58話 雨の兆しと聖者の断罪
老司教が重厚な扉の奥に消えてからしばしの時が流れた頃。事務局の冷たく張りつめていた空気は幾分か和らいでおり、老婆は、手持ち無沙汰に足をぷらぷらと揺らす幼女の頭を、愛おしそうに撫でていた。
そんな中、重厚な扉を叩く音が響く。現れた司教の使いは、テレーズを大聖堂へと呼びに来たようだった。
「ハルさん、クズノハ様。司教様がお呼びですので、しばらく席を外させていただきます。カレンさんがお見えになったら、そのままお帰りいただいても大丈夫ですよ。それまではここでごゆるりとお過ごしください」
一礼した後に扉の奥へと消えていくテレーズの背中を見送ったハルは、幼子を強く抱きしめながら呟いた。
「クズノハちゃん、もう大丈夫だからねぇ……怖い人は、司教様が遠ざけてくれたからねぇ……」
それはあたかも自分に言い聞かせるようで、そのか細い呟きは今にも空気の中に溶けて消えてしまいそうだった。抱きしめられたクズノハは揺らしていた足を止めて老婆の顔を見上げた後、しばらく俯いて何かを考えるようにしていた。
その時、裏口が勢いよく開かれた。
「ハルさん、クズノハちゃん、お待たせ! テレーズさんは?」
「つい先ほど、司教様からのお声がかかりまして……まだ戻ってきていないのですよ」
「そっか……。出発前に挨拶したかったんだけど、仕方がないわね。二人とも、早く馬車に乗って。雲行きが怪しいから、降り出す前に少しでも移動するわよ!」
急かされるように馬車に乗り込む。石畳を叩く車輪の乾いた音が荷台の中に、どこか虚しく響いた。急に冷たくなってきた風が、馬車の幌をばたつかせている。
どこからか、誰かに見られている気がしてならない。門を抜け、街道に出るまでのわずかな時間が、ハルには永遠のような苦行に感じられていた。
だが、そんな逃げるように旅立つ馬車の姿を、街を出ようとして偶然見ている女性の姿があった。
「あれ……あっちに街や村ってあったっけ……? どんだけ歩くかわかんねーけど、一度試しに行ってみよっかねー」
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テレーズが大聖堂へ向かうと、そこには震えながら司教の言葉を拝聴している冒険者の姿があった。彼は膝をつき、両手を床について項垂れているという、隠しきれない哀愁が漂っていた。その瞳からは既に光は失われ、虚ろな焦点で涙が滲んでいる。
老司教は、テレーズの姿を一目見ると険しい表情から一変し、法衣の裾を軽く整えてから穏やかな表情でゆっくりと語りかけた。
「来ましたか、テレーズ。……よく見ておきなさい。これが、己が知的好奇心という名の飢えを満たすため、罪なき幼子を追い回し、敬虔なる信徒の平穏を土足で踏みにじった者の末路です」
「うぐっ……!?」
「いいですか、テレーズ。貴女はいつか、こうした救いようのない迷い仔をも導かねばならない日が来ます。……聖域たる主の家を監視し、そこに怯える命があることにすら思い至らぬ……。路傍の幼子ですら弁えるべき痛みを、知識ばかり蓄えた大人が忘却してしまった。この惨めで、あまりに愚かな魂を、貴女ならどう救いますか?」
「ごふっ……!?」
冒険者の男は絶句をし、口をパクパクとしながら頬に涙が伝わっていた。そして、ゆっくりと顔を動かし、助けを求めるようにテレーズの方へと視線を向けた。
だが、そこにあったのは呆れと憐れみと心の底からの同情の目線であった。
そして、司教は法衣を翻し、さらに語り続ける。
「テレーズよ、見なさい。この男は今、貴女という新たな存在が現れた瞬間に、己の罪を顧みることなく助けの手が来たと信じ込んでいる。……わき目も振らず、自分が他者に与えた絶望には目もくれず、ただ自身が赦されることだけを願う。……このような、あまりに浅ましく、しかし、どうしようもなく人間らしいエゴイズムを、導き、正す。その難しさを、今この光景と共に胸に刻んでおきなさい。いずれ、貴女の役に立つことでしょう」
テレーズは敬愛する老司教……いや、実の祖父に視線を向ける。(お爺様、張り切っておられますけど、そろそろ解放してあげてもよろしいのではないでしょうか?)と内心では苦笑しながら、まじめな表情で祖父からの教育を受けた。
この教育は、その後小一時間ほど続いたが、その後に解放された憐れな男には、この時の記憶がどれほど残っているのかは定かではなかった……。




