――」
辛うじて力の分散していたパーが弾丸のごときグーに変わり、より深く頬に突き刺さる。
そうして「俺」という食材に完璧な下ごしらえをすませると、アイツは味わい深い罵声を振舞いながら走り去ってしまった。
全身が痺れて起き上がることもできず、ゴロリと仰向けになれば空はやっぱり俺を憂鬱にさせてくれる。何度でも、俺をそこに引きずり込んでくれる。
「……ねえ、なんでそんなに素直になれないの?」
ゆっくりと視界に同調していく、ある種の心地好さを覚えていたというのに……。センチな気分に浸らせてもくれない声の主を俺は再度睨みつけた。
「なぜ戻ってくる?もう俺とお前の縁は切れたようなものだし、俺にかまえばかまうほどにお前が損するだけだ」
今の俺の真の理解者は同類の雲しかいない。そう決めて再び視線を空に戻したのに……。小娘はそれでも諦めなかった。
「……これでもそう思う?」
「む、むぐぅ!?」
唐突に俺を抱き上げたかと思えば、小娘は相思相愛の俺たちを引き剥がすだけに飽き足らず、新たな食肉加工を施し始めた。
「あ、圧殺とはいい度胸だな!このまな板女め!」
いくら好意とはいえ、死の淵を見せてくれる思春期を気遣うような余裕などなく、俺は最強の呪文を唱えた。だが、効果はまるで現れない。それどころか「抱擁力」はさらに増し、もはや気の利いた辞世の句も読めずに未練が押し寄せて……いや、これはこれで一種のご褒美なのか?言うてる場合か!!
「や、やめろ!死ぬ!死ぬ!色気のないプレス機なんぞに潰されて終わるなんて―――」
「少しは黙ってなさいよっ!」
なぜかその一言で――ある意味、煩悩と呼ぶべき――苦痛は消え、見上げると沈んでいく夕陽が涙を流していた。
泣きたいのはこっちだなんだぞ?どうしてお前が泣いているんだ。
お前には幸せになれる場所があるじゃないか。……どうしてわざわざ苛立たせるような場所に帰ってくるんだ。
「……こんなことをしなくても、俺もいつか空を見上げて胸を痛めなくなる時がくる。腐った肉が乾いて臭いがしなくなるみたいにな」
「……」
「お前はもっと、限られた『今』という時を噛み締めるべきだ。それがお前たちのために残った森田に対する礼儀だろう?」
「……」
いつか消えてしまう悲しみなら、俺はそれを存分に噛み締めておきたい。それが俺とアイツの最後の「ごっこ」になるのだから。
「……中華料理、食べに行くか」
「なんで?」
「どうせまだ使ってないんだろう?福引券」
俺には誰の考えも理解できない。だが、それでもいいのかもしれない。幸も不幸も努力した結果だ。バカにすることはできないし、否定することもできない。
それに、そんな難しいことを考えてこのだらしない腹を満たせるチャンスを棒に振る方が何倍もバカらしいじゃないか。




