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4話

うん。うん。うん。

「くそ、くそ、くそ! あの女、よくも僕ちゃんを殴ったな!」


男は苛立ちを隠そうともせず、近くに転がっていた木箱を蹴り飛ばした。


木箱は派手な音を立てて砕け散り、その破片が路地に飛び散る。


辺りが暗くなり始めた頃。


そこには首飾りや指輪といった高価そうな装飾品を大量に身につけた、不気味な男がいた。


男の顔はあちこちが腫れ上がり、見るも無惨な有様だ。


「だいたい、なんなんだ。あの怪物は。たった一人で、何十人も引き連れた僕ちゃんの精鋭がやられるなんてあり得ない」


男は腫れた頬をさすりながら吐き捨てる。


そしてふと、あの場で見た光景を思い出した。


「ああ、そうか。あの隣にいた男がやったのか」


歪んだ笑みが男の顔に浮かぶ。


「復讐してやる」



――


「ひっく……ひっく……俺は最高の騎士だぁ~。ひっく」


空は明るく、燦々とその存在を主張している真昼間。


酒に酔った警備隊長が、千鳥足で街をふらついていた。


「ったくよぉ……ひっく。この俺がせっかく見逃してやったのに……ひっく。成果の一つも上げやしねぇ……ひっく」


カツ、カツ、カツ――


どこからともなく足音が響く。


「誰だぁ……ひっく。出てきやがれぇ……ひっく」


「げへっへ。あんたが噂のサミュエルか」


サミュエルの前に現れたのは、紙幣らしきものをうちわ代わりにあおぎ、首飾りや指輪といった高価そうな装飾品を大量に身につけた男だった。


その顔には不気味な笑みが張り付いている。


「噂はかねがね聞いていますよ。あなたも苦労しているようですね」


男はわざとらしく肩をすくめる。


「無能な部下のせいで、いまだに隊長の座に留まっている」


明らかな挑発だった。


だが酔ったサミュエルは気づいているのかいないのか、ぼんやりと男を見つめている。


「復讐したくはありませんか?」


「復讐だぁ……ひっく?」


「ええ、ええ。そうですとも」


男の口元が吊り上がる。


「あの男――叶結をやりませんか?」


そう言って男はサミュエルへ手を差し出した。


その手には金貨が詰まった粗末な麻袋と、一枚の写真が握られている。


そこに写っていたのは、まぎれもなく叶結だった。


――



「結局、何も見つかりませんわね。」


シャルロットが小さく息を吐く。


俺とシャルロットは、昨日と同じ路地を調査することにした。


昨日は日も落ちていたため見落としていたものがあるかもしれない。そう考え、壁や地面、物の配置に至るまでくまなく調べたが、結局これといった手掛かりは見つからず、手詰まりになりかけていた。


「空振りか……」


時間が経ち、かすかに残っていた血の匂いも消えている。


まるで最初から何もなかったかのようだった。


俺は頭に手を当てながら呟く。


「魔法みたいだな」


あの少女は確かにここにいた。


見間違えるはずがない。


少女を見た瞬間、本能的に理解したのだ。


――俺を殺したのは、あの少女だと。


あの時に感じた背筋を走る悪寒も本物だった。


なのに、今はその気配すら感じられない。


「ねえったら」

「え?」


「ここには何もなさそうですし、一度ここを離れませんこと?」

「そう、だな」


夢の中で出会った少女。


そう思っていたはずなのに、今ではそれ以上の存在になっている気がした。


だからこそ――。


あの少女の正体を突き止めたい。


そして、この世界で起きていることの真相を知りたい。


そんな思いが、いつの間にか俺の中に根付いていた。


思えば、なぜ俺はここまで本気で調査をしているのだろう。


ふと、そんな疑問が頭をよぎる。


シャルロットが会長だと分かったからか?


