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2話

 私は呆然としながら自らの研究室に戻った。しばらくは先ほどの衝撃的な予言のせいで思考に纏まりがなかった。精神の安定をはかるために教材を機械的に整理しながら、たまに本棚を意味もなく見渡し、私は気まぐれで手に取った学会誌に載った自らの論文を読み返した。『MTの身体感覚についての人類学的考察』は私が学生の時分に書いた代表作となる。しかし検証するのに必要な前時代の資料の少なさを仮想的場面で埋め合わせていると指摘されてその妥当性が問われていた。今ならもっと違うアプローチから論考を進めていただろう。こうして読み返してみると今もなお煌めくものを感じるから、もっと時間をかけて温めておく必要があったのかもしれない。そしてそれが今だとしたら、と私はふいに思ったが、まるでそうすることで来たるべく未来を受け入れたと認めたように思え、冊子を閉じて本棚に戻した。

 私は机のうえを片付けると、学生達から回収した評価アンケートを読み、質疑の欄に返答を書いた。MTの学生から質問が多く寄せられ、なかには学術的な内容とは関係せず、私個人に対する質問もあった。これはMTの若者にとって安定した職を得られる者は、理由を問わずにひとつの参考すべきモデルとされているからだろう。鈴成理子からも質問があった。その文章はどの学生よりも重みのある白パンのようにみっちりと文字が詰まっていた。

『先生はスマホを例にだして名称から前時代の影響を説きましたが、やはり私はもうひとつ納得がいきませんでした。というのも、やはりスマホの名称が何だって構わないからと思ったからです。(もちろんクルードはいけませんが、それは差別表現だからです)もしそれによってスマホの言語的意味を知らずとも、私たちはそれがどんな機能をしているのかを知っていたら名前なんて何であれ困ることはありません。たとえば先生はゲールルゲームをしていた学生に思念で注意をされましたが――私はこれにちゃんと気づいていましたよ?――ゲールルという言葉は語源が何かを私はまるで知りません。そうした知らないでいる言葉が私にはたくさんあります。しかしゲールルゲームが何かは私も知っているのです。知識が豊富である先生だって、それはきっと同じ事で、その様な言葉はたくさんあるはずで、そんなことにいちいち取りかかっていたら短い人生はそれだけで終わってしまいます。それなのに旧科学時代のことを取り上げるために先生は私たちにスマホを持ち出したように思えてならないのです』

 これに私はこう返した。

『忌憚なき質問をありがとう。たしかに貴方の言うとおりスマホの語源を知ることでこの機能が変わることも無ければ、それを知ったところで貴方に得なこともないでしょう。そしてもちろん私も名称の意味をろくに知らないまま使っている道具の方が多いことは確かです。しかし言葉によって世界は分節され、認知されるのだとしたら、スマホの機能は変わらずとも、その成り立ちを知った貴方は、以前の知らなかった貴方とはたしかに変わったことになるはずです。……もし詳しく知りたければ、まずはソシュールを読むことをお勧めします。これは前時代の言語学者の名前で、先のことを研究して生涯を捧げた人になります。図書館にある私の推薦図書コーナーに彼の本がありますのでよければどうぞ』

 私は書きながら、先ほどの一件のことを思い出していた。死を定められた精神的高揚によって、違法植物を吸引したかのように、自然と笑みが生じて手が震えた。文字がミミズのように乱れ、消し、またその上に乱れた文字が記された。

 その日はそれ以上集中力が継続せず、仕事をやめて自宅へと帰ることにした。その際はレクサスを使うことはなかった。巨大な扇子が上空を飛んでいたら、一目でMTであることを吹聴するようなものだからだ。もちろん私は別にMTであることを隠しているわけではないのだが、それでも敢えてゴシップ好きな同僚や学生たちの噂の種になるつもりはなかった。ましてやこの時は篠田真守に話を聞いた後だったから、あまり目立つことはやめた方が良いという考えもあったわけだ。

 そのため四十分間の徒歩は、時として私を肉体的・精神的疲労に追い込んだ。特に今年の四月の冬の寒さには身が縮み上がる思いで、インナーに着ているエアコンも安物だから気休めにもならない。かつて日本には春夏秋冬という四つの季節があり、四月は春の季節だったらしいから、つまり今の季節は夏冬だけになって巡り方も逆転したことになる。きっとその頃なら今はもう絶滅したとされる桜だっていくらでも拝めたことだろう。

 歩いていると、遠くからマサールの音が聞こえて通過した。駅前では横断幕を手に持って提げた若者たちが横一列に並んでいる。その横断幕には『今こそ科学の力を!』と刺繍されてあり、そうした集団の一人は拡声器を持って声高に演説をしていた。それが拡声器であると知っているのは旧科学に長けた私ぐらいのもので、通りがかる人々の多くは、嫌悪感を示しながらも、どこか物珍しそうな顔をしてその機器を眺めていた。

