第80話
かつて近づく者の魂まで凍てつかせる「氷の処刑場」だった大氷壁は、今や大陸中の王侯貴族が予約に殺到する『絶対断熱・極北クリスタル温泉ドーム』へと変貌を遂けていた。
総帥アルベルトが投じた白金貨十億枚。
巨大な断熱クリスタルドーム内には、人工恒星が放つ柔らかな陽光が満ち、床には最高級の黄金毛皮カーペットが敷き詰められている。
ドーム中央の巨大露天風呂からは、薬湯の芳醇な湯気が立ち上り、ユキヒョウたちは「ふにゃぁ……」と幸せそうに目を細め、自慢の長い尻尾をロイドの首にマフラーのように巻き付けて、完全に湯あたり一歩手前のリラックス状態に陥っていた。
「素晴らしい……。この、ダイヤモンドのように澄み渡った氷壁の眺め。そして、首元に伝わるユキヒョウちゃんたちの『体温という名の至福』。これぞ、冬が到達すべき真のラグジュアリーです……!」
『ふにゃん……(お水が温かいの……お兄ちゃんも、はむはむするの……)』
人工太陽を背に、ロイド・グランヴェルの首元では、ユキヒョウが自慢の尻尾を「はむっ」と咥えたまま、ロイドの頬にすり寄っていた。
その横では、秘書官のクラウスが無表情のまま、ロイドのスーツに付着した微かな霜の結晶を『霜取り全自動コロコロ(高速熱風噴射版)』で「シュゴォォォッ! ズババババッ!」と凄まじい音と共に完全に消去している。
そこに、不快な駆動音がクリスタルの床を軋ませて響き渡った。
「貴様ぁ! せっかく我々が構築した絶対零度ミサイルの冷却システムを、ただの給湯器に変えるとは何事だ! ユキヒョウは大陸を氷河期に変えるための『生体冷却核』なのだぞ!!」
デッキを突き破り、青白い冷気を放つフリーズ・ドリルを構えて乱入してきたのは、オーディン直属の『環境再定義班』だった。
彼らは生命のぬくもりを「効率の低下」と断じ、世界を静止した氷の世界に変えようとする、冷酷な機能主義の信奉者たちだった。
「この冷却能力を全て兵器に回せば、全ての国家を屈服させられる! さあ、その毛玉をこちらへ渡せ!!」
リーダー格の男がドリルの冷却バルブを全開にしようとした、その時だった。
「……なるほど。温度を下げること、静止させることだけに固執した結果、自分たちの『情熱の欠如』には気づかなかったようですね」
ロイドは溜息を一つ吐くと、首にユキヒョウを巻いたままゆっくりと立ち上がった。
その瞳には、先ほどまでの慈愛など微塵もない。世界を裏から支配する、冷徹な特命代理としての貌だった。
「クラウス」
「はい、ロイド様。――不良在庫の『一斉解凍(資産メルトダウン)』を開始します」
クラウスがタブレットの実行ボタンを叩いた瞬間。
ドーム内の全人工恒星から、逆位相の「熱振動パルス」が放たれた。
工作部隊が誇るフリーズ・ドリルは、周囲の冷気を瞬時に「熱」へと変換され、ただの「真っ赤に焼けた鉄屑」と化して床に溶け落ちた。
「な、なんだと……!? 我が班の絶対零度兵器が、一瞬でボイルされただと……!?」
「『虚空の開拓者』。あなた方が世界を凍らせようとしたその冷却利権……。そしてあなた方の組織が今期投資していた全エネルギー先物契約を、我が財閥が先ほど『市場独占に伴う強制的買い叩き』によって、すべて紙屑に変えさせていただきましたよ」
ロイドは空中に巨大なホログラムウィンドウを展開した。
そこに映し出されたのは、世界銀行の総裁と、国際環境裁判所の裁判長だった。
「総裁、ならびに裁判長。お疲れ様です」
『はっ! ロイド様! 例の工作部隊による『地球規模の環境破壊およびテロ未遂』の証拠、すべて受理いたしました。彼らが保有する全ての秘密口座は、現在、我が銀行が凍結……いえ、完全に解凍して没収いたしました!』
再定義班のリーダーはその報告を聞き、温かな黄金毛皮カーペットの上で膝をついた。
(バカな、我々の資金洗浄ルートは絶対零度のサーバーで凍結保存されていたはずだ……!)
「あなたが『冷気を奪って世界を凍らせる』という野蛮な作業をしている間に、我が社はあなた方の『存在の熱量(資産)』を蒸発させておきました。……つまり、現在あなたが使用しているそのドリルも、あなたが着ている防寒服の維持費も、既に我が財閥の『廃棄物処理費用』から差し引かれています」
ロイドは、極上の微笑みを浮かべて、破壊者たちの息の根を止める完璧な提案を披露した。
「総裁。この男たちの全機材を、直ちに『大氷壁温泉・全自動サウナストーン加熱器』へ改造してください。没収したドリルは、直ちに『ユキヒョウちゃん専用・尻尾はむはむ同調加温機』の熱源に転用するのです」
世界銀行総裁たちが、感銘を受けたように深く頷く。
『素晴らしいご提案です! これにより北域の平和は守られ、同時に闇の凍結兵器ルートも完全に断たれました! ロイド様、あなたは凍える世界に春を呼ぶ御方だ!』
「ま、待ってくれ! 我々の超低温技術を、ただのサウナに使うというのか!? そんな非科学的な……!」
「科学的? ……そうですね。私にとって最も価値があるのは、この子が温泉上がりに、温まった尻尾を『はむっ』としながら眠る、この非科学的で最高に贅沢な時間ですから」
ロイドの冷徹な宣告に、工作班のリーダーは言葉を失い、絶望のあまり温泉の熱気に当てられたかのように倒れた。
「お引き取りを。あなた方の下劣な氷の砕ける音では、ユキヒョウちゃんが、温泉の湧き出る音を聴き逃してしまいますので」
ロイドが優雅に指を鳴らした直後。
工作部隊の醜い命乞いは、財閥法務部(回収班)によって物理的に塞がれ、そのまま一生「温泉もモフモフもない、乾燥した砂漠の独房」へと強制連行されていった。
ほんの数分。
一滴の血も流さず、一つの巨大な闇組織の環境拠点が社会から消去され、同時に大氷壁が「全人類の憧れのクリスタル温泉リゾート」へと浄化されたのである。
「……ふぅ。まったく、せっかくのはむはむタイムを邪魔されるとは」
ロイドが視線を落とすと、巨大ユキヒョウが「ふにゃぁ……」と嬉しそうに鳴きながら、ロイドの首に巻いた尻尾の締め付けを少しだけ強めてきた。
「ああ、お待たせしましたね。さあ、もう一度、極上の尻尾マッサージを楽しみましょうか」
先ほどまでの冷徹な顔は幻であったかのように、ロイドは目を細め、愛しいユキヒョウの銀灰色の毛並みに沈み込んだ。
「……ロイド様。工作員の資産接収、およびこの氷壁の『特級温泉リゾート・独占運用権』の取得が完了しました。我が社がドームを建設したことで、この極北の地価は大陸最大の保養拠点として天文学的に跳ね上がっております」
クラウスが無表情のまま、『霜取りコロコロ』を「ガシュゥゥッ!」とロイドの背中に転がす。
「素晴らしい。これで、この子たちのためにさらに極上の環境を整えられますね」
破壊者を経済と権力で轢き潰し、世界の温度を守りながら、浄化された大氷壁から莫大な富を生み出す。
世界一理不尽で、世界一優雅なワケアリ不動産の快進撃は、とどまることを知らない。




