コオリの魔女 (6)
冬が来る。目が覚める。祠の後ろで、ゆっくりと身を起こす。洞穴の外を見ると、世界は白く染められている。うん、いつも通りだ。安心する。
ここ十年程で、この辺りはだいぶ賑やかになった。スキー場開発。山の木が沢山切られて、ゲレンデが造成された。風を切って滑るスキーヤーたちはなかなか優美だ。タルヒは良く彼らと並んで雪上を滑走した。
人の世界の時間の流れは早い。目まぐるしく、世界のカタチそのものを作り替えていく。タルヒが永い眠りから目覚めるたびに、宿の数が増え、土産物屋が建ち、多くの人が訪れるようになった。
タルヒの洞穴の前にある宿も、相変わらず繁盛しているようだ。タルヒの部屋もまだ用意されている。スキー客用の別館まで建てていた。別館の方はいつも若者たちで賑わっている。
若者。スキー板やスノーボードを担いだ若い人間を見ると、タルヒは胸の奥が痛んだ。ヒロトは今どうしているだろうか。生きていれば、丁度これくらいの年の頃だろうか。
生活には馴染めただろうか。新しい父親との関係はどうだろうか。友達は出来ただろうか。
恋人は、出来ただろうか。
考えても仕方無いことばかり考えてしまう。今更、何を思ったところでどうなるというのか。
ヒロトは、もうここには帰って来ない。
タルヒが自分でやったことだ。ヒロトはもう、タルヒのことを思い出すことは無い。
この土地に来る理由も無い。
もしヒロトが再びここを訪れることがあるとすれば。
それは奇跡だ。
団体客が来る時期なので、タルヒは宿の別館の方に顔を出してみた。大型バスから、大勢の高校生が降りてくる。毎年スキー教室でやってくる学校だ。がやがやと楽しそうにしている。ようこそ、いらっしゃいませ。
荷物を部屋に置いて、レンタル店の方に移動する。これも例年通り。女の子が一人転びそうになる。こういうのも毎年必ず一人はいる。思わず吹き出してしまった。ごめんなさいね。
月日は巡る。
ヒロトがいなくても、時間は流れる。過ぎていく。
ふと気が付けば、もうヒロトなんて死んでしまった後なんてこともあるだろう。
それが正しい。あるべき姿。
タルヒは、胸の中にあるヒロトの思い出だけがあれば良い。
そう思っていたのに。
見付けてしまった。
別館の入り口に立つ、黒い人影。
タルヒの心の中がざわめき立つ。
どうして。
奇跡なんていらない。
タルヒはそんなことなんて望んでいない。
忘れていたい。このまま、静かにここで過ごしたい。
でもなんでだろう。
とても、嬉しい。
「タルヒのこと、思い出しましたか?」
朝のスキー講習の出発前、囲炉裏の所に顔を出したら、都合良く昨晩会った男の人がいた。ヒロトさん。かつて、タルヒが記憶を氷漬けにし、封印した、大切な人。
昨日ヒロトさんの心の中を覗いた時、不思議な気配がした。タルヒに会って、その正体ははっきりとした。ヒロトさんの中には、タルヒによって封じられた思い出がある。タルヒと過ごした、幾つかの夏。
ヒナはヒロトさんの中のそれを、全て元通りにした。銀の鍵で、タルヒへの想いを取り戻す。これはきっと、タルヒ自身の願いだ。そうでなければ、この想いを氷漬けのままここに残しておいたりなんてしない。
「キミは、タルヒを知ってるのか?」
ヒロトさんはそう訊いてきた。でも、ヒナのことはこの際どうでも良い。ヒロトさんにとって大事なのは、タルヒのこと。今までずっと忘れていた、洞穴に住む寂しい女の子のこと。
ヒロトさんはしばらく考え込んでいた。悩むことなんて何もない。今すぐタルヒの所に行けば良いのに。ヒナはそう思っていたんだけど。
「俺は、タルヒには会わないよ」
それが、ヒロトさんの答えだった。タルヒがそこにいてくれているなら、それで良い。ヒロトさんはそう言って笑った。
