0話
いつもの悪夢だと女は思った。
色鮮やかなステンドグラスに彩られた白亜の大聖堂。いちばん後ろの信者席に座り、黄金のローブを身に纏った司祭の説教を聞いている。彼の頭部は黒い煙霧に包まれており正体はわからない。前方の席には大勢の信徒が集まっていたが、この異様な姿を恐れる様子もなく、みな静かに耳を傾けている。
美しい大理石の講壇で聖典を広げ、司祭は大袈裟な身振り手振りで話し続ける。右に左にと頭が動くたび、煙の粒子が黒い尾を引く。それを見つめる女の菫色の瞳は、ステンドグラスから差し込むやわらかな光に照らされ、磨かれた宝石のように煌めいている。
司祭はいったん言葉を切ると、行儀よく長椅子に座る人々を広く眺め、うなずいた。そして、頭を覆い隠す煙霧の中からふたたび低い声を発する。
「聖ムルラの書2章5節から17節」
彼は聖典を手に取ってページをめくり、朗々たる声で読み上げる。
神は、いのちなき無限の空間に降臨された。
己の頭上を天とし、足下を地とした。
神の指先からこぼれた祈り火のフラーマは
地獄の王カルカダーラの右目より生まれし業火のイグニスと
地における覇権を奪い合った。
ふたつの火は絡み合いながら地上に落ち、砕け、世界に散らばった。
砕けた瞬間の閃光は昼となり、その光が消え去ったあと夜ができた。
神は光と闇の誕生を祝福し太陽と月を天に浮かべた。
夕星の歌を聴き流した涙はやがて海となった。
両の腕で水を掻けば、それが波となった。
神は水底から巨大な岩を引き上げ、己の玉座と寝床をこしらえた。
それが大陸となった。
茫漠たる平原の褥に横たわり大海につま先をひたした神は
地と水につぎつぎと生命を産みおとしながら言われた。
“汝、わが子ならば応えよ。然らば照らし、導かん”……
朗唱が終わると、信徒が一斉に女の方に振り向く。
彼らは山羊の目で彼女を見つめ、大声で笑い出した。
聖堂内に狂風が吹く。哄笑が響き渡るなか立ち上がった女は、外へと続く大扉の方に後ずさった。向けられる多くの視線に耐えきれず踵を返し駆け出した瞬間、誰かに背中を突き飛ばされ床に倒れる。痛みを堪えてまぶたを上げると、黄金の靴の輝きが目に飛び込んでくる。
地響きと共に聖堂が大きく揺れはじめた。天井のステンドグラスが割れ、色とりどりの硝子が降りそそぐ。山羊の顔をした信徒たちはその雨を受けて、血を流しながらはしゃいでいる。
金色に光る靴の先端が、女の顎下に触れた。頭を持ち上げた彼女は風に乱れる亜麻色の髪の隙間から、黒い頭の司祭を茫然と見つめる。そして、口の中で小さく繰り返した。
これは夢だ。夢だ、夢だ、夢だ……
「夢だ……」
ベッドに横たわる女は自分の声で目を覚ました。
悪夢の名残を味わいながら、淡く光る菫色の瞳で室内を見渡す。腐りかけた床板の上に硝子片が散らばっている。
星を撒いたようなその輝きを見つめたまま、静かに身を起こした。明るい方に顔を向ければ、レースカーテンが外からの微風に揺れている。夜闇に満たされているはずの世界は煌々と燃え、硝子が割れ落ちた窓から男たちの怒声が断続的に飛び込んでくる。室内を満たす荒々しい光を受けて、女の美しい亜麻色の髪は夕陽を浴びたように輝いた。
彼女はすこしのあいだ身じろぎもせず項垂れていたが、やがてベッドの脇に落ちているブーツを手繰り寄せた。緩慢な動作でそれに足を突っ込むと、硝子の破片を踏み締めながら割れた窓に近づく。
表から投げ入れられた石を拾い上げ、風に揺れるカーテンの隙間から庭を見下ろした女は、まぶしさに顔を顰めた。いくつもの篝火が焚かれ、燃え盛る炎が闇を照らしている。昼にも負けぬその明るさの中に大勢の人間がひしめいていた。松明や武器を天高く翳しながら、この屋敷を取り囲むようにして騒ぎ立てている。
手の中からこぼれた石が床に落ち鈍い音を立てた。揺れ動く怒りの火を見つめながら、おもむろに胸ポケットを探る。
取り出したのは銀の懐中時計だ。手指でしっかり握りしめ、傷だらけになった金属の蓋に唇を寄せる。
濡れた睫毛を伏せた女は、忘れ得ぬ姿をまぶたの裏に見た。
「リュシアン……」
冷たい吐息と共に名を囁くも、返事はない。
思い出の影がせつなく脳裏をよぎった。絶望に震える女の心は打ち寄せる記憶の波に攫われ、愛おしくも残酷な過去へと呑み込まれていく――




