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9.クリスマス

 クリスマスにはあまり良い思い出はない。サンタクロースが来るような家ではなかったし、高校生くらいになると、家庭内で唯一の味方である妹もデートに出かけてしまう。クリスマスは、飲んだくれの父と機嫌の悪い母のいる家でいつものように息をひそめて本を読むか勉強をする日。いつもより少し心細い日。

 ―まぁ今年は華がいないのなんて毎日のことだし。別に寂しくないし。

 机に向かい塾バイトの予習をしようと参考書を開く。

 数学と理科は苦手科目なので念入りに予習が必要なのだ。私の能力が高ければもっと上手な授業ができるのだろうけど。足りない分は勉強して補うしかない。この時間も割と好きだから塾のバイトは案外向いているのかもしれない。

 22時を過ぎたころ、リビングから不穏な音が聞こえ始めた。

「だから飲みすぎって言ってるでしょ! なんであんたはいつもそうなの!?」

「俺が稼いだ金で飲んでんだろ! お前にとやかく言われる覚えはねぇんだよ!」

 怒鳴りあう声。次いでガラスが割れる音。また父と母が揉めている。

 いつものことだ。またやってるね、うるさいね、って華と二人で笑いあうのだ。子供のころから、激しい夫婦喧嘩が始まると二人で笑う。不安や怖さを掻き消すために笑う。

 いつもなら。

 でも華はここにはいない。一人じゃ笑い飛ばせない。途端に心細さが芽を出す。

「おい! 椋! 出てこい!」

 まずい。こちらに矛先が向いてきた。

 出ないという選択肢はない。余計に怒りを買う。

「なに」

 部屋を出ると酔っ払った父とイライラした母の視線が刺さる。

「お前のその態度が気に入らないんだよ! 俺を何だと思ってる! 誰のおかげで大学まで通えてると思ってるんだよ。いい気になってんなよ!」

 父の怒声が響く。

 母は何も言わず静かな苛立ちを露わにする。

「ごめん」

 大学の学費はバイトして自分で払っている。それに今年は特待生に選ばれたから学費は全額免除だ。きっと父も母も私の成績どころか学部さえ知らないだろう。

「なに、その顔は。不貞腐れてんの? 少しは笑えないわけ? 本当に可愛くないわ、あんた」

 母も父への苛立ちを私にスライドさせて怒る。もはやサンドバッグ状態だが、私は反抗してはいけない。少しでも逆らえば二次被害を受けることは学習済みである。

「あんたが気楽に学生やってる間も私は必死に働いてるわけ。少しは申し訳ないとか思わないわけ?」

 あぁ。心が冷えていく。涙が零れそうなのを、浅い呼吸で誤魔化す。泣いたらおしまいだ。この地獄の時間がさらに続いてしまうから。

「ごめん」

「お前はそれしか言えんのか!」

 父の振り上げたアルミの灰皿が顔面に直撃した。驚きと痛みで、堪えていた涙が零れてしまった。

 まずい、と思ったがもう遅い。

「お前、泣けば済むと思ってんだろ」

 思ってない。泣いて済んだことなんて一度もない。

「思ってません」

 泣いたら怒られると刷り込まれてるのに。泣くことを恐れているというのに。

「何だ? 何か言いたいことがあるなら言えよ」

 言ってどうなる。さらに怒鳴られるだけじゃないか。

 話の通じる相手ではない。

「あぁ鬱陶しい! あんたのその不貞腐れた顔見てるとイライラする!」

 母も母で、父と仲が悪いわりにこういう時は父に便乗する。この人たちを親だと思いたくない。これが「家族」だなんて思いたくない。

「……」

 もう、私に許されている言葉などない。

 この時間が終わるのを待つしかない。三十分後、ようやく許しを得てこの地獄から退場できた。

 この家に、いたくない。

 二人の目を盗んで、家から抜け出した。

 いつもの公園までの道のりを歩く。

 あぁ、華はいいな。この家から抜け出せて。好きな人と結婚して、脅威のない家庭を築いて。私も早く、一人で生きていく覚悟を決めなきゃ。

 考えるうちに涙が零れてくる。もうあの二人は見ていない。今は我慢しなくてもいい。そう思うと余計に泣けてくる。少し気が緩んだからか、灰皿がぶつかった頬が痛んできた。

 痛い。自分の弱さが悔しい。私も愛されたい。もっと強くならなきゃいけない。もう立ち止まりたい。

 感情がぐちゃぐちゃになる。

 公園につくと、ささやかながらイルミネーションが点灯している。

「あぁ、クリスマスか」

 本当にろくでもないクリスマス。惨めさに泣けてくるのと同時に笑えてきた。

 ブランコに腰掛け、惨めさを噛み締めているとLINEが届く。

『メリークリスマス、宮野さん。宮野さんもクリスマスパーティーしたのかな?』

 神薙君からだ。

 本当は、「そうだよ」と送るべきなのだろう。わかっている。でもどうしても、あの「家族」とクリスマスパーティーをしたなんて言えない。嘘でも言いたくない。

『してないよ』

 クリスマスパーティーなんて、したことないよ。

『そっかぁ。予定なかったなら宮野さんも招待すればよかったな』

 そうして送られてきたのは豪華な食事と、少し不格好な手作りのケーキと神薙君の妹であろう愛らしい少女の写真。

 心臓が鷲摑みされたみたいに痛い。

 これが「クリスマス」なんだ。これが「家族」なんだ。灰皿投げられて泣きながらブランコに乗ってる私のクリスマスって何なんだ。

『私も行ってみたかったな』

 スマホの画面に雫が落ちる。

 ないものを欲しがるべきではない。欲しがったら与えられるような世界ではない。自分の力で解決しなくてはならないのだ。

 彼らから唯一、学んだこと。

『宮野さん、今おうち?』

 誰かが助けてくれるなんて事、私の人生では起こりえないのだ。

『うん』

 泣き虫で弱虫な自分を奮い立たせて、虚勢を張ってでも前に進め。あの家から逃げたいのなら。

『そっかぁ。僕今あの公園に行く途中なんだけど、良かったら会えないかな?』

 会えるわけがない。この状態を見られるのは流石にまずい。今すぐ公園を出なければ――。

『ごめん、今日は課題やらなきゃいけなくて』

 家には帰りたくないから他の公園に行こうか。でも今日はクリスマスだしどこも人がいるか。でもこの際だから気にしてられない。

 取り敢えず公園を出よう、と立ち上がった時。

「宮野さん?」

 早すぎる。行く途中、ってもう着いてるじゃないか。

「宮野さんもここにいたんだね」

 嘘をついたことに関しては触れないでくれるらしい。しかしこれ以上近づかれたら――。

「宮野さん、泣いてたの……? その頬っぺた、どうしたの! 腫れてるよ! 早く手当しないと……っ」

 神薙君は私の顔を見るなり取り乱す。

 そうか、腫れてるんだ私の顔。そりゃあびっくりするよな。

「大丈夫。もうすぐ冬休みだし。次学校行くまでには多分目立たなくなってると思うよ」

 タイミングがいいのか悪いのか、私の今年の講義はもう終わっている。次の登校は年明けなのだ。

「そうじゃなくて! 今、痛いでしょう? ちゃんと、手当てしよう? ね?」

 神薙君の両手が私の手を包んだ。

 それから神薙君はどこかに電話をして、戻ってくると自分のマフラーを私に巻き付けた。傷を隠してくれたのだろう。

「今から僕のうちに行くからね。母さんに連絡してあるから着いたらすぐに手当てしようね」

 そういって神薙君は私の手を引いて歩きだした。

 


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