其の弐
ホテルに戻ったトオルを追いかけるように電話があった。
「さっきのお兄ちゃんよね、ありがとう」
山本という老女からだった。
「よくわかりましたね」
トオルの口から自然に出た。名前はもちろん、居場所も伝えていなかった。
「旅館のサンダル履いていたでしょ。あの近くの旅館に聞いたら二軒目で行きついたわよ。特徴を言ったらすぐにわかったわ。とても観光客には見えなかったし、旅館の従業員がサンダルで出るはずもないし、それに長い髪と丸いメガネでしょ、普通じゃないもの。お芝居をしているんですってね」
大した推理力だが、「普通じゃない」、は余計だと思った。
「ほんとうにありがとうね。それでね、明日なんだけど、ホームで音楽会があるのよ。お礼もしたいから、来てくれないかなあ」
トオルは貰った金を返さなければいけないと思っていた。貰う筋合いのものではないと思ったから開けてみてもいなかった。その場で断らなかったのは、断れば妙な雰囲気になってしまうかもしれないという、運転手に対する気遣いからだったが、その運転手の分も預かってしまっている。
ティッシュの包みを受け取ったときの落ち着かない感覚が残っていて、どうにも居心地が悪かったから、老女の誘いをすぐに了承した。
「はい、喜んで伺います。もうひとり、芝居の仲間を連れて行っていいですか?」
「もちろん、大歓迎よ」
老女の声が弾んでいる。
トオルはウマに一緒に行ってもらおうと考えていた。
『ウマ』は元新聞記者だった変わり種だ。
あの老人ホームまでの坂道を歩いて登るのはきつい。ウマに一座のトラックに乗せて行ってもらおうと考えていたのだ。
音楽会は昼から一時間ほどだという。ホテルでの夜の芝居の時間には、十分に間に合う。
翌日、ホームに着くとウマがまず驚きの声をあげた。
「なんだ、ここ?すごいなあ、本当に老人ホームなのか?」
「高級なホームなんだって」
「高級って、おまえ、まるでホテルだぞ、これは」
昨日のトオルの驚きをウマがそのまま言葉にしてトレースしている。
ふたりを昨日の制服の女が出迎えた。
「昨日はありがとうございました。あの山本さんはすぐに外に出てしまう人で、困っているんですよ」
胸の名札に『竹内美帆』と書かれている。
電話の応対もするが、本当は介護福祉士だと名乗った。
美帆の案内で老女の部屋まで行く。
途中広い談話室があり、隣が囲碁や将棋、麻雀の出来るプレイルームになっている。隣接するのは保健室で、一番奥にある、今日音楽会があるというスペースは広めの宴会場のような造りで、小さいながら舞台もあった。
「今日はジャズピアノの演奏会です」
美帆の説明にウマが驚いた。
年寄りが相手だから演歌や民謡の発表会のようなものを勝手に想像していたらしい。
ほかに陶芸ルームやカルチャーのためのスペースもあるという。
入居者の居住スペースは別棟になっていて明るい渡り廊下でつながっている。
一階の中ほどの部屋の前で美帆は立ち止った。
「こちらです。山本さん、お客さまがお見えですよ」
「よく来てくれたわね。嬉しいわ。さあ、入って」
中に声をかけると、明るい返事が返って来た。
右側がトイレとバスルームになっている。左側は小さなレンジが置かれていて自炊のためのスペースであるらしい。
外国の風景画が飾ってある短い廊下の先が、八畳ほどの部屋になっていて、小さな机やベッド、衣装箪笥などが置かれている。
海に面した大きな窓から差しこむ光で贅沢なまでに明るい。
そこに六人ほどの老女が、小さく座って、トオルたちを出迎えた。
老女たちはトオルたちを待っていたようだ。
よそ行きの服装で化粧もしている。
開け放された窓から軽めの海風が静かに吹き込んで来る。