タルヒと会うことは、タルヒを悲しませることになるかもしれない。タルヒはヒロトさんと別れるために、大きな覚悟をしたはずだ。ここでヒロトさんがタルヒに会いに行ってしまえば、その意思を台無しにしてしまう。
ヒロトさんは無事に生きている。タルヒも、ここにいる。それで良い。
リフトの列に、ぼんやりと並ぶ。キンコーン、前の人に詰めてお並びください。ガイド音声がリピートされている。キンコーン。うるさい。
結局時間が無くて、そのままスキー講習に来てしまった。それに、ヒロトさんを説得するというのもどうなのだろう。無理に二人を会わせてしまうのは、何かが違う気がする。
タルヒは、きっとヒロトさんを待っている。いつかヒロトさんがタルヒのことを思い出して、会いに来てくれると、心の奥底では信じている。そうでなければ、凍らせた記憶をヒロトさんの中に残しておく理由が無い。
ヒロトさんも、タルヒに会いたい気持ちはあるはずだ。失礼になるから、そこまで心の中は読んでいない。でも、ヒロトさんはタルヒに「会いたくない」とは一言も口にしなかった。それに、本当に会わないで良いと思っているなら、あんなに悲しそうには笑わない。
「ヒナ」
声をかけられてハッとした。知らない間に、いっぱいリフトの順番を抜かされていた。横を見ると、ハルが隣に並んでいた。
「考え事?」
「うん、ごめん」
そのまま二人で前に進んで、ペアリフトに乗った。がごん、って音がして、白銀の世界に飛び出す。冷たい風が頬に当たって痛い。空はどんよりと曇ってる。少しだけ、雪が降っている。タルヒは今頃、何をしているんだろう。
「ハル」
ハルの腕を、ぎゅっと抱いた。ヒナには判らない。どうしたらいいんだろう。
あの二人はあんなに会いたがっている。惹かれあっている。それなのに、お互いに会ってはいけないと考えている。
何がいけないんだろう。タルヒの苦しみ。完全に理解出来る訳じゃないけど、推し測ることぐらいは出来る。人間と神様は違う。それは以前、土地神様からも聞いた。そこには越えられない、沢山の壁がある。
「ヒナ、悩んでる?」
うん、ごめんね、ハル。ヒナはまた、余計なことに首を突っ込んじゃった。
幸せになって欲しい人たちがいる。その人たちは、お互いのことをとても大切に想っている。それなのに、会ってはいけないって、そう考えているんだ。
おかしいよね。会いたいのに、会えるのに、会ってはいけない。
ヒナなら、どんなことをしてでもハルに会いに行くよ。だって、ハルはヒナの唯一の居場所なんだから。こうやってハルと一緒にいられるのが、一番の幸せなんだから。
いてほしい。近くにいてほしい。
たとえ触れられなくても、近くにはいてほしい。
そこにいるって、確かにいるって感じたいんだ。
ぐわん、と大きくリフトが揺れた。
ビーっていう長いブザー音。風に煽られて、リフトがゆらゆらと振れる。誰かがリフトを降りるのに失敗したのだろう。宙吊りのまま、ハルと二人きり。山の斜面、静かな木々の合間。
「大丈夫だよ。すぐ動くから」
うん。そうだね。
すぐに動き出す。そう思う。
だけど、ヒナはじっとしているのは好きじゃないんだ。
曙川ヒナさん。不思議な人だった。タルヒの姿を見て、タルヒの声を聞くことが出来る、二人目の人。
何でも知ってるみたいで、何でもお見通しって感じだった。タルヒなんかよりも、ずっと神様みたいだ。まあ、神様にしては、ちょっとあけすけな感じがするかな。
期待外れ。
確かにその通りだ。本当に申し訳ないことをしたと思う。そういう態度が表に出てしまっていたのか。人と言葉を交わすのが久し振りで、その加減が判らなかったのかもしれない。
或いは。
タルヒの言葉が届くのは、ヒロトだけだって思いたかったのかもしれない。
昨日からずっと曇り空だ。ぱらぱらと雪も降っている。今日辺りはいっぱい積もるかもしれない。
