番外編1 婚家を追い出されて侍女になった話
トリニダートはただひたすら苦痛に耐えていた。
結婚して既に半年ほど過ぎ、何度も夫のディマスと肌を重ねたが、彼女は未だに痛みを感じている。初夜の時に初めての妻を労わることもせず、自分の快楽を追い求めたディマスのせいであるが、彼はいつも妻を責めるのだ。
「せっかく抱いてやっているのに、もっと喜んだらどうなんだ。本当につまらない女だな」
ディマスは不機嫌そうに荒い呼吸を繰り返す。
「も、申し訳ありません」
裸の上半身を自分で抱きしめるようにして、トリニダートは震える声で謝った。
「いつも謝るばかりで、夫をその気にさせる努力もしないのだな。格下の家から嫁にもらってやったのに、とんだ外れものだ」
盛大な舌打ちをしながら裸の上からガウンを着て、ディマスは大股で寝室を出て行った。
後に残されたトリニダートは、そっと目から溢れる涙を拭った。この身の置き所もない家で、これから一生姑と夫に気を使いながら生きていくのかと思うと暗澹たる気持ちになる。
それでもトリニダートは逃げ出すこともできない。格上の伯爵家に嫁いだことを喜んでくれた父や母を心配させたくない。それに、実家には未婚の弟と妹がいる。もし、姉が婚家から逃げたりすれば、彼らの結婚にも影響するだろう。
貴族社会はとても狭い。悪い評判は瞬く間に社交界に知れ渡る。おそらく、あの姑は容赦なくトリニダートの悪評を広めるはずだ。
『子どもが産まれれば、少しは変わるかもしれない』
貴族にとって血を繋ぐ子どもは宝である。それはイグレシアス伯爵家の嫡男ディマスや伯爵夫人にとっても変わりないだろう。
トリニダートはまだ宿ってもいない子どもに希望を託しひたすら耐えるしかできなかった。
しかし、運命はトリニダートを更なる不幸に叩き落す。
ある日、数人の騎士が王都のイグレシアス伯爵邸を訪れた。伯爵は領地に戻っているため、伯爵夫人とディマスがエントランスで対応することになった。トリニダートはその場に呼ばれず、夫から自室で待機するように命じられる。
何が起こっているのかわからず不安であったが、夫の命令を無視することもできず、トリニダートはソファに座って待つことにした。微かに怒鳴り声が聞こえてくる。そして、慌ただしい足音が近づいてきていた。
突然、部屋のドアが勢いよく開けられる。
「トリニダートさん! サルディバル子爵が国家反逆の罪を犯したのですって。本当に何という恥知らずなの。そんな家から嫁など貰うのではなかったわ!」
眦を吊り上げた伯爵夫人が部屋に飛び込んできたと思うと、いきなりトリニダートの父親を罵倒した。
「父がそのようなことをするはずはありません!」
トリニダートは思わず反論した。いつもは従順な彼女が反論したことで、伯爵夫人の怒りは更に増した。握りしめた手が怒りに震えている。それでもトリニダートは認めることなどできない。尊敬する父が国を裏切るなどあり得ない。
「騎士たちは君に用があるらしい。とにかく早く下に来てくれ!」
夫のディマスが大声で叫びながら階段を上がってくるが、トリニダートは恐怖のために脚が震え歩き出すことができない。
返事がないことに苛立ったディマスは、部屋に駆け込み彼女の手を引いて無理やり玄関ホールまで連れて行った。
「相変わらず愚図な女だ。本当に手がかかる」
ディマスは怯える妻に気遣いの一つも見せることはなかった。それどころか面倒ごとに巻き込まれてしまったと苛立ちを隠そうともしない。
夫に逆らうこともできず、トリニダートは震える脚を無理やり動かして歩き出す。
玄関ホールには五人の騎士が待っていた。それほど狭くはないはずだが、大柄な騎士が揃うと手狭に感じてしまう。
「サルディバル子爵の長女トリニダート様ですね。第三騎士隊までご同行願います」
先頭に立っている強面の騎士がトリニダートに声をかけた。その騎士は自分の風貌が女性に恐れられることを自覚していたので、なるべく柔らかく聞こえるように努めたが、嫋やかな貴族女性であるトリニダートにはとても恐ろしい声だと感じていた。
「旦那様、父はそのような罪を犯すような人物ではありません。何か誤解があると思うのです。誤解を解くため、どうかお力をお貸しください」
トリニダートは必死の思いで夫を見上げた。彼女には夫に頼る以外にない。いくら情の薄いディマスでも、妻の家族を見捨てたりしないと思っていた。
しかし、ディマスは無言で首を横に振る。
「トリニダートさん! ディマスを巻き込まないで! あなたはもうイグレシアス伯爵家とは何も関係はないのよ。ディマスとは今すぐに離婚してもらいますから。もう二度と我が家の門をくぐらないでくださいね」
ディマスの代わりに答えたのはイグレシアス伯爵夫人だった。手には何通か封書を持っている。
「本気なのですか」
真相も明らかになっていないのに、本当に今すぐ離婚するつもりなのかと、トリニダートはディマスを見つめた。
「し、仕方ないだろう! 君を庇って私まで疑われることになったらどうするつもりだ? とにかく、もう君とは関係ない!」
焦った様子でディマスは母親に同意した。その様子を見て、トリニダートはもう誰も頼ることができないと覚悟を決めた。自分自身の手で父の冤罪を晴らすしかないのだと思うと、震えが止まり冷静になれたような気がする。
「わかりました。今までお世話になりました」
夫と姑に淑女の礼をすると、トリニダートは騎士に向き合った。もう涙も出てこない。ここに戻らなくても良いと思うと方の重荷がとれたような気がするくらいだ。




