第四章 桃源郷 中編
早朝の脱出から、正午頃にはここにたどり着き、じきに日が落ちようとしていた。小さな明り取りの窓から差し込む夕日が、白木の机に朱色の影を落としている。
ティセルは椅子に座り、その白木の机に足を掛けたまま、じっと動かずにいた。何を話しかけても答えようとしないティセルに、ライカも根負けしたようで、部屋の隅に座り込んだまま、黙ってティセルを見つめている。
大きな白木の机と、壁際にぎっしり並べられた本棚、その他にはベッドがあるだけの簡素な部屋だ。ただ綺麗に手入れされた羽ペンが、主の帰りを待つように几帳面に並べられている。
「ここがリオンの使ってた部屋なのね?」
扉を小さく軋ませて、フムルが入ってきた。ライカはふとその方向に顔を向けたけれど、ティセルは相変わらず一瞥さえせずに黙りこくっている。
「あいつらしいわねぇ。金持ちのお坊ちゃまのクセにインテリアとか全く興味なくて……。殺風景な部屋だわ」
そう言いながらフムルは部屋の中を一通り見て歩くと、ティセルの向かい側に腰を下ろした。
「あんた……いい加減にちゃんと話したらどうなの? アベルってやつにだいたいのことは聞いたわ。リオンと2人で封印図書館に忍び込んで……その後どうなったの? あんたの顔を見てれば、見通しが明るくないことくらいはわかるわ。でも、こんなところでしょぼくれてたって仕方ないじゃない? ほんの少しでもまだリオンを救える可能性があるなら、あたしはこんなところで泣いてるだけなんて嫌。絶望的な状況だって……まだ諦めるのは早いんじゃない? あんたの言うとおり、まだリオンが死んだと決まったわけじゃないのよ。ダメ元でもいい。助けに行きましょうよ! リオンはどこ? 教えて頂戴!」
諭すように、懇願するようにゆっくりと語りかけるフムルの言葉に、ティセルはやっと顔を上げた。
「別に泣いてなんかない」
青白く生気のない顔で、ティセルは天井を仰いだ。確かに泣いてはいなかったが、その疲れきった顔には、彼女の絶望感が滲み出ているようだった。
「リオンなら処刑場に置いてきたわ。助けに行きたければ行けばいい。でも……あの出血量じゃ助かりっこない……」
力ない声でそう言って、ティセルは目を閉じた。
「助からないかどうかなんて、あんたが決めることじゃないわ! でも、置いてきたって……。どういうことなの? リオンは怪我をしていたの? 足手まといだからって置いてきたんじゃないでしょうね!?」
フムルは強く机を叩いて大きな音を立てた。その音に驚いてライカがびくりと身をすくめる。ティセルもはっと目を開けると、苦々しい顔をして、机を蹴って立ち上がった。
「足手まといだったのは私の方よ! 大賢者たちの罠にかかって、2人とも捕まった。でもリオンには助かるチャンスがあったのよ。その手で私を殺せば、命だけは助ける……それが条件だった。でも、リオンはそうしなかった。土壇場で禁呪……確か鮮血の盟約とかいうのを使って私を助けた。一緒に逃げられたはずなのに……私を追っ手からから遠ざけるために、あいつは処刑場に残ったのよ。魔法のことはよくわからないけど、自分の血を霧にして敵を攻撃する魔法だとか言ってたわ。相当の量の出血だった。今までに私は何人も殺してきた女よ。どのくらいの血液を失えば絶命するかくらい……よくわかってる」
そこまで一気にまくし立てると、ティセルは再び力なく椅子に腰を落とした。机に肘をつき、両手で頭を抱えて俯く。
「無理やりにでも連れてくるんだった……。違う……それよりも、私なんか助けなければよかったのよ。こんな無謀な作戦……乗るんじゃなかった」
重苦しい沈黙だった。ティセルもフムルも、ただ俯いたまま黙り込んでいた。その中で、ただライカだけが何か驚いたような顔をして立ち尽くしている。
「今……何て……? 先生は……あれを使ったの? ……鮮血の盟約?」
ライカがうわ言のようにぶつぶつと言いながら、ティセルの側へ歩み寄る。そしてその肩に手を置くと、軽く揺さぶった。
「ティセル? 確かなの? 鮮血の盟約? あの邪法・鮮血の盟約を……? 嘘でしょ? そんな……」
「しつこいわね! 確かにそう言ったわ。最後の切り札だと……」
しつこく肩を揺さぶるライカの手を払いのけると、ティセルが苛立った声を上げた。そんなに強く払ったつもりもなかったが、ライカはその勢いでふらふらと床に尻餅をつく。そしてその瞳から、大粒の涙が頬を伝った。
「それじゃ……やっぱりもう先生は……。もう……帰ってこない……」
誰に言うともなく虚ろな目で呟くライカに、フムルが勢い込んで掴みかかる。
「ちょっと、鮮血の盟約ってなんなのよ? そんなにやばい魔法なの? 出血多量がなんなのよ!? あたしはこの目で死体を見るまでは諦めないわよ!!」
ライカは床にへたりこんだまま、ぼんやりと独り言を言うように話した。
「死体なんて残らないよ。オレが先生に魔法を習い始めた頃、聞かされたんだ。禁呪ってものの恐ろしさを教えるためにね。それほど残酷で恐ろしい魔法なんだ。攻撃に使われるのは血液だけじゃない。体全部なんだ。肉も骨も髪さえも……、全部を霧に変えてしまう。長い歴史の中で何人もこの禁呪を使った人はいたけど、自分の体が蝕まれて崩れていく痛みと恐怖に耐え切れず、最後まで術を使いきった人は数えるほどしかいないんだって……。たいていは途中でコントロールを失って、無意味に暴走した挙句に死んでしまう。禁呪っていうのは強力ではあるけど、命を代償にするものがほとんどだし、制御するのが難しすぎて使いこなせないものばかりだと……。だから使う価値もないし、絶対に使ってはいけないって……先生がそう言ったのに……」