タルヒは洞穴の外に出た。雪景色。何処までも白い。タルヒの世界。
何もない、タルヒそのものの世界。
心がざわついている。
理由は判っている。あるはずの無いことが起きているからだ。そんなこともあるんだ。事情を知った時は言葉を失った。
自分でやったことなのに、それが破れてしまえば良いと願っている。起きてはいけないことを望んでいる。
また、恐ろしいことを考えてしまっている。
ああ、やっぱりだ。
曙川ヒナさん、あなたは酷い人だ。
今朝あなたにヒロトの話をした時、こうなるだろうって、理解はしていた。
理解した上で、タルヒは話した。そう、心の底で望んでいたんだ。きっとあなたがこうしてくれるだろうって。
あなたは、心を読むのでしたね。
タルヒの想いなんて、きっと何もかも判っていたのですね。
白い雪の上に、黒い染みが一つ。
遥か奥底に封じ込めていたはずなのに、全てを突き破って顔を覗かせた。
二度と会わないって決めたのに。二度と会えないって諦めてたのに。
「タルヒ」
ヒロト。
ヒロトが、タルヒの名前を呼んでいる。
大きくなったね、ヒロト。初めて会った時は、タルヒと変わらなかったのに。
もう大人だ。タルヒはヒロトの顔を見上げないといけない。
嫌だなぁ。
泣いてるの、判っちゃうじゃない。
「ただいま、タルヒ」
ヒロトがタルヒに歩み寄ってくる。
もう来てはいけないって言ったのに。思い出したら、ここに足を運んでしまったの?
どうして。
タルヒは、あなたを魅入ってしまう。愚かな氷の魔女。
「ヒロト、ダメだよ。私はあなたを惑わせるだけの、魔女なんだ」
タルヒとヒロトは、交わってはいけないんだ。
住むべき世界が違うんだ。
こんな風に、想ってしまってはいけないんだ。
二人の過ごす時間はこんなにも違う。
ほら、ヒロトはもう大人になった。タルヒはあの時のまま。
タルヒとヒロトは全然違う。何もかも。ありとあらゆるものが、異なっている。
「タルヒ、俺は」
言わないで、ヒロト。
それ以上何も言わないで。
怖い。自分の中が熱くなっていくのが怖い。ヒロトへの想いが止まらなくなるのが怖い。
一度、忘れようと思ったんだ。ヒロトには、ヒロトの住む世界で生きてほしかったんだ。
タルヒのわがままなんて、聞かないでほしいんだ。
雪が降ってくる。全てを覆い隠す雪。
ヒロトとタルヒも、その下に埋もれさせて。世界の全てを白に染めて。
「タルヒがそこにいてくれれば、俺のことを待っていてくれれば、それでいい。そう思ってた」
ならば、それで良かったじゃないですか。
タルヒはここにいます。
その想いを抱いて、そっとここから立ち去ってくれても良かった。
これ以上、タルヒの心を惑わせないでください。
タルヒは、ヒロトを惑わせて、ヒロトに惑わされる。愚かな魔女。
「タルヒ」
ヒロト。
「ここで、きみに会いたかった。傍にいたいんだ、タルヒ」
もうダメだ。
タルヒの身体の中に熱がある。この熱が、タルヒを溶かしてしまいそう。いいよ。そのまま、溶けて消えてしまいたい。
ああ、満たされる。
タルヒの中が、ヒロトへの想いで。熱く、満たされていく。
タルヒはヒロトに、生きていてほしい。
生きて、タルヒの傍にいてほしい。
タルヒはここにいるよ。ずっとここにいる。
ここで、ヒロトのこと、待ってる。
タルヒは、ヒロトにいてほしいのです。
ヒロトが、タルヒにいてほしいと望むのと、同じように。
おかえりなさい、ヒロト、タルヒの所に。
おかえりなさい。
「おかえりなさい、ヒロト」
「やー、お待たせ。ごめんね」
「もう良いのか?」
まあ、大丈夫でしょう。あの二人のお互いを想う気持ちは強いから、素直になれれば良いだけなんじゃないかな。
午後の自由時間、ハルにお願いして一度宿まで引き返してきた。ヒロトさんはすぐに見つかった。囲炉裏の所で、ずっと考え込んでいた。やれやれ。