寒くはない心地よい空気だが、それでも一人だけ、長袖のカーディガンを着て、長い巻きスカートをはいた老女がいた。
「はい、みんな、この人たちがそうなの」
山本の紹介に全員が一斉に頭を下げた。
「名前をまだ聞いていなかったわね。教えて」
トオルが自己紹介をした。ウマの本名を思い出すのに少し手間取った。
「みなさん、おふたりはお芝居をしているそうです」
無言だったが、全員が顔を見合わせて、大きく何度もうなずいた。
「あら、サトちゃんがいないわね」
「私、呼んで来ましょうか?」
出口に一番近い所に座っていた老女が腰を浮かせかけた。
年齢もこの中では一番若いようだし、それだけ位も下なのだろう。格付けのようなものはこの種の施設の中にもあるのだ。
「いいわよ、電話するから」
山本は、携帯電話を取り出して、ボタンを押した。
『サトちゃん』の電話番号はワンタッチで登録してあるらしい。
「あっ、サトちゃん何してるの?もうお見えよ。うん、うん」
電話を切ってから、
「あの子はどこかのんびりしているのよね。昔っからそうなの」
唇を尖らせて首を振りながら言う。
すぐにサトちゃんが来た。
小柄だが、のんびりしていると言われたように、ゆったりとした動きが印象的な、昔は美人というよりは、可愛いかっただろうと思われる容姿をしている。
「まったく、よくそれで看護婦が務まったわよね」
老女たち全員が揃って笑った。
他愛もない話だったが山本が一人で話し、全員が相槌を打つ。
男の訪問客があることは、入居している老女にとっては自慢できる事なのだ。それを引き算しても、山本という老女はこのホームの女性リーダー的な存在であるらしい。
ひとしきり雑談すると、老女たちが帰り、山本とサトちゃんだけが残った。
手持無沙汰にしていたウマが、机の上の写真を見て尋ねた。雑誌か何かの求めに応じたのだろう、夫婦でゴルフをしている写真だ。
「この人、映画監督の山本次郎さんですよね」
「あらご存じですの?そう亡くなった私のだんな。私も若いでしょう?」
「近代映画の草分け的な人で、特撮の生みの親みたいな人ですよね」
ウマは、むしろトオルに説明するような口調だ。
「そうねえ、映画人として一流だったわね。でもね、我儘な人で、女遊びも盛んで、泣かされてばかりよ、死んだ人を悪く言いたくはないけど。このサトちゃんは山本のお妾さんだった人よ」
家を売り払ってホームに入居する時に、サトちゃんの分も入居費を払うことにして誘ったのだと言う。不思議な関係だ。
「一緒に闘った、戦友みたいなもんでしょ」
と山本は明るく笑った。
受付のあるロビーに戻ると美帆が、わざとらしいゆったりとした歩みで近づいて来た。
「どうでした?随分もてていましたね」
美帆が意地悪そうだが可愛い笑顔を作った。確かにあれほどの人数の女性に見詰められた経験はない。間もなくピアノの演奏が始まるからと中年のヘルパーが知らせに来た。
「ジャズピアノだなんて、洒落てますね」
トオルが美帆に囁くようにする。
「ええ、他にもフラメンコとかフラダンスとか、結構慰問の方が来てくださるんですよ。ただ……」
「ただ、何ですか?」
「この施設を見て大抵一回しか来てくれません。ボランティアでいらして、施設の様子に驚かれるみたいですよ」
ボランティアで来るにはこのホームは確かに立派過ぎる。慰めるという精神にこの豪華な施設はそぐわない。
「今日のジャズピアノは館長の知り合いの人なんです」
音楽家というよりバーのマスターといった風貌の男がピアノの前に座っていた。食堂から運びこんだ椅子に老人たちが座っている。車いすの老人も何人かいた。
「さあ、みんな静かに聞くように。せっかく来てくれたんだからな」
