第7話 前編「結ばなかったおみくじ」
一月三日。
年明けの神社は、賑わいのピークを越えながらも、まだどこか浮ついた空気を残していた。
参道には屋台の名残が点々と続き、甘い匂いと冷たい空気が混ざり合う。石畳の先、拝殿の前では、人々がそれぞれの願いを胸に静かに手を合わせていた。
「……興味深いね」
鳥居の前で立ち止まり、一ノ瀬涙はそう呟いた。
「何がよ」
隣で、冷泉凛が素っ気なく返す。
「おみくじの構造さ。あれは“未来を予言する紙”じゃない。曖昧な助言を、あたかも自分のための言葉のように錯覚させる――高度な心理装置だよ」
「新年早々、夢のない分析ね」
「むしろ逆だよ。人間はね、曖昧な言葉を自分の都合に合わせて解釈する天才なんだ。だから“当たる”んじゃない。“自分で当てに行ってる”」
一ノ瀬は、境内の一角を指差した。
枝に結ばれた無数の白い紙が、風に揺れている。
「あそこにあるのは未来じゃない。“選ばれなかった可能性”の集積だ」
「……相変わらず、性格が悪いわね」
冷泉が小さくため息をついた、そのときだった。
「……一ノ瀬?」
背後から声がかかる。
振り向くと、そこにいたのは同じクラスの佐々木だった。ラフな格好のまま、片手に紙袋をぶら下げている。
「やっぱりお前か。こんなとこで何やってんだ?」
「観察だよ。人間と文化の関係性のね」
「普通に初詣って言えよ……」
苦笑する佐々木の隣に、小さな女の子が立っていた。少しだけ人見知りしているのか、彼のコートの裾をぎゅっと掴んでいる。
「妹。詩音。小四」
「……どうも」
小さく頭を下げる少女に、冷泉が軽く頷いた。
そのとき、一ノ瀬の視線が彼女の手元に止まる。
「……それ、おみくじだね」
詩音はびくっとして、持っていた紙を少しだけ引き寄せた。
「あ、いや……その……」
「まだ悩んでんのか?」
佐々木が肩をすくめる。
「さっき引いたばっかなんだけどさ。結ぶかどうかで、ずっと止まってる」
一ノ瀬が、興味深そうに首を傾げた。
「へえ。それは面白い。聞かせてもらってもいいかな?」
詩音は少し迷ったあと、おみくじを差し出した。
「……大吉、だったの」
「それはおめでとう」
「でも……」
詩音は少しだけ俯いてから、言った。
「結ぶか、持って帰るか、迷ってるの」
風が、すっと抜けた。
冷泉が静かに問いかける。
「理由は?」
「……結ばないとダメって、友達が言ってて。でも……大吉だから、持って帰りたくて……」
その言葉に、一ノ瀬は小さく笑った。
「なるほど。非常に合理的だ。得をした状態を維持したい――人間として自然な欲求だね」
詩音は少しだけ驚いたように顔を上げた。
「でも、それでいいのかは……わかんなくて」
「当然だよ」
一ノ瀬は、結び所の方へ歩き出した。
白い紙が風に揺れ、かすかな音を立てる。
「おみくじを結ぶ意味、知ってる?」
「えっと……悪いのを置いていく、って……」
一ノ瀬は少しだけ肩をすくめた。
「うん、でも半分正解くらいかな」
「え?」
詩音が目を丸くする。
「結ぶっていうのはね、“ここに縁を残す”って意味が強いんだ。運とか、願いとか、そういうものを神様の近くに置いていく」
「じゃあ……持って帰るのはダメなの?」
「ダメじゃないよ」
一ノ瀬は即答した。
「むしろ、“持ち帰る”っていうのは、その結果と一緒に生きるってことだからね」
詩音は、おみくじと結び所を交互に見た。
「じゃあ……どっちでもいいの?」
冷泉が答える。
「正解はないわ。あるのは、あなたが納得できる選択だけ」
一ノ瀬が続ける。
「ただし、一つだけ確かなことがある」
少しだけ、声が低くなる。
「“大吉だから安心”じゃない。“失いたくない”と思った瞬間から、それは不安に変わる」
詩音の指が、紙をぎゅっと握った。
「……」
小さな沈黙。
その背中が、わずかに揺れる。
しばらくして――
「……あれ?」
詩音が、小さく声を漏らした。
「どうした?」
佐々木が覗き込む。
「ここ……」
詩音は、おみくじの一文を指さした。
「さっき読んだのと、ちょっと違う気がする」
一ノ瀬の目が、わずかに細くなる。
「……へえ。それは興味深いね」
風が強く吹き、無数の紙がざわりと揺れた。
ただの“大吉”の話だったはずのものが、
ほんのわずかに、その輪郭を変え始める。
正月の穏やかな空気の中で――
小さな“違和感”が、静かに芽を出していた。




