空っぽ
かつて抱いた憧れが、いつしか自分を縛る鎖に変わってしまうことがある。
第一志望、偏差値、将来の夢。
そうした言葉の重みに耐えきれず、立ち止まってしまったとき。僕たちの手元に残るのは、目標を失った「空っぽ」な自分と、かつての情熱の残骸だけだ。
夢を叶えた者の言葉が、時に刃となって突き刺さる。
「大人になる」とは、そうした痛みに蓋をして、賢しげな言い訳を並べることだと思い込んでいた。
けれど、雨上がりの車内。
予期せぬ会話からこぼれ落ちたのは、完璧に見えた誰かの後悔と、救いだった。
何もないからこそ、何にでもなれる。
かつての夢を「あきらめ」ではなく「思い出」に変えて、新しい一歩を踏み出す青年の、再生の物語。
空っぽ
―――ぽつり、ぽつり
フロントガラスを叩く控えめな雨音。
運転席と助手席で、会話に花を咲かせる男女の声。
それらの音を背景に、こっくりと舟を漕ぐ女子が一名。
バイト帰りの車内には、本日で三回目となる光景が広がっていた。
一方の僕はというと、
「ふぁ~あ。」
暇つぶしにスマホをいじっていた。
画面には受験期使ってた英単語アプリ。中身は医学系の単語でびっしりだ。
今の僕には必要ないのに、何を躊躇ってか消せずに残していた。
アプリを開いて、閉じて、開いて、閉じて……。
「暇だなぁ。」
退屈が極限を迎えていた。
この際、前の二人の会話に混ざる?
ムリムリ、小難しい単語ばっかり出てくるんだもの、とてもじゃないが付いていけない
「「~~~っ。」」
寮まで残り30分弱。
口を開くとまた、大きなあくびが飛び出した。
「それで―――」
「えぇ、それほんと?僕だったら―――」
《……にしても会話、まだ続くのか。》
あの調子で、かれこれ1時間はしゃべっている。
相性がいいのか、それとも片方がコミュ力お化けなのか。
どちらにせよ、すごいことには変わりがな―――
「ところで、後ろの二人はどうしたいんだ?」
「へっ?」
傍観していた最中に、突如として声を掛けられた。
後ろの二人?
いや、片方は寝てるから実質一人か―――ってそうじゃなくて。
マズい、全く話を聞いてなかった。
「えっと。どうしたいっていうのは?」
「ん?」
運転席からひょうきんな声が上がる。
相手はゴールデンウイーク限定とはいえ、バイトの先輩である。
分からないからで適当に答えるのは、つまるところマナー違反と言えるだろう。
後輩として、一人の大人として、まずは話を理解しなくては。
「決まってるじゃないか、将来のことだよ。何になりたいかって話。」
「将来、ですか……。」
相手の態度からは、不機嫌さが微塵も感じられない。
そのことに安堵しつつ、軽く息を吸った。
「僕は―――」
《医者になりたい。》
言いかけて固まった。
おいおい、それは無理だっただろ。
叶わなかった夢に、いつまで縋り付いてるんだよ僕は。
「?」
質問の主も、僕の異変に気付いて首を傾げた。
無理もない、会話を振った相手が急に黙り始めたんだもの。
そりゃあ、そんな反応にもなるわな。
おっと、観察してる場合じゃなかった。
「―――っと。その、特に無いですね。ぶっちゃけ、それを見つけるために
大学来たってのもありますし。」
沈黙が痛かった。
だからそれっぽいこと並べて、その場を凌いだ。
「おぉ、そうだな~。」
のんびりとした声が聞こえる。
「なにも、大学ってなりたいもん無くったって別にいいしな。
良いと思うよ~、その考え方。」
「……あ、はい。そっすね。」
彼はそう言うと、視線を前に戻した。
しばらく沈黙が続く。
僕の返答から色々察したのだろうか、彼は一向に口を開こうとしない。