白衣を着た男が手を上げて言った。小学生を相手にしたような口調だ。司会役なのだろうか、百キロはある体躯をしている。美帆が同じ介護福祉士の近田だと教えた。ハイテンポの曲が室内に乱暴に弾く。それでも老人たちはピアノに調子を合わせている。芸術も娯楽も同じ次元に昇華させてしまう技は経験が培ったものだ。トオルは気になっていたことを美帆に聞くことにした。
「ところで、みなさん携帯電話を持っているんですね」
「ええ、全員に持ってもらっています。行方がわからなくなっても何処にいるかわかるようにです」
「ホームへの連絡もあるでしょうからね」
「はい、ですからここの番号はワンタッチの一番に入れてあります」
トオルは山本の携帯電話のホームの番号が、ボタンを操作する、普通の短縮機能に入っていたことが気になっていたのだ。ピアノの音に少し遅れながらも体を揺すっているサトちゃんにトオルが声を掛けた。
「すいません、携帯電話を貸してもらえませんか?」
「いいですよ」
サトちゃんの取り出した携帯電話は山本のものと同じ機種だ。ボタン部分とは別に三か所だけワンタッチのキーが付いている。トオルは少し離れた場所に行きワンタッチキーを押した。一番を押すと名前と番号が表示された。
〈トシエ 090・・・・・・〉
山本がポシェットに手を伸ばした。それを確認して電話を切り、ワンタッチキーの二番を押した。
〈ハンザワサン 090・・・・〉
押すと前列にいるがっしりとした体格の男がポケットに手を入れる。またトオルは電話を切り三番を押す。
〈ハマダサン 090・・・・〉
一番後ろで見物している男が少し慌てた様子で当たりを見回してからポケットを探ったのを確認して電話を切り、サトちゃんに電話を返した。音楽会は一時間ほどで終わった。
「さあみんな、終りだ、終り。部屋に帰って晩メシまで静かにしているように」
近田がまた子どもを相手にするような大声を出した。入居者たちもどこか近田にびくついているように見える。
ウマが「だんなの思い出話をしたい」と言う山本に連れて行かれてしまったから、ひとり残されたトオルは施設の庭に出てみることにした。
贅沢なほどに広い庭だ。入居部分の渡り廊下から直接車いすで下りて、真ん中にある池をひとめぐり出来る道が作ってある。シュロやヤシが南国を連想させる風景の中で、背の低いツツジの植え込みや、樹齢が数百年はあると思われる楠など、日本的な樹木がいやがうえにも目立っている。
さきほど携帯電話に出ようとしたハンザワという老人が庭の手入れを始めていた。少し猫背だが鍛えられた筋肉が半袖のシャツからのぞいている。きれいに刈り上げられた頭髪はまだ十分に黒く、年齢を感じさせない。腰をかがめて小さな物置から道具を取り出そうとしているハンザワにトオルは近づいて声をかけた。
「庭の手入れですか?これだけ広いと大変ですね」
「ああ、あんたか、敏江さんの所に来た客だろう?」
山本という老女がトシエという名前だということは、先程の携帯電話で確認していた。
「そうです」
トオルが物置を覗きこんだ。
「随分道具がありますね。みんなあなたのですか?」
「ああ、そうだよ、長年使っている相棒たちだ」
鋸や鉋などの大工道具もある。道具類に限らず自分の持ち物をすぐ近くに置きたくなるのは老人に共通している。
「そうですか、みんな年季が入っていますものね。あっ、申し遅れました、僕は橘徹と言います」
「俺は榛澤有三だ。よろしく」
長い剪定鋏を物置から取り出しながらトオルの方を向かずに榛澤が答える。
「ここは昔いろんな木があったらしいんだ。それを全部切ってシュロとかヤシとか洋風なやつばかり植えたけど無理があるよな。みんないまにも枯れそうだ」
「そうなんですか。でも、あの木は日本のものですよね」
