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3話

 オレンジタウン中央公会堂は、二〇世紀初頭に旧科学の建築物だが、そのバロック的な新古典主義様式デザインによって、市長の緑地化推進条例を免れ、今もなお幅広い層から親しまれている公共ホールとして機能している。全てで二つの大集会室、五つの小集会室、十の各会議室があり、これ等は上から順番に相応の金額さえ払えば誰でも貸し出し可能であった。第九会議室は最上階の小部屋で、四つの縦長の机がドーナツのように並び、その周りでは所狭しと椅子が並んでいた。ホワイトボードには大きな文字で自然状態とマジックで書かれており、その下にはホッブズとロックとルソーの名前がある。椅子に座った者達は配られたシラバスから私に顔を上げた。ホワイドボードの隣に立っている吹田透は、扉が開くと、口をぽかんと開けた。私も同じように口を開けていた。

 先に言葉を発したのは彼の方だった。

「日奈多先生、どうしてここに?」

「君こそどうしてここにいるんだろうね」私は咳払いをして言った。「いったい、何をしているんだ? もしかして君はここで法学でも教えているのか?」

「い、いいえ、そんな大層なものじゃありません。僕はただホッブズの『リヴァイアサン』を読書会のテーマにしているだけでして……」

「その『リヴァイアサン』は誰も持ってなければ、そのボードにも書かれていないようだがね。……でもロックとルソーの名前があることから、どうやら君は社会契約説の御三家について語ろうとしているように見受けられる。さらに言えば自然状態という大文字、それとルソーの文字の上にある赤い×印、つまりこれは彼の思想を否定していることを示唆しているようだ。その横にはシーマとあり、例で樹ビル、シーマ学、マサール、予知学と並んでいるから、今の現世界はルソーの思想に向かっているという君たちなりの論考を何となく感じるところだな。そして『エミール』で考えるにルソーの思想では人間を損なう文明の発展を悪徳としている。つまりこの考えでは戦争や利己的な争いを生み出した旧科学の殆どは人間の本来あるべき姿から反するものになるだろう。そのために科学至上主義の君たちはこれを否定しなければならないという結論になるわけだね。……というのが現場から見た私の考察だが、どうだろう?」

「そうです」

「それなら私はこう批判しよう。そもそもシーマにおける全ては、ルソーが推奨する自然回帰的な文明とはまるで逆行したものだ。あるいは高度文明社会でありながらそれを達成しようとするものかもしれない。何故なら樹ビルも、シーマ学も、マサールもこれまでと全く異なる新しい発見で、現代における予知学にしても神話時代の占術とも違うことは明らかであるからだ。むしろこれはテクノロジーとは違う新種の技術が進んでいるとも考えて然るべきじゃないか?」

「しかしその過程で滅んだものを差し引きしたらその損失はシーマ以上に大きかったと思いますね。そして先生が講義で仰っていたように、未来で得たかもしれない、そういったさらなる発展の損失はその計算に入っていないように思われます」

「損失は判断の難しところだが、たしかに前時代だけで発展する未来の可能性は未知数だったろうね。しかしここで議論していることは、より高度に成り得るのはどちらかではなくて、シーマによる文明がそもそも二十一世紀以前の科学技術よりも高度であるか、それとも以前より遅れた文明であるかではないかな?」

「嵌めようとしてます?」と彼は言った。

「まさか」

「まあ、中身については話し合っても詮無きことである気がしますね。というのもマサールや樹ビルのように中身は旧科学の技術というのも多いですから。……しかし外側はどうです? どんどん退行しているではありませんか? 街は森となり、電車は大理石、スマートフォンは指輪、こういったものからだってだんだん発展を妨げ、思考の時代的な退行は進むんです。これは何もビジュアルだけの問題ではありません。我々はその姿形からだって思考を広げるのですから!」

 私は少し黙った。

「それは君の考えなの? 似たような論文を見かけたことがあったな。それはロシアのラスコーリニコフという人の論文だったんだけどね」

 彼は顔をぽっと赤くした。

「しかしいずれにしても私はそれに懐疑的な立場だな。この中央公会堂だってビジュアルこそバロック風であるが、やはりそのデザインは古典主義とは違うわけだから、中身を入れて検討しなければフェアではないよ」 