いや、それよりもっと前からだったはずだ。


夢の中だけでも幸せでありたい。


いつからか、それが俺の口癖になっていた。


だというのに今の俺はどうだ。


傷つくかもしれない。


また死ぬような目に遭うかもしれない。


それでもシャルロットと共に、俺を殺した少女の行方を追っている。


これは、俺が俺自身を否定する行為なのかもしれない。


あるいは逆に、本当の俺を形作る行為なのかもしれない。


俺にとってシャルロットは、もはやただの夢の住人ではない。


少なくとも知り合い以上の存在になってしまった。


だから、この夢の世界だけでも彼女に幸せでいてほしい。


もちろん、現実世界の会長は何もかもうまくいっているように見える完璧な人だ。


だから俺の考えは見当違いなのかもしれない。


それでも――。


これは俺のわがままなのだろう。


シュルシュル――。


「蛇? 珍しいな」


路地裏を抜けようとした時、視界の端に白蛇が見えた。


縁起が良いと言われる白蛇。


どうせなら、その運をあの少女を見つけるために使いたいものだ。


「ほんとうですわね。蛇なんて、今まであの占い師が飼っているものしか見たことがありませんわ。」

「マジシャンじゃなかったか?」


そんな会話をしているうちに、蛇はいつの間にか姿を消していた。


再び沈黙が訪れる。


「どうすれば犯人を見つけられますの……」


シャルロットから漏れた一言が妙に重く感じられた。


焦りか、不安か。


あるいはその両方か。


俺も答えを持っていなかった。


そんな重苦しい空気を壊すかのように、一つの声が聞こえてくる。


「おやおや。これはこれは探偵にその助手さん。数日ぶりですね」


声のした方向へ目を向ける。


そこには隊長が立っていた。


「調査は順調かね?」


ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべる隊長。


その目には、どこか嫌な色が宿っていた。


「こう見えて私は君たちを買っているんだ。見回りをしている時にたまたま見かけてね。少し声を掛けさせてもらったというわけさ」


その言葉を聞くだけで、胸の奥がざわつく。


「俺たちはそんな仲じゃないでしょう。証拠は必ず見つけます。それでは」


俺ははっきりと拒絶の意思を示し、その場を離れようとする。


「へぇ?」


隊長は意味深に笑った。


まるで何かを試しているような、そんな笑みだった。


「叶結、行きますわよ。」

「そうだな」


シャルロットの警戒心も高まっているのが分かる。


俺たちは足早にその場を離れようとした。


予想に反して、あっさりと隊長の横を通り過ぎることができる。


少しだけ安堵しかけた、その時だった。


「時に――なぜ我々に調査報告をしに来ないのかね?」


背後から投げかけられた声。


その瞬間、空気が変わった。


振り返ると、いつの間にか数人の衛兵が周囲を囲んでいる。


逃げようと思えば逃げられるかもしれない。


だが、それをすれば俺たちの立場は決定的に悪くなる。


下手をすれば容疑者扱いだ。


俺とシャルロットは顔を見合わせる。



隊長は口元に僅かな笑みを浮かべていることを知らずに、隊長について行くしかなかった。


――



しばらく隊長たちについて行くと、薄暗い建物の中へと通された。


兵士たちは誰一人として俺たちと目を合わせようとせず、隊長だけがズカズカと先へ進んでいく。


「貴様はこっちだ」


地下へ続く階段にたどり着くと、シャルロットだけが別の方向へ連れて行かれた。


「叶結!」


不安そうな声が聞こえる。


「大丈夫だ」


そう答えたものの、自分でもまるで説得力がないことは分かっていた。


「ついてこい」


隊長に促され、地下へと足を進める。


