私が迷子になった日のこと。
何を言ってるか分からないかもしれないけれど、とりあえず聞いて欲しいと思う。
それは、私がアルバイトの帰り道のことだった。
歩き慣れた道は大通りの人気のある明るい見通しの良いまっすぐな道である。突然落とし穴に落とされたり、突然何者かに狙われる心配のない、極々平凡な私は特に何かに気を付けるでもなく、ぼんやりといつもの道を歩いていた。
――そう。“ぼんやり”といつもの道を歩いていたのである。
はっと気が付くと見慣れない場所に出ていて、いつも曲がる場所をぼんやりしすぎて通り過ぎてしまったのかもしれない。そんなことを考えながら視線を彷徨わせた先には、妙にリアルなきぐるみを来た人たち。かわいらしくデフォルメされているわけでもなく、リアルな獣仕様のキャラクターたちがしっかりと二足歩行で歩いている。
ふいに目の前を歩いていた虎のきぐるみと目が合った。これも何かの縁だろう。そんなことを考えながら、目の前のきぐるみに話しかけた。
「こんにちは。今日は何かイベントですか?」
「いべんと?何だそれ」
「じゃあ、もしかしてどこかのテーマパークのきぐるみですか?」
女性としては高い部類とは言え、私よりも低い背丈のきぐるみの中の女性は不思議そうに返した。てっきりイベントか何かだと思っていた私は驚きつつも、別の質問で聞き返す。しかし、その質問にも彼女は意味が分からないとばかりに首を傾げた。
そしていくつかの質問を終えた後、彼女は言ったのである。
「……だから、これはそのキグルミとか言うんじゃねぇって!俺の毛なの!分かるだろ?」
「え?着ぐるみじゃない……?本物なんですか?」
彼女が言っている言葉の意味は理解できる。しかし、その言葉の内容はとても信じられないものでしかたなかったのだ。
なぜなら、私の知る生き物の中で彼女のような姿は創作上のものでしかありえない。それは獣が二足歩行しているかのような、そんなありえない姿だったのだから。
「だからそうだって言ってんだろうが!お前、一体どこの田舎から出てきたんだよ。人間のくせに獣人を見たことがねぇなんて」
「……私、どこから来たんでしょう?」
「は?」
「気が付いたら、この町の入り口に立ってて。てっきりテーマパークか何かに紛れ込んでしまったのかと思ったんですけど、違うみたいですね。すみません。失礼しました」
「……おい!待てよ」
唐突にやってきた理解不能な出来事に、私の思考は完全に停止していて頭の中は真っ白だった。ようやく成人になったばかりとは言え、二十年かけて出来上がった常識が一気に崩れ去ったのだからそれも無理はないはずだろう。
呆然としながら言葉を返した私に彼女は大きくため息を一つ吐くと、歩き始めた私の正面に周り込んで私の手を取った。
「はい?」
「多分、辛いことがあったんだろ。無理に思い出すことはねぇ。それよりも、行くところあんのか?」
「ええっと、大丈夫です。私、大人ですし」
「大人?お前のどこが?どう見ても、俺と年変わらねぇじゃねぇか。大人ってもっとでけーんだぞ」
「え?いや、私これでもそこそこ大きい方なんですけど……」
「まぁ、良い。無理すんな。今、俺の親に聞いてやるから、しばらく家に身を寄せろよ」
「いや、そんなご迷惑をおかけするわけには……」
「良いから付いて来いよ。虎獣人は懐がでけーんだ。親父たちに頼んでやる」
男の子みたいな口調で話す彼女はそう言って、私の手を掴んだままずんずんと歩みを進めていく。そしてある家の前に着くと、そのまま扉を開けて中に入って行った。
「――母さん!親父いる?」
「アル?あら、珍しい。その子は人間の女の子?」
「えーっと、お前名前何だっけ?」
「カナエ、です」
出てきたのはアルと呼ばれた彼女の母親らしい。私よりも一回りは大きな虎は母親らしい穏やかな女性の声で首を傾げた。リアル肉食獣なその姿が恐ろしいもののはずなのに、女性的な動きは間違いなくかわいい。しかし、そんな穏やかな雰囲気もアルが次に発した言葉で掻き消えた。
「こいつはカナエ。行くところがないって困ってるんだ。しばらく家に置いてやってくれねぇか」
「あらあら、まぁまぁ!ちょっと、お父さん!お父さん!アルが……アルが女の子を連れて!」
「な……アルが女の子を連れて来ただと?いや、まだ早くねぇか?アルはまだ子供だろう!いや、でも、アルはしっかりした子だから……」
おそらくはアルが発した言葉のせいなのだろう。急にテンションが上がったお母さんは大きな声で彼女よりもさらに大きな体の夫を呼び、二人は動揺しつつも嬉しげに声を上げている。
「何をボケたこと言ってんだよ。カナエとはさっき会ったばっかりでそういうんじゃねぇから」
「さっき会ったばっかりだと!」
