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59話『魔性の女たち』

 どうしてこんなことになったのか――。


 状況の整理を試みる。

 だが、本当に記憶がなさすぎて整理のしようがない。


 ただ、これだけはわかる。

 ここはレイナさんの家で、彼女とひと晩を共にしたのだと。


 ――てか、今日出社……!


 レイナさんを起こさないように配慮しつつ、急いでバッグ、シャツ、靴下をかき集める。


 ――脱衣所どこだ?


 たぶん、寝ぐせがすごいことになっている。

 さっと直してから出たい。


 申し訳なさを感じつつ、片っ端からドアを開けて脱衣所を探した。


 ――おいおいおい!


 脱衣所を探し当て、鏡を見ると――。

 俺の左頬には真っ赤なリップの跡が残っていた。


 ――なあああああ!


 俺は心の中で発狂しながら、寝ぐせを直す。

 そして、必死でリップの跡を落とそうと水でごしごしと洗っていると……


「直くん、おはよお」


 俺の腰にするりと手が伸び、後ろからぎゅっとバックハグをされた。


「ひえ!?」


 思わず変な声を出してしまった。

 鏡越しに彼女の姿を見ると、タンクトップにショートパンツという、完全にオフモードな格好だった。


 俺はごくりと生唾を飲み込み、目線を鏡からそらした。


「うぅぅ。頭痛い……」

「だ……大丈夫ですか……?」

「顔洗いたい……」

「どうぞ!俺終わったんで……」


 さりげなく腰に回された手をほどき、彼女に洗面台を譲った。


「それじゃぁ……俺はこれで……」

「ええ?シャワーは?」

「あ、自分ちで浴びるので」

「一緒に浴びないのぉ?」


 俺はYesともNoとも応じず、無言で家を飛び出した。


 そして――俺は走った。全速力で。


『そりゃ、一緒にシャワー浴びたいですよ?』

『だって、俺も男です』

『寝起きのあなたは、無防備すぎて目に毒です』

『自覚してますか?自分が可愛いって!してないですよね?』

『というか、狙ってやってるんですか!?』

『もう、俺……無理だ!!!!』


 走りながら、心の中で叫び散らかす。


 見たことのない街並み。

 ここがどこなのかもわからない。


 でも、そんなことどうでもいい。

 俺は煩悩を振り払うため、とにかく走り続けた。


 ~~~


 8時59分――。


「おはようございます」


 ――ま、間に合った!


 俺は軽く息を切らしながら、デスクへ向かう。

 幸いなことに今日は出社人数が少なく、和也もいない。


 席に着き、しばらく深呼吸をしながら乱れた息を整える。


 とりあえず、シャワーだけは浴びることができた。

 だから、酒臭さは幾分かマシになったと思う。


 だが――いつもスタイリング剤で整えている髪は、乾かしっぱなしでぺったんこ状態。スキンケアやメイクもせず、口元にできてしまった大きめのニキビが露わになっている。


 服装もいつものようにじっくりスタイリングを考える時間がなく、洗濯機に入れたままのぐしゃぐしゃのシャツとパンツを再び着回し、急いで家を出た。


 ――マスク、買いに行くか……。


 始業時間は過ぎてしまっているが、この最悪のコンディションを可能な限り隠したい。

 トイレに行くフリをして、急いでコンビニに向かった。


 ――マスク、マスク……。


 誰とも目を合わせず、下を向いたままコンビニめがけて大股で歩いていると――。


「大河内くん?」


 びくっ。

 俺はわかりやすく身体がはねた。


 少しずつ視線を上げると――目の前には、麗香さんがいた。


「そんなに急いでどうしたの?」


 彼女はいたっていつも通りの様子だ。


「あ……いや……」


 俺は彼女と目を合わせず、下を向いたまま、しどろもどろになっていた。


 すると、麗香さんはうつむき加減だった俺の顔に両手をそっと優しく添えた。


 ――えっ……。


 彼女はそのまま両手全体で俺の顎をくいっと上げ、無理やり視線を自分に向けさせた。

 そして、しばらくの間、じーっと俺の顔を見つめた。


 ドクン、ドクン、ドクン。

 心臓がかつてないスピードで鼓動を打つ。


 麗香さんにときめいて、ドキドキしているわけではない。


 酒臭さはないか。

 今朝のキスマークが残っていないか。

 レイナさんの残り香がないか。


 今朝の出来事を彼女に見透かされていないか心配で、心臓が口から飛び出しそうだったのだ。


「なんか、いつもと違う……」


 麗香さんは眉間にシワを寄せながら、食い入るように俺の顔を見ている。


「……今朝……寝坊しちゃって……」


 なんとか言葉を絞り出した。


「……身だしなみを……整える時間が……なくて……」


 嘘ではない。


「あ~~!だからか!顔周りの印象がなんとなく違って見えたから!」


 納得したからか、麗香さんは両手を離して俺の顔を解放してくれた。


「大きめのニキビができちゃったのが……恥ずかしくて……。髪もぺったんこだし……」

「そう?素な感じが新鮮で、私は好きだよ?」


 そう言って、麗香さんはニコっと笑った。


 ――またそうやって思わせぶりな……。


 昨日の出来事がバレなかったことで冷静さを取り戻した俺は、改めて彼女の顔をまじまじと見た。


 ――あれ……?なんか……。


『いつもと違う』といえば、麗香さんもそうだと気づいた。


「麗香さん……目元のメイク、変えました?」

「……え?」


 彼女の視線は明らかに揺らいでいた。


「目元がピンク……というより赤みが……」

「……そうなの!よく気づいたね!今日はメイク変えようと思って!さすがだね~」


 麗香さんはいつも通り振舞っているつもりだろうが、動揺しているのが手に取るようにわかった。


 たぶん――泣いた跡だ。


「そろそろ、戻らないと……!」


 麗香さんは「じゃ!」と言って、慌てた様子で歩き出す。


 昨日、何があったんですか――。

 そう、彼女に聞きたい。


 だが――それを聞くということは、なぜ俺が六本木にいたのか、そして誰といたのかを話さなくてはならないということだ。


 俺は言葉を飲み込み、彼女の後ろ姿をただ見つめていた。


 すると、麗香さんは途中でピタッと立ち止まった。

 そして、くるっと踵を返して小走りでこちらに戻ってきた。


 彼女は内緒話をする時のように、両手で口を覆いながら俺の耳元でささやいた。


「土曜日、楽しみにしてるね。直くん!」


 そう言って朗らかに微笑み、小走りで会社のほうへ戻っていった。


 俺はその場で少しふらついた。


 会社で名前呼びはずるい。

 彼女にとって俺が特別である証みたいで、背徳感でいっぱいだ。


 一方で――彼女とのこの何とも言えない距離感を楽しんでいられる余裕は一切ない。


 麗香さんとのデート中にディーノさんと遭遇したあの日――。

 ディーノさんは俺たちと別れてすぐに、LINEを送ってきた。


『麗香さんと3人で飲む件だけど』

『今週の土曜日はどう?』


 あまりに急な日程だったので、おそらく麗香さんも予定があるだろうと思ったのだが――。夕方以降の時間帯であれば空いているとのことで、予定が組まれてしまった。


 場所はもちろん『Lv.∞』(レベルインフィニティ)


 ここで、何の事件も起こらず静かに飲めた試しは一度もない。


 土曜日に何が起こるかなど想像もつかないが――とんでもないことが起こる予感に身震いした。

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