降りれば降りるほど空気は冷たくなり、胸の奥で嫌な予感だけが膨らんでいく。


やがて小さな部屋の前で足が止まった。


中には机が一つ。


それを挟むように椅子が二脚置かれているだけの簡素な部屋だった。


だが、その中央には場違いな男が座っている。


紙幣らしきものをうちわ代わりに扇ぎ、首飾りや指輪などの高価そうな装飾品をこれでもかと身に着けた小太りの男。


見覚えがあった。


「ここは……」


「さっさと入れ」


「う、ぐっ!」


突然、背中に激痛が走る。


隊長に蹴り飛ばされたのだ。


勢いのまま部屋へ転がり込む。


きぃぃぃ――バタン。


重い扉が閉まる音が響いた。


「げへへ……ようやく来たか」


その声に聞き覚えがあった。


俺はゆっくりと顔を上げる。


そして男の顔を見た瞬間、全てを理解した。


――嵌められた。


「お前は、あの時の……」


「へぇ~。覚えてたか」


男は下卑た笑みを浮かべる。


「そうだ。よくも僕ちゃんを殴ってくれたなぁ……」


チンピラたちが『親分』と呼んでいた成金風の男。


間違いない。


疑問が浮かぶより早く、男は椅子にふんぞり返ったまま続けた。


「俺は寛大なんだよ。だがな、一つだけ許せねぇことがある」


隊長の目が細くなる。


「それは俺を騙すことだ」


背筋に冷たいものが走った。


「俺が人を騙すのはいい。だが、人に騙されるのは大嫌いなんだ」


ニタリと笑う。


「成金さんは親切な人でなぁ。わざわざ教えてくれたんだよ。お前が俺を騙してたってな」


隊長が肩をすくめる。


「協力者の相談に乗るのも仕事のうちでね。それに、街のためと寄付までしてくださっている方だ」


それを聞いた瞬間、全てを理解した。


――



「よくも、この僕ちゃんを……!」


成金は顔を真っ赤にしながら机を叩いた。


「よくも恥をかかせたな! どれだけ金を使ったと思ってるんだ!」


癇癪を起こした子供のように喚き散らす。


「みんなお前を怖がって僕ちゃんの言うことを聞かない! 全部お前のせいだ!」


俺は何も答えない。


喉が締め付けられる。


暴力を前にすると、幼い日の記憶がどうしても蘇る。


目の前で両親を失った、あの日の光景が。


逃げたい。


身体が震える。


それでも、目だけは逸らさなかった。


「……なんだ、その目は」


成金の表情が変わる。


「僕ちゃんを馬鹿にしてるのか!」


拳が振り下ろされる。


鈍い衝撃が走る。


続けざまに蹴りが飛ぶ。


床へ倒れても、成金は怒鳴りながら何度も蹴りつけた。


「その目をやめろ!」


「僕ちゃんをそんな目で見るなぁ!」


息が詰まる。


身体は震え、思うように動かない。


それでも俺は目を逸らさなかった。


「……いたそうだな。その辺にしておけ」


隊長がぼそりと呟く。


成金は振り返り、苛立ったように怒鳴る。


「うるさい! こいつは僕ちゃんに恥をかかせたんだ!」


「黙れ。俺は隊長だぞ」


隊長は腕を組み、面倒くさそうに鼻を鳴らす。


「俺の言うことを聞かないなら、お前も処刑にするぞ」


その一言に成金の顔が引きつる。


「くっそ……」


歯ぎしりをしながら俺を睨みつける。


「覚えてろよ……!」


吐き捨てるように言うと、腹へもう一蹴りだけ入れた。


「……だったら、今日だ」


成金は荒い息のまま吐き捨てる。


「今日、広場で処刑しろ。」


隊長は面倒そうに頷いた。


「わかればいい」


――



広場へ出ると、すでに大勢の住民が集まっていた。


誰もが俺を見ている。


軽蔑。


好奇心。


そして、一部の人間はどこか哀れむような目を向けていた。


この事件が冤罪かもしれない。


そんな噂を耳にしている者もいるのだろう。


だが、その視線が俺を救うことはない。