それでもフムルは、まだライカの肩を揺さぶりながら問いかける。しかしその手にも声にも、力強さはなかった。
「まだ本当に死んだかどうかわからないじゃない。途中でやめたかもしれないじゃない。あいつのことだもの……、さんざん心配させておいて、ひょっこり帰ってくるかもしれない。そうよ……きっとそうに決まってる」
フムルの力ない呟きを、まるで嘲笑するかのようにライカは小さく笑った。
「一度発動したら……途中で止めることなんてできないんだよ。先生は死んだ」
もうフムルもそれ以上は何も言わなかった。いつの間にか最後の希望すら打ち消すように、机に落ちた朱色の影も消えていた。
「馬鹿な男だわ。無駄死にね。結局目的を達せないんじゃ、意味がない。自分を犠牲にしてまで私を助けたって、私は別に感謝もしない。こんな捨てても構わない命なんかをね……。馬鹿な男……」
それまで黙りこくっていたティセルが、苛立った声で言って立ち上がった。そしてカツカツとブーツの踵を鳴らして早足に歩き出す。
フムルは不快を隠さぬ表情でさっと顔を上げ、何か言おうとした。しかし俯いたまま早足に部屋を出て行こうとする彼女の顔を見ると、ふと哀れむような顔をして口を噤んだ。
「ティセル、どこへ行くの?」
代わりにライカが重い首をもたげて問いかける。しかしそれにも構わずティセルは部屋を出て行った。
ライカはしばらくぼんやりと彼女が去った扉を眺めていたが、思い出したように立ち上がって彼女を追おうとした。その手をフムルが掴む。
「放っておきなさい。女の子には……涙を流す時間が必要なときがあるのよ」
日も暮れて辺りはすっかり宵闇に包まれている。ディープの一角にある酒場にティセルの姿があった。
煌々と明かりの灯る店内は活気に溢れ、古びた蓄音機からは華やかな舞曲が流れている。グラスの触れ合う音。賑やかな笑い声。酔客が突然大きな声で歌いだす。その聞くに堪えないほど調子外れの歌に合わせて踊りだす女。周囲の音に負けじと大きな声で何か議論する男たち。
そんな喧騒の中、ティセルはただひとりカウンターの隅に座り、透明の液体を満たしたショットグラスを虚ろな目で見つめている。たいして呑めもしない酒を無理に飲んだせいか、こころもち青ざめた顔で頬杖をつく彼女を気に留める人もいない。
彼女は徐に前髪をかき上げながら重い溜息をつく。それからグラスの酒を一息に飲み干した。まるで消毒薬のような臭気を放つその液体は、喉に焼けつくような刺激を残す。思わず咳き込んだ拍子に、何かがポケットから落ちた。
それはさっき返されたばかりのシガレットケースだった。落ちた拍子に蓋が開き、中から何かが覗いている。拾い上げてみると、入っていたはずの煙草が抜き取られ、代わりに小さなビロードの包みが入っていた。怪訝な顔でその包みを開けて、ティセルははっと目を見開き、動きを止めた。
そこに入っていたのは指輪だった。白金のリングに燃え立つような赤いルビーを埋め込んだ、美しい指輪だった。
ティセルは胸に込み上げてくるものを噛み殺すように唇を歪め、包みごとその指輪を握り締めた。そして空のシガレットケースを力任せに床に投げつける。
ガチャンと不快な金属音を立てて、それは少し離れたところで何やら熱心に話し込んでいる青年の足元に落ちた。彼は音に気づいてそれを見ると、いかにも人の良さそうな笑顔をティセルに向けた。
「煙草切れかい? よかったら俺のを吸いなよ」
そう言ってカウンターに置いてあった自分のシガレットケースから煙草を1本取り出し、彼女に差し出す。ティセルは黙ってそれを受け取ると、促されるまま青年の差し出したマッチで火をつける。
そのまま何事もなかったように青年はまた隣の友人らしき男との話を再開した。ティセルも何も言わず、少し俯いて煙草を持った自分の手元を見つめる。
安物の煙草の火口から、湿った草を焼くような青臭い煙が上がっている。白く揺らめく煙をぼんやりと眺めていると、不意に頭の中にリオンの声が蘇ってきた。
「それを消してください。話はそれからです」
「消しなさいと言っているんです!」
「どうして君は自分を大切にできないんですか!?」
思い出すともなしに、あの日のリオンの言葉を思い出す。お節介焼きで鬱陶しい話ばかりするリオン。煙草の代わりに指輪なんて返してよこして、煙草を止めろとでも言うのだろうか? 死んだ後までも余計な世話を焼くというのか……。
ティセルはそんなことを考えてふっと苦笑いをしたが、それは今にも泣き出しそうに歪んだ微笑だった。
「リオン……!」
我知らずのうちにその名前を呼んで、ティセルはカウンターに突っ伏した。ずっと堪えていた感情が胸に押し寄せて、涙となって零れ落ちていく。一度溢れ出した涙は堰を切ったようにとめどなく流れ、その身を震わせる。
ティセルは自らの両腕に顔をうずめ、声を殺して泣いた。夜が更けるに連れて更に賑やかになる喧騒の片隅で、ただ小さな肩を震わせるティセル。そんな彼女の姿を気に留める人間がいないことが、今の彼女にとっては幸いなことだった。




