94話 花の怪盗、降臨──盗まれるのは宝か、真実か
夜会場の空気が、一瞬で変わった。
それは音でも光でもなく、
――違和感だった。
ざわめきの質が変わる。
楽団の演奏は続いているのに、音が遠くなる。
貴族たちの笑顔が、どこか強張る。
(……来たな)
俺がそう思った、その瞬間だった。
天井近く、シャンデリアの影から――
花弁が、舞った。
赤と紫が混じる、あり得ない色の花びら。
風もないのに、ゆっくりと、計算された軌道で落ちてくる。
「……なに、あれ……?」
誰かが呟いたと同時に、
二階バルコニーの欄干に、一つの影が降り立った。
軽やかで、しなやか。
まるで舞台に立つような所作。
仮面越しでも分かる、
あまりにも目立つ存在感。
「皆さま、ごきげんよう♡」
鈴を転がすような声。
甘く、挑発的で――どこか芝居がかっている。
「今宵の夜会、とっても素敵だけど……
ちょっとだけ、“返してもらいたいもの”があってニャン♪」
(……花の怪盗)
噂だけが先行していた存在。
猫の足跡、花弁、そして消える真実。
会場がどよめく。
「怪盗だ!」
「警備を呼べ!」
「宝狙いか!?」
その混乱の中で――
一人だけ、動かなかった人物がいた。
フレデリコ・ディル。
彼は静かにグラスを置き、
視線をバルコニーへ向ける。
「……やはり、君だったか」
声は低く、確信に満ちていた。
怪盗は、くるりと一回転し、
フレデリコを見下ろす。
「さすが、仕立て屋さん♡
夜の顔も、ちゃんと見てくれてるんだ?」
(……知り合い、か)
俺の横で、レイリンが小さく息を呑む。
「ロン……あの二人、ただ者じゃない」
「分かってる」
次の瞬間――
警備隊が一斉に動いた。
魔導装置が起動し、
床に展開される拘束陣。
だが。
「遅いのよ」
怪盗が指を鳴らす。
――闇が、踊った。
影が伸び、光を歪め、
拘束陣が一瞬だけ“ずれる”。
その隙を突き、
怪盗は会場中央へ降下。
そして――
ある貴族の胸元に、手を伸ばした。
「っ……!?」
男が声を上げる前に、
怪盗は何かを抜き取る。
宝石、ではない。
薄い水晶板。
魔力記録媒体。
「――いただき♡」
その瞬間。
「そこまでだ、花の怪盗」
フレデリコが、前に出た。
床に光の紋様が広がる。
《ティリングクロス》
淡い黄金の結界が展開され、
逃げ場を封じる。
だがその結界は、
“怪盗”ではなく――
周囲の民を守る形で張られていた。
(……なるほど)
奪うためじゃない。
守るための結界。
フレデリコの視線は、
怪盗だけでなく――
青ざめた貴族たちにも向いている。
「今宵、ここで取引されていたものは宝ではない」
「――弱者を切り捨てるための“証拠”だ」
会場が、凍りつく。
貴族の一人が叫ぶ。
「な、何を言っている!?」
その瞬間、
怪盗が水晶板を掲げた。
「孤児院の土地売却」
「労働街の強制立ち退き」
「偽の税記録」
「ぜーんぶ、ここに保存されてるニャン♡」
(……真実、か)
次の瞬間、
会場奥から魔導獣が解き放たれた。
「排除しろ!!」
怒号。
完全に開き直った権力者。
「来るよ!」
レイリンが叫ぶ。
「任せろ!」
俺は前に出る。
《みんなを守る》
魔力が走り、
衝撃を受け止める。
レイリンがすぐさま支援に入る。
「ロン、右!」
「分かってる!」
フレデリコは迷わず動いた。
《抑強扶弱》
傷ついた使用人の前に立ち、
光の加護を与える。
「守るべきは、力を持つ者じゃない」
怪盗は、その背を見て――
一瞬だけ、仮面の奥で微笑んだ気がした。
「……変わらないね、フレデリコ」
彼女は影の中へ溶けながら、
魔導獣の核だけを正確に破壊する。
《可愛くてごめンネ!》
闇の連撃。
だが殺さない。
止めるための一撃。
やがて、
魔導獣は崩れ落ちた。
静寂。
怪盗はバルコニーへ跳躍する。
「今夜の主役は、宝じゃない」
「――“真実”だよ」
仮面の奥から、
俺と、レイリンを見る。
「ラーメン屋さん♪
あんた、意外といい顔して戦うね」
(……誰だ、このノリ)
だが次の瞬間、
彼女は深く一礼した。
「今夜は、ありがとう」
そして。
花弁とともに、
消えた。
フレデリコは、何も追わなかった。
ただ静かに言う。
「……彼女の役目は、終わった」
警備が駆け込み、
教師と騎士団が到着する。
夜会は、
“華やかなまま”幕を閉じた。
だが――
俺は知っている。
今夜、盗まれたのは宝ではない。
隠されていた真実と、
それを暴く勇気だった。
そして、
花の怪盗は――
まだ、夜のどこかにいる。
俺は、そう確信していた。