 そこで私たちの会話はひとまず沈黙によって終止符を打った。机に並んでいる顔は神妙そうな面持ちでいたり、そもそも話を聞いておらず、あるいは隣に話の解説を求めたり、目を丸くして黙っている者もいた。杖の音がかつかつと廊下から聞こえ、遅れて二つの足音があり、まずは拡声器を脇に抱えた萩野真一が部屋に入ってくると、彼は私と吹田透のあいだに割り込んで立った。「おやおやまた論説ですか。お好きですね、学者先生たちは」

 そしてその後ろから魚影のようにぬっと痩せた長身の男の姿が出てきた。

「ははあ」と彼は言って、青いサファイアで作られた犬歯を見せながら笑った。「これはこれは日奈多准教授ではありませんか? ここで出会うとは何という奇遇でしょうねえ」

「志真さん」と私は呟いた。

 志真拝司は軽く帽子を上げた。

「しかし私はいずれまたお会いすることになるだろうと思ってましたよ? MTの運動にはあなたのような方はいずれにしても巻き込まれたでしょうからね」

 吹田透は私たちを交互に見やった。

「二人はお知り合いなんですか?」

「ラスコーリ二コフの論文を持ってきてくれたのが彼だったんだ」

「日奈多准教授には個人的な経緯で研究協力をしているわけですね」と彼は言った。

「しかし貴方は歴としたATでしょう? しかもとてもシーマに通じている人だ。……それがなぜこのような場に?」

「それもまた私の個人的な経緯というところでございましてね。まあ、それは後々にお話しましょう。それよりはまずこれを見ていただきたい」

 彼はそう言うと、机をさっと手で撫でた。すると空間が歪みはじめる。縦長の形がうっすらと幾つか浮き出ていた。その一つ一つにだんだん単色の色が足され、それが明確になる頃、彼はそのなかにある黒いひとつを手に取って掲げた。

「これなあんだ?」と彼は言った。

 その場の全員が固唾を飲んで黙っていた。

「スマートフォン!」と私は殆ど叫ぶように言った。「そ、そんな違法ですよ。科学主義国家からの持ち込みは許されてないんですからね!」

 萩野真一が言った。 

「違法で無くて今はまだ条例違反ですよ。路上喫煙と同じで罰金さえ払えばよろしい。……それに学者先生だって研究資料を彼から貰っているではありませんか?」

「研究目的は条例の例外です。私はちゃんと志真さんから提供された論文は役所からの認可がおりてますよ」

「それもこのご時世ではいつまでかわかったものじゃありませんがね」

「それはそうと」と志真拝司は手を叩いて言った。「これからこの旧科学時代のスマホを名簿にある団員のひとりひとりに配布しましょう。一人当たり五千円で買い取っていただきます」

「随分と安いですね」

「利益目的ではないのでね」

 彼は青い歯でにやっと笑った。

 吹田透は言った。 

「支払いは団長がします。現金で持ってくると仰っていました。もうすぐ来られるという思念がありました」

「そういうことならこれはあなたたちにもうお渡ししますので好きに使ってください。説明は後で思念で送ります。……いえ、せっかくなのでDMで送りましょう」

 私はびっくりした。

「モバイル回線のないこの世界でどうやって?」

「これは最新のスマートフォンでしてね、向こうの言葉で言うならば新科学の技術が搭載されています。ロシアでも電波塔や電柱がこれから減ってくるでしょうねえ。それにしても二つのスマホがシーマを通じて異なる発展をするのは不思議なものですよ」

 彼はそう言うと、首を左右に振り、肩の関節を軽快に鳴らした。両腕が積み木のように胴体から離れ、持っているスマートフォンを座っている全員に配りはじめる。切り離された腕をせっせと動かしながら、彼は首を傾げ、視線をこちらに向けた。