「これを見よ! これは前時代に新幹線と呼ばれていた大型車両である! 小中学校の歴史ではこれをマサールと呼び、自分たちエリートATたちの発明だと教えるが、しかし鉄から大理石に変えて電力を使わないだけで、この構造そのものは科学の時代から殆ど変わっていない! 何もマサールだけではない。……クレメントリ、ハキマスン、ファイド、世界は隠蔽された科学で溢れている! そうしたことを省みずに旧科学は無意味であり、シーマだけが真に価値あるものとしているのは、まるで他人の袴を我が物顔で履いてしまう、そんな下劣な行為ではないか? 実に厚顔無恥で不当なことである! 我々は科学主義団体である。MTの同胞諸君よ、虐げられてきたAT達よ、今こそこの非合理の時勢のなかで立ち上がるときだ! 電気と石油と金属と原子力の前においてシーマによる差別は決してあり得ない!」

 少ない拍手が聞こえた。

「そうだ、我々もアメリカとロシアを見習うべきだ! 新科学万歳!」

「万歳!」 

 そのとき私はどんな顔をしていたのかわからなかった。AT優勢思想の一派もそうだが、新科学主義団体も、都合の良い恣意的な歴史解釈をするから、これこそ扇情的でフェアには思えない。このことから私は思想に限界はないが、それを扱う人間、特に大衆には限界があるように思えた。それも底があまり深くはない限界で、あるいは旧科学時代における個人の意思決定プロセスに重きを置いた民主主義制度が崩壊したのも致し方ないことだろうと考えている。私は通り過ぎようとすると、若者のひとりと目が合い、何とかその場を立ち去ろうとしたが、そうする前に彼女は私の裾を掴んで引っ張った。

「もしかしてシ技大の先生ではありませんか?」

 私は仕方なく立ち止まった。

「ええ、そうですが。なにか?」

「科学の先生よ! MTの学者先生!」

 彼女は大声で言った。

 すると横断幕を持っていた連中は一斉に私を見つめた。拡声器を持っていた男は、脚が悪いのか、右足を引き摺りながらこちらに躙り寄ってくると、ハンチング帽を手に取って自らの胸に押さえつけた。

「これはこれは学者先生ではありませんか」彼はそう言いながら、どこか慇懃な調子で神経質そうな笑みを唇に浮かべていた。「私は新科学主義団体オレンジタウン広報担当の萩野真一と申します。どうかこいつで一言だけお願いできませんか?」

 私は拡声器に視線を落とした。

「いえ、私は何も言いませんよ。あなた達の運動に参画する気は起きません」

「それは何故です? 私たちは同胞ではありませんか?」

「同胞だとは思いませんね。私の見解では新科学思想ではシーマを扱いきれなかったとしか思えません」

 彼は怪訝そうに口を開けた。「何が言いたいんです?」

「当時の大国だったアメリカ、ロシア、中国が新科学主義思想に則った政治体制は揃って政治的腐敗と分断を齎しました。科学兵器の莫大な研究投資、MTを国家元首とした独裁化、及びATの虐殺、及び国際社会からの弾圧、アメリカとロシアでは未だに大きな内戦が起こっています」

「しかしアメリカとロシアでは科学主義国家が誕生しましたよ! 戦争は受容されて然るべきものです。それは歴史的見地から見ても正しいことでしょう?」

「アメリカ科学自由主義国家とロシア科学社会主義国家はATを虐殺しておきながら、実際にはその多くの生産に科学を主とせず、兵器から生活必需品に至るまで、シーマを主とした技術でエリートATたちに作らせています。その点でこの二つも歴としたシーマ社会なのです。しかし日本は戦争や虐殺をせずに平和を築きましたよ。たしかに日本の現社会は我々MTにとっては生きづらい世の中ですが、決して互いの生命までを脅かす関係ではありません」

「今はまだね」と彼は含みがある感じで言った。「いやはや、それにしてもさすがは学者先生、よくもまあべらべら言葉が出るものですな! これこそ人類史の原点にして最たるシーマ以上の魔法ですよ! こうした人種は我々に知識をひけらかして、時には理解のできない理屈や言葉を使い、こちらがわからないことを良いことに有無を言わさず黙らせようとするのですからね。……しかしその知性もAT社会のつくった常識に脳幹まで浸されていては操り人形のようなものだろう!」

 彼は拡声器の音量を最大限にして吠えた。

「これからシーマ技術大学の学者先生が一言お話ししてくれます! どうぞ皆様もお話を聞いてやってください!」

 彼は言い終えると、私の胸に拡声器を押しつけたが、私は受け取らなかった。拡声器は我々の足下にごとんと落ちる。私は拾おうともせず、彼としても腰を屈めることは無かった。その目元は私を睨みながらぴくぴくと動いている。すると彼は聴衆達を前にして私の腕を掴むと天高くに上げた。「先生はこう仰っておられる! 新科学主義こそが至上であり、これに参画することが真の平等で公平な社会作りの第一歩であると!」

「待て! 私はそんなことを――」

 彼はひとさし指を私の前に立てた。そして同胞たちに言葉で伝え、指を弾き、スマホでも命令した。

「この人を第九会議室に連れて行け」

 そのとき肩に衝撃があった。彼の手が肩を押しのけたのだ。私は後ろの横断幕に倒れた。新科学主義団体の若者たちが囲み、色んな所から手が伸び、身体のあちこちから力を入れて私を起き上がらせる。そうして若者達は背中を押しながら抗議の叫びをあげている私を次の舞台へと追いやったのだ。

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