「タルヒが待ってます。会いたがって泣いています」
たったこれだけ。ヒロトさんを動かすのに必要な言葉なんて、それだけで十分だ。後は二人の問題。多分うまくいくでしょう。
それにしても、色々と偶然が重なったものだ。ヒロトさんの実父がお亡くなりになって、その法要が行われた。時同じくして、ヒナの学校のスキー教室があった。更に、ヒナとヒロトさんは同じ宿に泊まった。
神様に言わせれば、これも縁って奴なのかもね。タルヒはヒロトさんと再会する運命にあったんだよ。二人の出会いにはきっと意味があるんだと思う。そう信じている方が、きっと幸せだ。
ハルは「ヒナが忘れ物をした」程度に思っているだろう。ごめんなさいね、おっちょこちょいで。
雪がだいぶ強く降り出してきた。ああ、とりあえず何処かに入ろう。寒くて凍えちゃいそう。
ふと、この雪を降らせているのは、タルヒなのではないかと思った。何も出来ないなんて言っていたけど、この土地一帯からはしっかりとタルヒの気配を感じる。
タルヒと思われる女の子があの祠で祀られてから、この辺りで大きな雪崩は起きていないということだ。ユマの受け売りだけどね。きっと、タルヒはそういう神様なんだと思う。
冬と、雪の神様。可愛くて素敵だ。
近くのお土産屋さんの軒下に避難した。しかしすごい雪だ。視界を完全に覆い隠すほど。これは危なくて動けないな。ストーブが置いてあったので、その近くに寄らせてもらった。あったかーい。
全てを雪に覆い隠して、タルヒは今頃何をしているんだろう。これはきっと、涙を隠しているんだろうな。或いは、身体の熱を冷ましているのか。良い方向にしか考えないよ。ヒナは、二人がうまく行くって信じてる。
「ねえ、ハル?」
ハルはお土産のお菓子を選んでいる。「スキー場に行ってきました」系のヤツ。そういうタイプだと、安くて量がある方が良いよね。
「ハルは、もし私のことを忘れちゃったとして、それでも、私のことを見付けてくれる?」
何言ってんだ、という顔でハルが見てきた。うん、ヒナも自分で何言ってるのかよく判らない。ちょっと訊いてみたかっただけなんだ。
ふぅっとため息を一つ吐いて、ハルはヒナの頭の上に掌を乗せた。ハルの手、大きくなったな。ヒナの髪を触る。心地良い。優しく撫でてくれる。ハル、大好き。
「見付けるよ、必ず」
ハルはそう断言した。ありがとう、ハル。
小学三年生の時、ヒナは雨の中自転車で家出した。転んで、怪我をして、誰も見ていない場所で、一人で泣いていた。
それを見付けてくれたのは、助けてくれたのは、ハルだ。あの時、ハルに背負われて、ヒナはハルに恋をした。ハルはヒナにとって、掛け替えのない人になった。
ハルはいつでもヒナを探してくれる。見付けてくれる。ヒナの居場所になってくれる。
そこに、いてくれる。
外から、光が射した。
雪が止んで、晴れ間が見えていた。眩しい太陽が、銀世界をきらきらと照らし出している。何もかもが輝いている。世界の全てが、そこにある全部が、光で出来ている。
良かった。きっとうまく行ったんだ。
「タルヒ」
ヒナは、思わずタルヒの名前を口にしていた。
「ん?つららがどうかしたか?」
ハルが変なことを言った。つらら?えーっと、ヒナ、そんなこと言いましたっけ?
「いや、タルヒって、垂氷だろ?つららのこと」
おお、そんな意味だったんだ。知らなかった。ハル、物知りだね。意外。ちょっと見直した。
「親父の親戚がなんかそんな言い方してた。珍しいなって思って覚えてたんだ」
ふうん、そうなんだ。
タルヒ、素敵な氷の神様。また来年、ヒナはスキー教室に来るよ。タルヒに会いに来る。その時、今日あったことを聞かせてね。
読了、ありがとうございました。
物語は「ハルを夢視ル銀の鍵」シリーズ「モウ一人のワタシ」に続きます。
よろしければそちらも引き続きお楽しみください。