結衣の決意
部活が終わり、テニスコートには夕暮れの影が落ち始めていた。部員たちは次々と帰路につき、やがて声も足音も遠ざかっていく。
結衣は一人、静まり返ったコートに立っていた。ほんの少し前までボールの弾む音や掛け声で賑わっていた空間に、今は風の音だけが響いている。
「はぁ…」
深いため息をつく。ラケットを握る手に力が入っているのに気づいて、ようやく力を抜いた。汗で湿った前髪を払いのけながら、結衣はベンチに腰を下ろす。
あれから一週間。あの日見た夢の記憶が、今も鮮明に残っている。
「私…直人のことが好き…」
実験室で口にした言葉を思い出すだけで、顔が熱くなるのを感じる。そんな恥ずかしいセリフ、普段なら絶対に言えないのに。でも、夢の中の自分は、まるで別人のように素直だった。
(あれは、本当に夢だったの?)
最初は単純だと思っていた。直人との催眠術の実験で、自分が夢を見た。ただそれだけのことなのに。
でも、どこからどこまでが夢なのか、だんだん曖昧になってきている。
テニスの勝負で負けて、催眠術の実験台になる約束をしたこと。
実験室で直人が術をかけようとしたこと。
そして、突然直人のことを好きだと気づいて告白したこと。
デートの約束、キスの感触。
実験室で目を覚ましたこと。
実験室で目が覚めたのは確かだ。あの実験室は、普段なら立ち入らない場所。そこにいたということは、少なくとも「催眠術の実験台になる」という約束は、現実だったはずだ。
「でも、それなら…」
結衣は空を見上げた。夕焼け色に染まり始めた雲が、ゆっくりと形を変えていく。
(あの告白も、キスも、全部夢だったの?)
思い返せば、直人の様子もおかしかった。実験室の前で鉢合わせした時、直人は妙にそわそわしていて、まともに目を合わせようとしなかった。それ以来、教室でもどこか気まずそうにしている。
もしかして、あの夢は単なる夢じゃなかったんじゃないか。直人も何か変なことを感じているんじゃないか。そんな疑問が、日に日に大きくなっていく。
(こんなのおかしいよ)
テニスラケットを握り直し、コートの向こう側を見つめる。いつもなら、放課後に直人を誘って勝負をしているはずなのに。今は、どうしてか声をかける勇気が出ない。
「なんで?」
自分の中の変化に、結衣は戸惑っていた。直人の姿を見ただけで胸が高鳴るなんて、今までなかったことだ。彼の声が聞こえると、夢の中での言葉が蘇ってくる。教科書を貸したときに指が触れて、その感触に思わず身を引いてしまう。
これが催眠術の影響なのか、それとも本当は昔から気づかなかっただけなのか。
(小学生の時、直人が言ったのよ。『結衣のことをお嫁さんにする』って)
夢の中で自分が言ったセリフ。でも、確かに小学生の頃、そんなことがあった気がする。転校して間もない頃、隣の席だった直人が照れくさそうに言った言葉。
「忘れてたわけじゃない。でも…」
忘れていたわけではない。ただ、子供の頃の思い出として、どこか遠い記憶になっていただけ。それが今、鮮明によみがえってくる。
結衣はゆっくりと立ち上がる。夕暮れのテニスコートは、オレンジ色の光に包まれていた。風が吹き、木々が静かにざわめく。
(こんなのおかしい。私らしくない)
自分でも分かっている。こんな風に悩んだり、気持ちが揺れたりするのは、いつもの自分ではない。
そして、もう一つ分かっていることがある。
このままじゃ、ダメだということ。
結衣はラケットをバッグにしまうと、ポケットから携帯電話を取り出した。少し迷った後、決意を固めて連絡先リストを開く。
「直人…」
名前をタップする指が、わずかに震えている。呼び出し音が鳴る。一度、二度、三度…。
「もしもし?結衣?」
聞き慣れた声。でも今は、心臓が大きく跳ねる。
「あのね、直人」
結衣は深く息を吸った。
「明日、勝負しない?テニスで。私が勝ったら、質問に答えてもらうから」
一瞬の沈黙の後、受話器の向こうから直人の声が返ってきた。
「…分かった。いつものコートで」
「うん。じゃあ、明日」
電話を切り、結衣は夕暮れの空を見上げた。
(こんなの私らしくないけど、でも…今度こそ、絶対に勝つ。そして全部聞いてやる。)
オレンジ色に染まった雲の向こうに、小さな星が一つ、瞬き始めていた。