隊長は面倒くさそうに前へ出ると、一枚の紙を広げた。


「罪人、叶結。強盗だの暴行だの……と、なんか色々な罪がある。よって処刑だ」


読み終えると紙を雑に丸める。


誰一人として異を唱える者はいなかった。


「殺せ!」


「さっさとやれ!」


「悪人に情けなんていらねぇ!」


次々と野次が飛ぶ。


小石が一つ、俺の足元へ転がる。


続いてもう一つ。


やがて誰かが投げた石が肩に当たった。


痛みは大したことない。


それでも胸の奥が、ゆっくりと軋んでいく。


違う


俺は何もしていない。


そう叫びたいのに、喉は動かなかった。


また石が飛んでくる。


誰かが笑う。


誰かが罵声を浴びせる。


その一つ一つが、心を削っていく。


やがて、自分が本当に罪人なのではないかと錯覚し始める。


違う……


そう思う気持ちすら、少しずつ薄れていった。


その時だった。


「隊長! 大変です!」


一人の衛兵が息を切らしながら駆け込んでくる。


「やつが脱走しました!」


「なんだって!? それで、やつって誰だ?」


「あの怪物女です!」


そんな会話が耳に入る。


……もう、どうでもいい。


俺は死ぬのか。


「叶結!!」


張り裂けそうな叫びが広場に響く。


顔を上げる。


そこには汗と涙を流しながら必死に駆けてくるシャルロットの姿があった。


「シャルロット……逃げろ」


掠れた声で呟く。


届かないと分かっていても。


そこにいたのは、紛れもなくシャルロットだった。


「待っていなさい! 今助けますわ!」


その一声で広場がざわめく。


「あいつ誰だ?」


「罪人の仲間か?」


「まさか助けに来たのか?」


先ほどまで俺へ向けられていた好奇の視線は、今度はシャルロットへと集まる。


そして好奇心は、すぐに軽蔑と敵意へ変わっていった。


「仲間ならあいつも捕まえろ!」


「悪党がもう一人いたぞ!」


隊長は慌てて辺りを見回す。


「な、何事だ!?」


その横で成金だけが口元を歪めた。


「っふ、バカめ。大人しくしていれば、あとで僕ちゃんが可愛がってあげたものを」


成金は隊長へ怒鳴る。


「さっさと止めろ! 殺すなよ! あいつは僕ちゃんのものだ!」


その命令と同時に、大勢の衛兵が一斉に剣を抜いた。


鋭い切っ先がシャルロットへ向けられる。


それでも彼女は止まらない。


一歩。


また一歩。


立ちはだかる衛兵を次々となぎ倒しながら、真っすぐ俺だけを見つめて進んでくる。


その姿に、衛兵たちの表情が変わった。


恐怖だった。


思わず剣を振るう者。


後ずさる者。


腰を抜かす者。


統制はあっという間に崩れていく。


「ひ、ひぃ!」

「こ、殺せ!」


誰かの悲鳴が響く。

それでもシャルロットは止まらない。

やがて処刑台の目前まで迫る。


「く、来るな!」


隊長は腰が引けたまま剣を振り回す。狙いなど定まっていない。ただ恐怖に任せて腕を振っているだけだった。


その刃が偶然、処刑台の装置を支える縄を断ち切る。


「え、あ……」


思わず声が漏れた。


俺は静かに目を閉じ――ふと、人混みの奥に違和感を覚えた。


そこだけ空気が違う。


世界から切り離されたような、不自然な静けさ。


深くフードを被った、一人の少女。


陽光が降り注ぐ広場に立っているはずなのに、その姿だけはまるで光の届かない場所にいるようだった。


フードの隙間から、サイドテールに結ばれた金色の髪だけが、不自然なほど鮮やかに輝いている。


薄いベールに隠された表情は見えない。


首元には黒い蛇が静かに巻きつき、腰には対になるように白い蛇が寄り添っていた。


まるで、この世界の住人ではないかのような存在感。


――あの少女だ。