《別に話すのが嫌いとか、そういうわけじゃないんだけどな……。》
ただ単純に、答えづらい話題だっただけ。他ならいくらでも話すことが出来るのに。
「そういえば、先輩って何のお仕事してるんでしたっけ?」
重たい空気を切り裂いたのは、前列に座っていた女子の一言だった。
彼女の何気ない一言で、僕らのムードは一変していく。
「僕かい?僕はね、獣医師をやってるんだ~。」
「えっ?!獣医師ですか?」
若干食い気味の彼女に対し、あっけらかんと答える先輩。
「そう、獣医師。何?もしかして興味ある感じ?」
「はいっ!私、子供の頃、獣医師になるのが夢だったんです!」
「おぉっ。いいねいいね!」
僕の時とは全く違うリアクション。
若干、複雑な気持ちにはなったが、ひとまず二人のやり取りを見守ることにした。
「獣医師には、いつからなろうと思ったんですか?」
「そうだね~。正直、このタイミングってのはないんだけど……。
言っちゃえば子供の頃からかな。」
―――ドクンッ
心臓が一際高く跳ねた。
「正直大変だったよ~、第一志望の国公立に落ちちゃってさ。」
汗腺という汗腺から、冷ややかな流動体が湯水のごとく溢れ出す。
いつの間にか握っていた拳には、痛々しい赤の爪痕が浮かび上がっていた。
「―――でもなんやかんやで私立受かったから。無事、獣医さんになれました~。」
その言葉を聞いた途端、僕の中で何かが膨れ上がった。
既に先輩への敬意は無い。
あるのはただ、ドロドロに煮詰まった黒い感情だけ。
《この不快感の正体。あぁ、そうかこれは。》
―――同族嫌悪だ。
子供の頃からの夢を叶えた先輩。
子供の頃からの夢を叶えられなかった僕。
線対象のはずなのに、どこかで重ならない箇所がある。
その違いが、空白が、僕の劣等感をひどくかきたたせた。
「……ふぅ。」
とにかく少し落ち着こう、そう思って大きく息を吐きだした。
鼻の先から蒸気が抜けていき、思考がクリアになっていく。
「―――それで、実際に獣医をやってみてどうなんですか?」
彼女の言葉に、少し考えるそぶりを見せる先輩。
「そうだね、楽しいよ。夢がやっと叶って、大好きな動物と関われるんだもの。」
ズキリと胸が痛む。
「ただね……。」
「時々ふと思うんだ。もし獣医を目指してなかったら、他の選択肢もあったのかなって。」
声のトーンが少し下がった気がする。言葉にちょっと前までの覇気が乗ってない。
「僕はこの通り、まっすぐ夢だけ追いかけてきたから、周りを見る余裕なんて無かった。」
「……」
気持ちは痛いほど分かる。かつての自分もそうだったから。
「自分に何もなくて見えた景色も、希望も、未来もあったのかもしれない。
そう思うと、惜しい事したかなって。」
「ッ!!」
瞬間、頭に電撃が走った。
聞き手によっては嫌味に思えただろう。
そんな彼の言葉が、冬ばかり来ていた僕の心に春を呼び寄せた。
《そうだよ。今だから、空っぽな自分だからこそ、人生は可能性に満ちているんだ。》
僕と先輩との重ならない部分、その空白はこれから描いていけばいい。
下を向く暇なんて無い、描き終わるまで楽しんでいこう。
「「~~~。」」
相変わらず、前の二人は楽しそうだ。
だけど、その声が何より今は心地いい。
「ふふふっ。」
「あれ?後ろの子嬉しそうだね~。なんかいい事でもあった?」
「いえいえ~、何でもありませんよ。ただの思い出し笑いです。」
振り返った先輩に、笑顔で返した。
「そっか~。そういや、思い出し笑いの事だけど―――」
会話が再開する。
窓越しの空はいつの間にか晴れていて、僕らの帰路にはどこまでも虹が続いていた。