「せっかくです。日奈多さんもお一ついかが?」

 私は息を飲んだ。欲しくないと言えばそれは嘘だった。鼓動は早くなり、こめかみに脈打つものを感じる。「……いえ、私は大丈夫です。貰う立場にありませんから」

「ははあ」と彼は言った。

「いえ、先生も是非貰っていただきたい」と吹田透は言った。「私たちの運動には先生のような学識のある人が必要なんです。思想の骨組みを強固にしてくれるような人が……」

「そんなことは出来ないよ。そもそも君たちの思い描いているものに賛同できないんだから」

「しかしこの世界で再びインターネットが使えるのですよ? これは失ったテクノロジーと自由の獲得じゃありませんか」

「思念がある。それにインターネットはその性質から自由よりは、個人の束縛の方に一役買っていたように思えるな。それなら隠し事はできても意図的に嘘をつけない思念世界の方にまだ軍配が上がるよ」

「嘘をつけることこそ素晴らしいのです!」と志真拝司は言った。「嘘やでたらめのおかげで、インターネットは好きな自分を語れるようになり、その匿名性からあらゆる責任から解放され、いかなる人種も炎上という恐怖の名の下で、これこそ誰もが平等になる世界ではありませんか? つまり真の自由と平等とは仮想世界にしか存在し得ないのです」

 しかしこれには誰も賛同はしなかった。その場につめたい沈黙が降りる。そのときになって私はふいに目眩がして、吐き気を感じた。頭に手をやると、額がじんじんと熱くなっている。

「どうしたのですか、先生?」

「いやね、何だか今日は色んなことが一度に起こって、どうにも疲れているみたいなんだ。……私はそろそろお暇しようかな。考えることがたくさんある」

「送りましょうか?」と志真拝司は言った。

「それには及びませんよ。ありがとう」

 私はそう言うと、ドアに向かったが、そこで萩野真一が立ち塞がった。彼の大きな身体は梃子でも動きそうになかった。

「……申し訳ありませんが、もう少しだけお時間いただけませんか? うちの団長があなたに是非お会いしたいということです。もう近辺まで来たので挨拶だけでもしてもらいたいのですがね」

「いいでしょう。しかしどうしたんだろう。さっきまで何ともなかったのにな」

「神経をすり減らしすぎたのですよ。シーマを使いすぎたのでは?」

「いえ、今日はまだ三時間も使ってませんよ」

 私はまた椅子に腰を降ろした。席にいた十二人のうちの誰かがタオルケットを背中に掛けてくれた。志真拝司の語りが蕩々と聞こえる。私は目を瞑った。青い顔をしているという声が聞こえる。その直後に私は記憶が途切れた。はっとして目を覚ますと、篠田真守の左目が私の前に現れ、次に瞬きをしたときには、席にいる十二人のなかに真司が雀みたいにちょこんと座っていた。そうかと思えば鈴成理子が立ち上がって私に剣呑な顔で詰め寄っている。「君はどうしてそんなに怒っているんだ?」と私は弱々しい声で呟いた。「まずはソシュールだよ。……ソシュール」

「ソシュール?」と誰かの声が聞こえた。

「おい、この学者先生は本格的に不味いんじゃないか?」

「あなたは死にます」

「ちょっと疲れているだけですよ」と志真拝司の声が聞こえた。「頭脳労働の方ですからね。少し休めば治るものです。誰か甘い物をあげなさい。この方には糖分が必要なんですよ」

「先生は新科学主義者なのですか?」

「先生、食べれますか?」

 ドアが開く音がする。私は口に異物が入って甘い何かが溶けるものを感じた。それがチョコレートだと分かった瞬間、視界の端に人影が見えて、それは私をのぞき込んだ。

「あら、あなた大丈夫?」

 女の顔だった。その陶器のように青白い肌には、右の唇の端を引き裂くような傷が十字に刻まれている。

 私は絶叫した。椅子と一緒に倒れて、床に頭をぶつけてしまう。朦朧とした意識の中で私は叫んでいた。

「こいつだ! こいつがそうなんだ!」

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