どうして、ここにいる。


俺が見つめると、少女もまた静かにこちらを見つめ返していた。


やがて、その口元がゆっくりと動く。


何かを話した。


だが、その声は届かない。


それでも、不思議と頭の中には、以前聞いたあの言葉だけが鮮明によみがえった。


『この夢は幸せかい』


そう言っているように聞こえた。


以前、あの少女と別れ際に告げられた言葉。


あの時の俺は、迷うことなく幸せだと思えた。


シャルロットと出会い、この夢の世界で過ごす時間は、現実では得られない穏やかな日々だったから。


でも、今は――。


その問いに答えることができなかった。


ただ一つだけ。


死ぬのか


夢だと分かっている。


それでも――。


死ぬことには、慣れないな……


「いや、だめ! 叶結!!」


シャルロットの悲痛な叫びを最後に、俺の意識は静かに途切れていった。


――


現実へ戻るなり、俺は真っ先に生徒会室へ向かう。


昨日、悠斗から聞いていた。


会長は朝の挨拶の前に、一度生徒会室へ立ち寄る、と。


廊下を駆け抜ける。


息が切れる。


それでも足は止まらない。


「はぁ……はぁ……」


勢いよく生徒会室の扉を開け放った。


「シャルロット!」

「――それで今月の目標は……」


部屋の中にいた数人の生徒が、一斉にこちらを振り向く。


その中央には――


シャルロット。


いや、西園寺夢依会長が立っていた。


その姿を見た瞬間、全身から力が抜けそうになる。


夢だったから戻ってこられた。


頭ではそう理解している。


それでも、ついさっきまで処刑台へ駆け寄ってきた彼女の姿が、脳裏から離れない。


俺は一歩、また一歩と近づく。


何を言えばいい。


目の前で死んでしまったことを謝るべきか。


助けようとしてくれたことに礼を言うべきか。


考えれば考えるほど言葉はまとまらず、頭の中は真っ白だった。


「ごめん……」


ようやく絞り出せたのは、その一言だけだった。


視界が滲む。


止めようとしても涙が溢れてくる。


二度目の死。


あれほど多くの人の前で、何もできないまま命を奪われた。


シャルロットは最後まで俺を助けようとしてくれた。


それなのに――。


「ちょ、ちょっと君!」


生徒会役員の一人が慌てて立ち上がる。


「ここは生徒会室ですよ!」


その声は、戸惑いながらも子供をあやすような優しさを含んでいた。


「大丈夫ですの?」


会長が心配そうに俺を見つめる。


「あなたは昨日の。たしか、亜麻仁叶結くんでしたわよね。」


俺は思わず顔を上げる。


「……シャル、ロット?」


その一言に、会長は不思議そうに首を傾げた。


「シャルロット……?」


その反応を見た瞬間、胸の奥がざわつく。


何かがおかしい。


昨日も、同じように彼女を「シャルロット」と呼んだ。


そして、夢を共有していることを打ち明けたはずだ。


それなにの、夢のことを打ち明ける前の会長に戻ってしまったような、そんな錯覚を覚える。


「……すみません。人違いです」


とっさにそう言って頭を下げる。


この状況に混乱しながら俺は足早に生徒会室を後にした。


扉が閉まる音が、やけに大きく響く。


昨日、この場所で夢を共有していること。夢の中で会長がシャルロットという名前だったことを話したはずだ。そして、俺があの世界の助手――叶結だということも。


全部、話した。


それなのに。


どうして会長は、何も知らないような顔をしていたんだ。





あれから、ずっと考えていた。


昼休みに会長と食事をしたことは覚えている。


それなのに、夢を共有していると打ち明けたはずの会話だけが、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。


