第2話 王都厄落とし屋、開店――噛みつく婚約指輪
翌朝。
パン屋の香りは、記憶に甘い。けれど今の店の主菜は小麦ではなく、人の感情が凝り固まった小呪だ。
私は暖簾を上げ、看板を指で軽く叩く。《王都厄落とし屋 リュシエンヌ》。副題の金文字——“合わぬものは、食べてしまえばよろしい”——が朝日にきらりと光った。
路地の角に、黒狼隊の詰所が仮設されている。列を乱す輩を近づけないための、隊長エリアスの手配だ。
行列の先頭で、腫れた指をさすりながら若い男性が立っていた。肩には焦げ茶の外套、目の下には寝不足の影。
「最初のお客様、どうぞ」
入ってきた二人は、婚約者らしい。男の名はパトリック、女の名はマリエラ。
マリエラが差し出した右手の薬指には、白金の輪。——赤い歯型が皮膚にくっきり残っている。
「手をつなぐと、指輪が噛むんです」
パトリックが苦い顔をした。「買ったのは**“聖女様推奨”の宝飾店で……“誓いに背かねば噛みません”って。だが誓いに背いてなどいない**。彼女を大切にしているのに」
私は頷き、二人を席へ通す。
「では味見を。少しだけ、失礼」
私は小皿に温かいミルクを少し垂らし、指輪の内側を軽く濡らす。加護と呪いは溶媒で輪郭が出る。
唇を近づけ、香りを舌で読む。
——舌先に青い杏の渋み(嫉妬)、奥に古い砂糖の焦げ(古傷)。それから、ごくかすかに真水の甘さ(誓い)。
ただし配合が悪い。嫉妬>誓いの比率で“歯”になっている。
「この指輪、誰から?」
「彼の母上からです」マリエラが小さく答えた。「代々の指輪を聖女様の光で磨いたと」
私は目を細める。「磨きすぎ、ですね。家の“守り”が“噛みつき”に変わった。——お母上の“守りたい”が“誰にも渡したくない”へ、少しだけこじれた」
パトリックが肩を落とす。
「母は悪い人ではない。ただ、父が早くに亡くなってから、俺を守ることに必死で……」
「善意は味が強い。塩を振りすぎるのと同じですわ」
私は指輪を受け取り、作業台に並べる。銘は王都でも名の知れた**《ルクス工房》。昨夜、王城の断罪場で見た“借り物の光”の銘板と同じ刻印**が入っている。
「分解調理いたします」
私は三つの器を出した。
一つ目は涙の塩壺(家族の涙の結晶、塩味を整える)。
二つ目は誓いの灯(小さなランプ、言葉で熱を入れる)。
三つ目は名前の香草(相手の呼び名を刻んだ紙片。香りを立てる)。
「お二人、**互いの“呼び名”で短く誓いを。“幸せになるために、相手の自由を噛まない”**と」
パトリックは深呼吸し、マリエラをまっすぐ見た。
「マリー。俺は、お前の自由を噛まない。俺のそばで、笑っていてくれ」
マリエラは涙を拭い、頷く。
「パト。わたしはあなたを縛らない。けれど、いっしょに眠れる夜を、大切に積みます」
言葉は熱になる。ランプの炎がひときわ高く揺れ、指輪の縁に走る見えない歯がかすかに溶けた。
私は涙の塩をひとつまみ、指輪に落とす。過剰な味が静まり、杏の渋みが薄塩へ。
最後に香草。紙片に書いた“マリー”“パト”を小さくちぎり、指輪の内側に軽く擦り付ける。匂いが嫉妬に勝つ。
「——いただきます」
私は溶け出した“歯”の部分だけを舌で掬い、喉で割って飲む。舌に残る微かな鉄味(血の記憶)。それも唾液で中和する。
金属を傷めないよう、指輪を二枚の薄い輪に分け、余った小片を小さな匙の形に伸ばす。
「噛む歯を、すくう匙に変えました」
私は薄輪をそれぞれの指に合わせ、小匙を小箱に入れて手渡す。
「喧嘩した夜、匙で砂糖をひとすくい。舌で誓いを思い出してから話し合うこと。——“噛み合わない夜”のための作法です」
パトリックは恐る恐るマリエラの手を取った。
噛まない。
皮膚に歯型が立たない。
マリエラの目から、今度は安堵の涙がこぼれた。
「代金は——パン二斤と、義母上への手紙を一通」
「手紙?」
「“わたしはあなたの息子さんを噛みません”と、マリエラ様自身の言葉で。塩は分け合うものだと、味でお伝えを」
二人は何度も礼をして帰っていった。扉の向こうで、朝の光が輪になって揺れる。
——一皿目、完食。
◇
昼下がり。
