第四章 第一話
私にとっては、とうとう最終回か、です。
もしも続編希望の声をいただけたら、
そんなにうれしいことはないです。
ありがとうございました。
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見てみ、リュウ、お山の周り、トンビがようけ飛んどるぞ。……。きもっちのええ風やなあ、天気の神さん、おおきに。……。からっと晴れて、おてんとさんが燦々や、もうすぐ九月になるっちゅうのに、ありがたいことやで。……。遠くの木々が揺れてるでえ、マイナス・イオン出まくりやんけ。……。なんで返事せえへんねん。……空って、青いなあ。そらそうや、波長がどうとかの問題らしいで。……海って広いなあ。それもそうや、地球の七割を占めてるらしいからな。……霧の摩周湖ってネーミングセンス、カッコいいよなあ。いや、そこは福島県民として猪苗代湖を褒めなあかんとこちゃうん。……人の夢って、儚いよなあ。今自分で言うてもうてるやん、儚いって、人の夢って書くんやで。……。なんでさっきから、僕の関西弁、スルーすんねん、乗ってこいや。
「ちよりちゃんとのお別れの日に、トモの遊びに付き合ってられっかよ。しょうもない」
僕は少しきつい言葉で、でも普段の口調で返した。
「一時半には挨拶に来るって言ってたがら、一時二十分には待ってないとね」
うん、そう答えて、僕はまた黙った。寂しいからじゃない。怒っているからでもない。口数の少ない人間だからだ。トモも同じなので、無言の時間が続いた。パラソルが作った日陰の中で、二十年物、あるいはもっと長い間ここに鎮座ましましている、要するにぼろいベンチに座って、僕は遠い山並みを、そして空を見ていた。確かに、今日に限ってトンビが、あるいはトンビのような鳥が、複数、森の上を旋回していた。縄張り争いでもしているのだろうか? 雛を外敵から守っているのだろうか? 鳴き声は届いてはこない。ただ、風がひゅるりびゅるりとやり場のない僕たちの迷いや嘆きを気化していくだけだ。それでも際限なく新たに生まれ出てくる迷いや嘆きを、僕たちは我慢できる程度の痛みと悲しみとして受け止める。受け止めようと努力する。受け止めきれないなら、ひとまずは放っておくしかない。噴き出る汗は、その証じゃないだろうか。
あと二時間ってとこか、さあ、うちは忙しくなるから、行くね。
そう言ってトモはスーパーに戻った。ひとりになった僕はちよりちゃんを思った。トモを思った。自分の人生を思った。この世からすべての不幸がなくなればいいと、思った。その後で、いや、でもあいつらまでその恩恵にあずかられるのは不本意だ、だから僕の周りの人間だけ、いや、赤の他人が不幸になっていいわけじゃないから、僕の周りの人間と罪のない人たちだけ、いや、人間は罪深い生き物だから、それだと大多数の人間が助からないから、罪はあってもいい人だけ、でも罪がある悪い人だからって嫌な目に遭ったらかわいそうだし、でもあいつらみたいのは許せないし、だから僕が非常識だと思わない人間だけ、だと欠点・短所が露呈したときに引っかかってしまうだろうから……と微に入り細に入り考えが止まらなくなって、どうか僕を幸せにしてください、ときっかけから逸脱したものすごく独りよがりなところに着地して、クーラーの効いた店の中に入っていった。
店番をしているばあちゃんより先に昼飯を食べて、朝ドラの再放送を楽しみにしているばあちゃんが昼飯を食った後でテレビを見ている間、代わりに店番としてレジに座った。二十歳を過ぎると時が経つスピードが速くなるっていうのは本当だ。時計を見て、僕はスタッフ控室から二階にいるばあちゃんに声をかけて、それから店の外に出た。
「遅いよ」
すでにスタンバっていたトモに言われて、時計代わりの携帯電話を見た。
「まだ一時十五分だっぺ」
久澄村はこの日も最高気温が三十三度を超えていると推定できて、ちょっと外に出ただけで体が汗ばんできたので、パラソルの中に逃げこんだ。僕、コーラ、トモ。空は快晴、山並みは深緑。風をTシャツに取りこんで涼をとった。
そわそわとしている実感はある。僕は上手に笑えるのだろうか?
