其の伍
トオルとウマ、そして新悟の三人が暗くなりかけたホームの庭に潜んでいる。夜の七時を過ぎると門が閉められ入れなくなるからだ。玄関にあった車いすを一台拝借して来て、そこに白衣姿の新悟が座っている。あたりが暗くなり花火が始まった。
「そろそろだよ」
トオルがふたりに声をかけた。
ホームの渡り廊下のドアが開いて、辺りを見回してから出て来たのは、車いすを押した榛澤だった。白衣姿の介護士の近田がぐったりとして座らされている。ゆっくりと慎重に車いすを押して、楠の周囲の盛土の所で止めると、自分の脚立を持って楠に向かった。
トオルがウマに合図を送った。
「いまだよ」
トオルの合図で駆け出した新悟の後を車いすを押したウマが続く。近田の車いすの所まで行くと、ウマの押して来た車いすに新悟が座りぐったりとした姿勢を取る。榛沢の動きを確認してから駆け付けたトオルが、ウマと一緒に近田の座った車いすを押して植え込みの陰に隠れた。素早く、そして流れるような動きだ。
「なんか戸板返しみたいだね」
トオルが息を整えてから呟いた。
榛澤が車いすの所に戻って来た。近田の代わりに新悟が座らされた車いすを押して楠の根元まで行くと、新悟の脇の下にロープを通し素早く背中で結び上げた。
「上手いもんだ、さすがに元鳶だな、手慣れたものだ」
ウマが感心している。
榛澤は木から下がっているロープに新悟の背中に作った輪を通してもう一方のロープの端を引き上げ始めた。カラカラと滑車の音がして新悟の体が宙に浮いた。高さを確認して、ロープの端を近くの木の幹に結ぶと脚立を上がり、枝に縛ってあった別のロープを引き出すようにして、その先の輪を新悟の首に回した。微かな明かりがあるが庭はほとんど暗闇の世界だ。榛澤の作業は打ち上げられる花火の光を待ちながら慎重に進められている。老人たちが何かやるとすれば、花火の上がる今日だというトオルの推測は当たっていた。対空時間の長い、ひと際大きな花火が上がった。オレンジ色の光の中に首を吊られた新悟の姿がはっきりと見てとれた。榛澤は新悟のぶら下がっている枝の一段高い枝に長い剪定鋏をあててロープを切った。滑車が軽い落下音を立てて外れ落ちた。榛澤はあたりを見回して施設の中へと戻って行った。
「鮮やかだねえ、ほんとうに年寄りか?」
ウマがまた妙な感心をしている。
「さあ、次は新左兄さんたちに連絡だ」
トオルは背の低い植え込みの所で懐中電灯を振った。
ほどなくホームのチャイムが鳴った。インターホンに出た宿直のヘルパーは、警察だという言葉に驚き、慌てて門の施錠を解除すると、警官がふたり飛び込んで来た。
「こちらの庭で首を吊った人があるという無線が入りました。急ぎ調べさせてください」
ヘルパーの返事を待たず庭に入る。警官に扮した新左と新吉だ。
「親分、あっちです」
「親分?」
新吉の言葉にヘルパーが不思議そうな表情になった。
「オ、オオヤブさん、こっちです」
自分で気づいた新吉が言い直した。
「バカ!」
新座が声にならない声でその耳元で力いっぱい叫ぶようにした。
「これだ!」
大きな楠の下から新左が、首吊りの形で釣り下げられている新悟を見上げて言う。
「良い塩梅に脚立がありやすぜ」
慣れない警官の役所は新悟の中で岡っ引きと一緒になってしまい、台詞回しが時代劇のものになっている。新左が釣り下げられている新悟の足を持ち上げ、新吉が脚立に上がって首からロープを外した。ロープを外された新悟が笑いを堪えているのがわかる。首を吊られても締まらないようにフルボディーのハーネスを付け、首の部分は肌色のゴムカバーで隠してある。徳三の工夫だ。
「救急車を呼びますか?」
怖いもの見たさで出て来たヘルパーが言うと、
「いいえ、パトカーで運びます。その方が早いでしょう」
新悟を抱えるとふたりはホーム外に止めてあったパトカーに乗り込んだ。サイレンは鳴らさなかったが赤色灯を回して走り去るパトカーをヘルパーが茫然と見送った。
介護士の近田が首を吊ったという知らせはすぐに社長の永田のもとに入った。警官が直接病院に運んだという知らせを受けたが、いくら待っても警察からも病院からも連絡がない。代わりに来たのが奇妙な電話だった。
「社長さんかい?今夜は大変だったな。人が死んだとなればまた警察が来ることになるな。このあいだの池での事故死のようにさ。おっと、それもまた調べ直されるかもしれねえなあ。いくら待っても警察から連絡なんないぞ。俺たちが処理してやったんだから感謝しな。それでな、明日の夜、話し合いに行くからよ、ホームで待っていてくれ。いいかい、わかったな」
それだけ言うと電話は切れた。芝居は下手だがこの手の電話を任せると何故か生き生きするのがウマだ。
次の日社長の永田と美帆がホームの事務所にいると、作務衣姿の若い女が入って来た。おりんだ。
「皆さん、ホールの方にお越しください」
おりんが皆さんと言ったのには訳がある。昨日の電話を揉めている組織からのものだと考えた永田が、息のかかった不良たちを七、八人連れて来ていたのだ。一同がホールに行く。
「介護士の竹内さんですね。山本さんと榛澤さん、それとえ~っと、波間田さん、あとサトちゃん、じゃなかった西岡さんを呼んで来てください」
棒読みのようだが、おりんに任せられた唯一の役どころだったから昨晩必死に練習したが、それでも緊張して少したどたどしかったことをおりんなりに悔やんでいた。
おりんに言われて美帆が老人たちを連れて戻ってきたのを確認して、おりんがCDデッキのスタートボタンを押した。
……すきま風がカーテンを揺らし 西日が心を揺らす
窓辺の小さな陶人形 伸びた影の先には誰もいない
六畳一間のアパートがとても広く感じます
さよなら、じゃなくて、ごきげんよう
そしてあしたは、こんにちは
短い言葉をくり返し
歩いていくことに決めました……
父の遺した舞い衣装に身を包んだトオルが艶やかに舞う。狭い舞台で大きな踊りができないこともあったが今日のトオルの踊りは手の動きを主体したものだ。手とは本来話したいことを表現するものだったことを老人たちに思い出させるのに十分な、美しく、そして懐かしい動きだ。踊りを終えてゆっくりとトオルが話し始めた。