ゆうがいじけん・2
ホラアナグマ。
氷河期に生息していた最大級の熊である。
自然の洞窟をねぐらとして生活し、成獣の雄では約600kg、大きいものでは1トンを超えたという。
比較的化石が多く採集されることから、地上の覇者となってもおかしくない個体数がいた時期があるとされ――食性は、「肉食」であった。
「解説は後だ! 逃げろ!」
流星が血相を変えて丹波の首根っこをつかむ。
俺たちは三方に分かれて走り出した。
巨体の熊である。追いかけてくる一歩ごとに氷が震え、嫌な軋み音を立てる。
「怪獣映画かよ」
◇◇◇
爪痕のついたバッグを引っ掴んだ俺は、迷わず渓谷を目指して走っていた。案の定、熊はマーキングした荷物を持つ俺のほうを追いかけてくる。
久しぶりに履くスケートシューズ。
競技中のトップスピード約25km/秒。
だがそれは細かなターンやステップをしながらの速度だ。直線全速力で速く滑ることだけを考えたならもう少し出せるはずだ。
俺たちはスピードを優先した滑り方を知らないし、そもそもスピードスケートとはブレードから違うので参考にはならないが、スピードスケートショートトラックの最高速度は60km/秒にも達するという。
一方、熊は普通に60キロもの速度で走るらしい。つまり鉤爪のついた乗用車だ。
ただ足許は氷、相手はとてもヒグマのように俊敏とはいえない巨体ーー……行ける!
これは賭けだ。
歯を食いしばり、振り下ろされる熊の手を避けながら全力疾走する。
鋭利な鉤爪がかすめるたびに、ブレードの上げる飛沫とは比べ物にならない氷片や水が飛んだ。
ヒグマの一撃で、顔が無くなるとニュースで言っていた。
熊の怪獣みたいなあいつの爪に当たったら、顔どころか全身が無くなる。
ただ、長距離チェイスする必要がないのだけが救いだった。このすぐ先にあったと確信して、俺はこちらの方角をひた走っている。
その目的は…………
ーー渓谷!!
俺はまっすぐに突っ込んだ。スピードを落とす余裕はない。少しでも遅れればあの爪で一撃パシンとミンチにされる。躊躇う余裕はない。
全速力で滑り込み、
谷の底に落ちるギリギリの、
その瞬間に、俺は思い切りバッグを振り投げた。
遠心力で前に引っ張られそうになるのをギリギリで堪え、ぐっとアウトサイドに全重心を乗せて身体を傾ける。
視界が思い切り回り、身体が浮き上がる感覚に襲われる。ブレードが急な方向転換に軋む。
がむしゃらな方向転換に耐えきれない足がステップアウトして、全身が地面に叩きつけられた。
一瞬衝撃で息が止まり、無防備に氷の上に倒れたまま動けない。
熊は。
熊はどこだ。
もしついてきていたらもう死――……
瞬間、凄まじい咆哮が耳をつんざき、地面が揺れた。
地面が水になったように急に流れ、俺はとっさに傍の木を掴む。
薄目でなんとか崖のほうを見ると、その流れに飲まれていく熊が足を踏み鳴らして抵抗しているところだった。
しかし俺のバッグを捕まえようとして半ば崖に迫り出した巨体はもう戻れず、その重みで雪崩れる地面と共に虚空へ投げ出されていく。
崖の下から咆哮が地震のように響いてきた。
「たす……かった……?」
木を握る手に力を込める。ギリギリ雪崩に巻き込まれる位置ではないが念のためもっと崖に遠い場所へと身体を引き上げる。
「勝山さん!!?」
地響きのするような轟音を聞きつけて、散開したはずの流星が全速力で走ってきた。
「無茶しないでくださいよ。金田のバイクみたいでカッコよかったけど!」
流星が飛びつくように俺を抱きしめて怒鳴る。
いつも笑顔しか見せない流星の真剣な顔が怖い。
イケメンの怒り顔ほど怖いと俗に言うが、本当だ、なかなか迫力がある。
緊張と恐怖が限界突破しすぎて、ぼんやり流星の顔を見上げながらバカみたいな笑いが込み上げてくる。
馬鹿みたいだよな。さっきまで怪獣みたいな熊と戦ってたのに、流星のガチギレ顔に肩をすくめてるなんて。
「は、はは……」
情けなく笑っていると、流星はあきらめたように首を振って言った。
「こんなすごいこと、勝山さんしかできないけど。でももう熊とは戦わないでください。死ぬかと思った」
「うん……」と、力なくうなずきながら、俺は流星の腕の中で力尽きた。
◇夏休みをいただきます。次回更新は9月4日(金)予定です◇