「あ」
「どうした、リュウ」
「あれ見でみろよ。マントヒヒが自転車乗ってる」
「えっ嘘! ……あれ僕のお母さんだっぺよ」
そんな冗談で笑っていると、遠くから車が、見紛うことなきロールスロイスが、やってきた。一時二十五分に、ついに来てしまった。巧みなハンドル操作で、とても静かに僕たちの前に停車すると、ちよりちゃんと海さんが降りてきた。
「こんにちは」声色は明るかったが、陰りのある目をしていた。ちよりちゃんはきっと涙ではなく、笑顔での別れをしようと心に決めたのだろうと容易に察することができた。僕たちも挨拶を返して、とうとうお別れをしなければいけない時が来た。大袈裟に聞こえるかもしれないけど、僕は覚悟を決めた。蝉の鳴き声が聞こえなくなった。
「とうとうこの日が来ちゃったね。思えば、海さんがうちに小説を注文しに来てくれなかったら、うちが本屋じゃなかったら、この村にお屋敷がなかったら、そのどれかひとつが欠けても起こらなかった出会いであって、そんな一億個の石ころの中からダイヤモンドを見つけたみたいな、奇跡的な確率で僕たちとちよりちゃんは出会ったわけで、つまり、そんな奇跡みたいな、言わば運命の導きによってっ出会った僕たちなんだから、たとえ物理的に距離が離れても、そんなことでたやすく壊れてしまう関係ではないわけで……」
「要するにまたねって言いたいんだよ、リュウは」
「おい。いや、まあ、確かにその通りではあるんだけど、なんていうか、もうちょい、風情っていうか、情緒っていうか、あるだろ? そういうのが」
「わかります。久澄村に来たこと、私が読書好きだったこと、リュウさんちが本屋さんだったこと、リュウさんとトモさんが友達だったこと。これが全部、運命じゃないんだったら、なんなんだろうって。偶然って言うには、ロマンチックすぎるじゃないですか」
「ほら、ちよりちゃんはわかってくれてる。トモはちょっと抜けてるよな」
「あ、悪いんだ。人に抜けてるとか言っちゃいけないんだよ。そういう悪い子のところにはお化けが出るんだよ。怖いぞ、ぬりかべが通せんぼして、夜、トイレに行けないぞ」
「幼稚園児をからかってんのか。誰がそんなんで怖がるか」
ちよりちゃんのくりくりした目から、陰りが消えた。両手で口を隠してくすくすと笑う、上品でかわいらしい笑い方で、僕とトモのやり取りを見ていた。
「まあ、とりあえず座りなよ。きったないベンチだけどさ」
「うちのベンチだ。きったないって言うな。実際汚いのは認めるけど」
ちよりちゃんはベンチに座ろうと目をやって、一歩足を踏み出して、止まった。
「あ、これね。これは僕からのプレゼント。もらってもらえるとうれしいんだけど」
「もらいます、もらいます。いらないわけがないじゃないですか」
トモが手にとって差し出したプレゼントを、ちよりちゃんは王様から褒美を受け取る家臣のように、両手で受け取った。開けてみてもいいですか? そう尋ねてから、ちよりちゃんはラッピングを丁寧に丁寧にはがして、プレゼントを取り出した。トモからのプレゼント、それは写真だ。この日のために町のデパートに行って、前もって調べておいたフォトフレームを扱ってるお店で、お店の、髭をたくわえた優しそうなおじさんに、この商品が欲しいんですけど、これに写真を入れてから、贈答用にラッピングしていただくことってできますか? と礼儀正しく確認をとって、包んでもらったプレゼントだ。水色の包装紙に包まれてピンクのリボンで結ばれたそれは、女の子に贈るにはぴったりだと思えた。
「写真。これ、久澄川で撮った、あのときの写真ですね」目が輝いた。
「そう。後で後ろのほう、よおく見てみて。河童がいるから。ピースサインしてるから」
ほんとだよ。わかりました、ちゃんと確認します。そうふざけて、トモとちよりちゃんは笑いあった。フォトフレームに座っている、小鳥を抱きしめた愛らしい犬のキャラクターも笑っていた。僕も笑ったし、海さんも笑っていた。面白いし、優しいから。
「じゃあ、今度は僕の番だ。プレゼントを用意したのはトモだけじゃないんだよ」
僕のプレゼントも、トモがしてもらったところと同じお店でラッピングしてもらった。本来なら断られるのだろうけど、向こうのご厚意で、しかも無料でしてもらったのだ。そういう親切をこともなげにできる人を「格好がいい」と言うのだ。
僕のプレゼントは、手のひらに収まるほどに小さいもので、ラッピングと言ってもリボンも何もついてはいない、小袋をテープで止めただけという、いささか味気のないものだった。ちよりちゃんは、セロテープを、やっぱり丁寧にはがして、袋を逆さにした。白魚のような手に、ポロリと乗ったものがひとつ。
「これ、ペンダントトップですよね。素敵。十字架だ」
「うん。実はそれ、僕のお古なんだ。僕が一番気に入ってるペンダント。それをちよりちゃんにもらってほしいんだ。チェーンはサイズが合わないと思ったからはずしたんだけど」
「一番気に入ってる……そんな大切なものなのに、いいんですか?」
「うん。一番気に入ってるやつだからこそ、ちよりちゃんにプレゼントしたいんだ」
プレゼントで一番大切なのは、金額ではなくこめられた気持ちだ。ちよりちゃんは記念写真を贈ったトモと、ペンダントを贈った僕の気持ちを、ちゃんとわかってくれた。