トオルが一本だけ残っている枝ぶりのしっかりした楠の大木を指差した。当たりの木が全て切られて、潮風に足元の土を運び去られたためだろう、剥き出しになった根の周辺が盛り土されていて小高い丘のようになっている。
「あの楠か。そうだよ、あれほど立派だとさすがに切れなかったんだろうな。もっとも、あの楠の後ろが花火が一番良く見える場所だって言うのは皮肉だけどね。ここでは毎週水曜日に海で花火を打ち上げるんだ」
「先週観ましたよ。けっこう本格的でした」
「平日の客を増やして観光名物にするんだそうだ。一年中上げているよ。でもここの皆はもう飽きているから誰も騒がないし、うるさいと言い出すやつもいるよ」
「なんだか贅沢な悩みですね」
「まあね」
榛澤が手入れを始めたツツジの植え込みの横の池は、浅い底が見える程度に澄んでいて、周囲に鉄柵が設けられている。
「綺麗な池ですね。あの囲いも榛澤さんが造ったんですか?」
「あれは業者だ。俺ならあんな不粋なものは作らん。でも先月この池でばあさんが死んだんだ、溺れてな。だから作ったんだ」
「死んだ?」
トオルは運転手が言っていたことを思い出した。
「ああ、先々週かな、花火の日だ。小田川という古くからいたばあさんだけど、ピンピンしていたのになあ」
「溺れたんですか?」
「ああ、よくこんな浅い池で死ねたもんだよな。花火を見に出て足を滑らしたというのが警察の見方で、事故だってさ」
榛澤の口ぶりにどこか納得していない部分があるとトオル思った。剪定挟を扱う手の動きが少し乱暴になったようにも見えた。
トオルは物置の中に真新しいロープと滑車があるのに気付いた。時代を経た道具の中でそれは異様に目を引いたが、ただ何に使うものかは聞かなかった。
トオルには事件との出会いを感じ取る、持って生まれた特性のようなものがある。そのきっかけとなる好奇心の歯車がまた静かにだが確実に動きはじめていることにトオル自身も気づいていた。
建物の中に戻ったがウマはまだ開放されていないようだ。仕方なく談話室のソファーに腰掛けて置いてある雑誌を見ていたが、盆栽や手芸の本ばかりでたちまち飽きてしまい、大きく伸びをして当たりを見回したトオルの目に動物の写真が飛び込んだ。親子だろうか三匹のイタチだ。後ろの一匹がカメラ目線になっている。撮影場所が庭の池だとすぐにわかった。光量を抑えたフラッシュ撮影で素人の写真ではない。撮影者の名前に波間田淳一と書かれている。さきほど携帯電話に出ようとした老人が撮影したものらしい。
ほどなくウマが戻って来た。
「まいったよ、話を合わせるのが大変で。ちょっとしたホストだったよ」
トオルの向かい側にあるソファーにへたり込むようにして座った。
「ご苦労さまでした」
美帆がふたりにお茶を勧めながら小さく笑う。長く綺麗な指だが、華奢な体と同じで小学生のような可愛らしく小さな手だ。
「みんな大したバイタリティーだね」
ウマが吐息とも溜息とも取れる息を吹き込んだ湯呑のお茶を口に運んだ。
「そうなんですよ、こっちが煽られてばかりです」
「あの山本敏江さんとサトちゃん」
「西岡聡子さんです」
「そう、あのお二人は特別な関係だったみたいですね」
トオルがポツリと言う。
「おおらかでしょう?面白いって言うと叱られますけど」
「あと、おふたりと榛澤さんとは特別に仲が良いとか、入居している人同士の付き合いって、どうなんですか?」
「まあ人の好き嫌いあるでしょうけど、狭い建物の中ですから、皆さんうまくやっておられますよ」
少し話し過ぎたと思ったのか美帆は用事を思い出したような表情を作って談話室を出て行った。帰り際トオルは敏江に昨日貰った金を返した。
「まったく欲が無いんだから」
敏江は受け取るのを拒んだが、根負けして受け取った。