こんなことが、本当にあり得るのだろうか。


あの出来事は俺が見た夢で、会長とはただ席が近かっただけだったのか。


――そんなはずがない。


そうわかっている。


それなのに、今日会長と話した時、俺と夢について話した記憶だけが確かになくなっていた。


「……俺が死んだからか」


ぽつりと呟く。


俺が一度目に死んだ後、初めて見た夢。


シャルロットの態度は、まるでついさっき出会った時と同じだった。


あの時は、夢の住人なのだから違和感は覚えなかった。


聞き込みをした住民たちも同じだ。


同じ質問に対し、一言一句違わない答えが返ってきた。


だが、シャルロットが夢を共有しているとわかった今なら、それがどれほど不自然なことだったのかわかる。


俺が死なずに夢から目覚めた時は、シャルロットの記憶はしっかりと引き継がれていた。


なら、違いは一つしかない。


俺が死んだことだ。


考えれば考えるほど、俺の死を起点に夢の世界が動いているように思えてくる。


「夢の中だけでも幸せでいたい」


思わず呟いた、その時だった。


「あの自称マジシャンは、なんで俺だけじゃなくシャルロットのことまで知っているんだ?」


俺の夢には、本来、俺が見たものや感じたものしか現れない。


シャルロットが俺の夢に入り込んだのだとしても、その事実を俺が知らなかった以上、マジシャンが知っているのはおかしい。


そもそも、俺はあのマジシャン自身を知らない。


そこで、一つの可能性が頭をよぎる。


「あの自称マジシャンも……俺たちと同じように夢を共有しているのか?」


「おーい……叶結! おい、叶結!」


「え?」


外から声をかけられ、ようやく授業が終わっていたことに気付く。


「今日一日ずっと変だったぞ。どうしたんだ?」


「悠斗か」


「そうだぞ。お前の大親友、高橋悠斗様だぞ」


「親友か」


「え、なんでそこだけ言い直すんだよ。俺たち親友だろ?」


「そうだな。親友かもな」


「だろ? ほら、飯だ飯。学食行こうぜ」


そう言うと悠斗は、いつの間にか教室の入り口に立ち、財布とスマホを手に俺を待っていた。


昨日と変わらない調子で学食へ行こうと誘う悠斗を見ていると、張り詰めていた心が少しだけ緩んだ。


「ああ、そうだな」


――



食堂に着くころには、すでに人が集まり始めていた。昼休みが始まったばかりだというのに、この賑わい。人気のほどがよく分かる。


「叶結、何にする?」


昨日も言われた言葉だと思いながら券売機を見る。


唐揚げ定食。カレー。うどん。それ以外にもさまざまな料理がある。


その中でも一際目立っている商品名は、お子様スペシャルセットだ。


「お子様スペシャルセット」


「そうか。昨日、物欲しそうに見てたもんな」


俺がお子様スペシャルセットを注文すると、悠斗は昨日と変わらずうどんを注文した。


――



席に着く頃には、食堂は学生でごった返していた。


少しでも来るのが遅れていたら、座れなかったかもしれない。


「よっしゃ、飯だ飯」


悠斗が割り箸を割る。


俺も箸を手に取り、お子様スペシャルセットへ視線を落とした――その時だった。


ざわついていた食堂が、不意に静まる。


まるで、誰かが音量を絞ったかのように。


昨日も似たようなことがあったな、と思いつつ視線を向けると、一人の女子生徒が立っていた。


真っ赤な髪。


頭頂でぴょこんと跳ねるアホ毛。


その特徴だけで、会長だとすぐに分かった。


「西園寺先輩だ」


「今日も綺麗……」


「やば、こっち見た?」


周囲は一気にざわめきに包まれる。


西園寺夢依。


彼女はこの空気が当然であるかのように、静かに空席を探していた。


そして、その金色の瞳が、ぴたりと止まる。


まっすぐ俺たちの席へ向けられていた。


「亜麻仁叶結さんですわね。少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか。」

「……え?」

「二人でお話ししたいことがありますの。少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか。」

「わかりました」


俺が立ち上がると、悠斗は目を丸くして俺と会長を見比べた。


「えっ!? お、お前、昨日の今日で会長と何があったんだ!」

「いや、その……」


俺が何かを言う前に、会長はくるりと背を向け、食堂を出ていく。


「ごめん」