うちの暖簾をくぐってきたのは、脂の乗った髭の男。胸元には**《ルクス工房》の徽章。
「噂は本当かね。工房の品に手を入れたと?」
「歯が過ぎていましたので。匙に直しました」
男は鼻で笑う。「聖女様の光で磨いた品だ。素人が弄れば呪いが跳ねる**。営業妨害で訴えてもいい」
私は、作業台の引き出しから琥珀の試薬を出した。借り加護が混ざっていれば曇る。
男の差し出した指輪をぽたりと濡らす。——曇った。
「“聖女の光”と言いながら、どこかの捨て加護を寄せ集めて盛り付けている。味見もしないで塩を増やすから、歯になる」
男の顔色が変わる。「侮辱だ!」
「記録を残します。返金=辞退の導線はご存じでしょう? 合わなければ戻す、恥ではない」
私は黒狼隊の小机にサイン帳を滑らせ、証拠写真と一緒に受領不可の欄へ記す。
ちょうどそのとき、外から低い咳払い。
——エリアスだ。鎧の影で腕を組み、視線だけこちら。
男は舌打ちを飲み込み、徽章を胸に押し付けるようにして去っていった。扉の鐘が勢いよく鳴り、朝の匂いが揺れた。
「助勢、感謝しますわ、隊長」
「列を崩されると眠い頭に堪える」エリアスは目の下を軽く押さえ、苦笑した。「昨夜は三時間。前よりは眠れた。だが、まだ塩が足りない気がする」
「薄塩の寝酒を」
私は蜂蜜と柑橘の皮、少量の塩に温い水を注ぎ、小匙で一度だけ混ぜる。「寝る直前に一口だけ。そして忘れたくない名前を、一人だけ心の中で呼ぶ。呼び合わせは一人分が適量」
エリアスは頷き、グラスを受け取った。
「代金は?」
「報告書を一通。“黒狼隊、行列整備の手順”。善意は味にして整えるのが一番ですもの」
「任せろ」
彼が扉を押したとき、足元を灰色の小さな影が走り抜けた。
ちりちりの毛並みに、胸のところだけ白い星。子猫が、まるで道案内するみたいに店の奥へ滑り込む。
「——あなた、どこから?」
子猫は振り返って、くるると喉を鳴らした。
舌に、古いパンくずの味。腹を空かせている。
「今日はパンが多い日。良い日に来たわね」
私は古オーブンに火を入れ、端切れ生地で小さな丸パンをつくる。子猫は丸まって、膝の端に星を乗せた。
◇
夕刻。
郵便鳩が一羽、窓を叩く。紋章は王宮。王都歓迎祭の封蝋。
差出人は王太子陣営の顧問伯ロジェ・ヴェルディン。
『歓迎祭の“祈りの場”の香りが乱れている。聖女レティシア様の儀に支障が出る前に、誠実な助言を——“あなたの店で”伺いたい』
——王城ではなく、こちらで。
呼び水の匂い。
私は紙を裏返し、応接の日時と条件を書いた。
『見世物にしないこと。香りと味は数字で記録すること。返礼はパン二斤』
封をしたとき、扉の鐘。
マリエラとパトリックが、焼き立てのパン籠を抱えて立っていた。
「手紙、書きました。“私たちは互いを噛みません”って」
私は受け取り、笑った。
「素敵。——小匙は台所に。誤解は甘さでほどくのが一番です」
ふと、店の外がざわついた。
肩に小型カメラの男がまた覗いている。
私は扉を開け、静かに言った。
「本日の配信はお断りです。行列の先頭からパン二斤、よろしくて?」
背後で黒狼隊の影が伸びる。男は踵を返し、去った。
ざまぁは、拍手ではなく秩序で起きる。
◇
夜。
子猫が膝の上でくくと鳴く。星の模様にちなみ、私はククと呼ぶことにした。
帳面に今日の皿を書きつける。
『本日の記録
・噛みつく婚約指輪:嫉妬>誓いを塩・熱・香草で再配合→薄輪×2/小匙×1
・客の安寧:歯型消失/呼吸安定
・ルクス工房:借り加護混入→記録/返金導線案内
・黒狼隊:行列整備手順の叩き台作成
・子猫クク:保護(推定生後2ヶ月)/パンくず良好
・王宮:顧問伯ロジェ面談(場所:当店/条件:非公開・記録・パン二斤)』
窓の外、王都の空気はまだ薄くざらつく。
だが、一皿ずつ味を整えれば、宴はきっとよく眠れる夜になる。
私はククの背を撫で、ランプを落とす。
「ご馳走さまでした。そして——また明日」
<次回予告>
王妃の髪飾りが泣く。宮廷の香りは盛り付け過ぎ。顧問伯ロジェの笑わない微笑、そして黒狼隊長の薄塩の眠りは、まだ塩梅を探している。