「ありがとうございます。こんなに素敵なプレゼント、すごくうれしいです」
一度、涙を拭うようなしぐさをした後で、ちよりちゃんはにっこりと笑った。それからトモとちよりちゃんで僕を挟む形でベンチに座って、時間の許す限り、話し続けた。ちよりちゃんは、この一ヶ月で三キロ太ったんですと恥ずかしそうに告白した。でも出発点がむしろ痩せすぎで、そう言われれば初対面のときより顔色もよくなって、太ったと言うよりは健康的になったという印象だと返答した。成長期なんだからダイエットなんてしないで食べたほうがいいとトモが言うと、海にも同じこと言われました、でも最近食欲が止まらなくて……。と悩んでいる様子だった。いえ、お嬢様、それはリハビリのメニューがレベルアップして、消費カロリーが増えたのが原因だと考えられるので、大丈夫です。そう言う海さんに、海さんも座ったらと勧めたのだけど、やんわりと断られてしまった。それが執事なのだろう。
当たり前ではあるが、話をしている間にも時間は流れていく。刻一刻と、お別れの時間が近づいてくる。僕たちはそれを知っているから、言葉を探して、時間を埋めようとする。
海さんが時計を見て、ため息をついた。
「お嬢様、そろそろ新幹線の時間になってしまいますので」
「わかりました」ちよりちゃんはブランコから降りるようにぴょんと飛んで、僕とトモに向き直った。向き直って、魔法の呪文を唱えた。
「また逢いましょうね」
そう、僕たちはお別れをするけど、お別れを言わなくてもいいのだ。さようならとか、バイバイとかは、僕たちにはふさわしくない。また明日会おうねって感じで、またね、そう言って僕たちはこの村で、ちよりちゃんは東京で、生活する。人生を送る。また逢う日まで。……またねもお別れの言葉ではあるんだけどね。
僕は両手を差し出して、ちよりちゃんが応えてくれて、握手をした。トモも続けた。ロールスロイスに乗ったちよりちゃんが、窓を開けて手を振る。僕たちも振り返す。また逢おうねって言葉を交わしあう。走り出したロールスロイスが、だんだんと小さくなっていく。見えなくなるまで、僕たちはずっと見ていた。ずっと、ずっと。
「手紙、何回読んだ?」
「いや、もう破れるほどに」
僕がそう言うと、トモは少しだけ笑った。僕とトモはまた例のごとくベンチに座って、九月になってもまだ燃え盛る太陽を避けながら、ぽつりぽつりと話をしていた。ちよりちゃんが東京に帰ってから十日以上が過ぎていた。手紙が届いたのが三日前なので、書いたのはこないだの日曜日ってことになる。すんなりいくとは思っていなかったけど、携帯電話の緊急時以外の使用許可は、やっぱり中学生になってから。当然、メールもラインも駄目だと言われたこと。学校に問題なく登校できたこと。体育はまだ見学だけど、リハビリを頑張っていること。僕とトモに出した手紙は同じ文面であること。写真とペンダントを大切にしていること。そして、まだあきらめずに嘆願を続けて両親を説得してラインをすると意気ごんでいること。ちよりちゃんの書いた字は、僕なんかより全然達筆で、でもちよりちゃんの人柄を表すように優しくて柔らかかった。僕は自分がいじめられっ子だったから余計な心配をしていまいがちなんだけど、それが杞憂に終わったんだと、東京でも、と言うか小学校でもうまくやれているんだと、胸をなでおろした。
夏休みが終わって、また日中は家を手伝って夜は高校に通うという日々に戻った。手紙の返事は同じ日に出そうとトモが言って、それは僕も賛成で、でも三日、まだ書けないでいた。昼間に、今日こそは書いて、明日郵便局に行ぐべよ、とトモに強めに言われて、僕は午後の間、どう書いたもんかと悩んで横になっているうちに、眠ってしまった。その浅い眠りの中で、僕は夢を見た。ちよりちゃんが僕の家に遊びに来ていて、一緒にご飯を食べて、笑って、とても元気そうで、そこにはトモもいて、やっぱり笑っていて、僕はとても幸せで、涙が出るほどに笑っていた。目が覚めて、夢の映像が急速にかき消されてしまっても、そこだけは覚えていた。眉唾物くさいが、テレビで、それがどんな夢でも、夢とはその人の願望であると、誰かが言っていたのを聞いたような記憶がかすかにだがある。実際にちよりちゃんが僕んちでご飯を食べたことはただの一度もない。だから、僕の願望なのかもしれない。いや、願望ということにしよう。何よりちよりちゃんが東京に帰ってからのこの喪失感は、決して気のせいなんかじゃない。僕は起き上がってシャーペンを握り、トモと町で買ってきたレターセットに向かった。書き出しはいまだに決まっていない。でも、ちよりちゃんが元気そうなのがうれしいことと、ちよりちゃんが東京に行って寂しくなったことと、ちよりちゃんと過ごした時間が楽しかったことは、きちんと伝えたいと思った。そして、十二歳で真面目で純粋なちよりちゃんには思いつかないであろうずるが、二十歳の僕ならではの悪知恵が閃いた。ちよりちゃん、携帯電話が中学生になるまで駄目なら、その条件を飲む代わりに、秋の紅葉と冬のスキーの時期に、また久澄村に来させてって言ってみたら? そうしたためて、僕はにひひと笑った。
〈了〉