それだけ言うと、俺は悠斗のもとを離れ、会長の後を追いかけた。

食堂の喧騒から少し離れた廊下。


人目がなくなったところで、会長が足を止める。

ゆっくりと振り返り、真っ直ぐ俺を見つめた。


「今朝、生徒会室で、わたくしのことを『シャルロット』とお呼びになりましたわね。」

「ああ」

「はっきり申し上げますわ。あなたは何者ですの?」


――もう、わかっていたことだ。


他人に接するような口調で話されるのは、少し寂しかった。


だからだろうか。


シャルロットには、俺のことを知ってほしいと思った。


「その名前を知っているはずのないあなたが、何の迷いもなくその名を口にしましたわ。」

「一つ、昔話をしてもいいですか?」

「え……」


会長の返事を待たず、俺は静かに語り始めた。


「昔々、ごく普通の幸せな家族がいました。

父と母、そして一人の男の子。

どこにでもいる、ごくありふれた家族です。

ある日、その家族は旅行へ出かけました。

楽しい時間を過ごし、帰ろうとしていた、その時でした。

一人の男が突然刃物を振り回し、多くの人を襲い始めたのです。

男の子は母親に手を引かれながら逃げました。

父親は二人を逃がすため、一人で男の前に立ちはだかりました。

けれど、誰も助けてはくれませんでした。

周りにいた人たちは見ているだけ。

中には、その様子をスマートフォンで撮影している人までいました。

父親は男に殺されました。

逃げた先で母親もまた、男の子を守るために命を落としました。

男の子は、その日、両親を失いました。

そして、その日を境に、男の子の中で何かが欠けてしまいました。

その出来事をきっかけに、男の子は不思議な力を手に入れます。

自分の夢を自由に操れる力です。

現実では手に入らなかった幸せを、夢の中でなら手に入れられる。

だから男の子は、毎晩夢を見るようになりました。

夢の中だけは、何もかも思いどおりでした。

両親が生きている夢。

笑い合う夢。

楽しい夢。

男の子にとって夢は、唯一の居場所だったのです。

ですが、男の子がとある学校へ入学した日から、その力は突然使えなくなりました。

好きな夢を見ることができなくなり、代わりに見知らぬ世界の夢を見るようになります。

そこで男の子は、一人の少女に助けられました。

少女は暴力的で、頭もあまり良くなくて、よく人を振り回すような子でした。

それでも、不思議と一緒にいると安心できた。

男の子は、そんな少女と毎日を過ごすうちに、少しずつ笑えるようになっていきました。

そして、ある日気付いたのです。

その少女は、現実世界で同じ学校に通う、一人の女子生徒だったことに。

夢を共有していた相手だったことに。

それから二人は、夢の中で以前よりももっと仲良くなりました。

けれど、ある日。

男の子は夢の中で死んでしまいます。

目を覚ますと、少女は記憶を失っていました。

男の子のことも。

夢の中で過ごした日々も。

何も覚えていませんでした。

それでも男の子は思いました。

もう一度少女と仲良くなりたい。

また夢の中で笑い合いたい、と」


俺は小さく息を吐く。


「――これが、俺の昔話です」


そして、会長の目をまっすぐ見つめた。


「俺が何者か、でしたか。

俺は叶結。

あなたの助手です」


ドクン、ドクン。


話し終えた瞬間、心臓の鼓動だけがやけに大きく響いた。


俺の過去を知っているのは恒一さんだけだった。


初めて他人に打ち明けた俺の秘密。


今になって緊張が押し寄せてきたのか、じわりと冷や汗が背中を伝う。


「そうでしたのね。あなたにそのような過去があったのですね。」


その言葉を最後に、お互い口を閉ざした。


カチ、カチ、カチ――。


時計の針だけが、静かな廊下に響いている。


「会長……」


キーンコーンカーンコーン――。


俺の言葉はチャイムの音にかき消された。


「何かおっしゃいましたの?」

「いえ、何でもないです」


小さく首を振る。


「俺は俺です。今まで通り、あなたの助手です」


予想以上に時間が過ぎていたことに気付き、俺は慌てて教室へ向かおうと踵を返す。

これ以上ここにいたら、きっと平静ではいられない。


自分の過去を打ち明けた恥ずかしさも。


受け入れてもらえなかったらどうしようという不安も。


胸の中で渦巻く感情から逃げるように、俺は足早にその場を後にした。


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