「いやねぇ。お父さん。私達だって一目見てすぐだったじゃない!」
大きな虎の夫婦は二人でイチャイチャしながら頬に手を当て、胸を殴りながら照れている。そんな両親に呆れたような口調で口を挟むのは、やっぱりアルであった。
「だから!違うから!俺、まだ成人してないの分かってるだろ!」
「……そう言えばそうだったわね。アルったらまだ十四だものね」
「ったく。人の話を聞けっつうの。カナエは行く当てが無いらしい。人間が一人で外を歩いてたら危ないだろ。しかも、女だし」
「それもそうだねぇ。お母さんはアルが優しい子に育ってくれて嬉しいよ。――カナエと言ったね?しばらく家に身を寄せると良いよ」
ぼんやりしている間に話がまとまりそうになっていると、声を掛けられたことでようやく気付いた。慌てて首を振って断わろうと口を開いたが、虎のお母さんはさらに心配そうに顔を顰める。
「……え?あ、いえ!それは大丈夫です!」
「何が大丈夫なの。今日泊まる場所はあるの?」
「えっと、それは、家に帰れば……」
「家は近いのか?この辺りに人間が住んでる家なんて山の向こうの町にしかないはずだぞ」
「……え?山って、あの山ですか?」
お父さんが視線で示したのは、窓から見える大きな山だ。その山ですら遠くの景色で、その向こうとなれば今日明日で行けるような場所ではないのは想像に易い。なぜならば、この民家の周りは舗装されているようなアスファルトの道ではなく、踏み固められた乾いた土の道である。その上、ここに辿り着くまで自動車に類するような乗り物は一台も見かけることができなかった。――この現代社会に一台もである。
そして私は自分が“知らない場所”へやって来てしまったと理解したのであった。
あれから私は素直にこの家にお世話になることにして、家事を手伝いながら簡単な仕事を始めている。どうやらこちらでは人間という生き物は彼ら獣人に比べてかなりひ弱な存在であるらしく、なかなか仕事を探すのも難しかった。特別な技能も要らない肉体労働系は、人間でしかも女である私には不可能である。一応大学生として学生をやっていたおかげで計算ができたので、それを利用してデスクワークというのが現状だ。
「カナエ、入っていいか?」
「うん。どうぞ」
急に居候になったというのに、虎獣人の夫婦は私のために物置を空けて部屋として貸してくれた。ベッドとチェストを入れたらいっぱいの小さな部屋だけれど、居候の身には十分すぎるくらいだろう。
そんな部屋でベッドに座ってゆっくりしていると、扉をノックしてアルが顔を出した。
「仕事慣れたか?」
「大分ね。みんな優しくしてくれるから」
「そうか。でも、疲れた顔してる」
「そういうことは大人の女性には言っちゃいけません」
「……分かった。悪かった」
「言っちゃいけないのは本当だけど、私は気にしてないからそんなに落ち込まないで」
「……本当に気にしてないのか?」
そう言って何気なく耳を倒して落ち込むアルの頭に手を伸ばした。まだ子供であるというアルの毛並みは見るからにふわふわで柔らかい。丸みを帯びた小さな三角の耳もとても柔らかそうである。
――そう。何気なく手を伸ばしただけだった。
「……や、柔らかい……ふわふわ……何これ……すごい」
「気に入ったのか?」
「うん!こんなに気持ち良いなんて知らなかった。すごく癒されるよ!」
「それならもっと触っても良いぞ」
「え?いいの?」
「……カナエだけ。特別な」
「わぁ!ありがとう!」
照れくさそうにそう言って目を伏せたアルの頭を思い切り撫でる。それはもう、もしゃもしゃと撫でまくった。撫でて良いと許可を貰ったからには思い切りやらねば申し訳ないだろう。……決して、私の欲望のままに撫でまくったわけではないのである。断じて違う。
「カナエ、ちょっとだけ」
「なに?……ひゃ、くすぐったい」
アルはゴロゴロと喉を鳴らして私の首元に顔を摺り寄せた。大きな猫がじゃれついているようなその仕草がくすぐったくもあり、それ以上にかわいい。そうやってしばらく私の首元に頭を預けていたアルはふいに顔を上げて口を開いた。
「カナエ、俺……」
アルはそう言って言葉に詰まり、私のことをじっと見つめている。そんなアルを見ながら、何気なく疑問を解消しようと口を開いた。
「そういえば、アルって女の子なのに俺って言うよね?」
「……男」
「え?」
「俺、男だから」
「――えええ!」
こちらに来て数ヶ月。まだまだ知らないことばかりです。辛いことや大変なことも多いけれど、とりあえず私は元気にしています。
アル、十四才。カナエ、二十才。
成長期前だったのもありますが、初めて見る虎獣人に男女の区別があまりついていなかったカナエの勘違いです。アルが何を言おうとしていたのかは……。




