コオリの魔女 (5)
ヒロトと蛍を見た、次の年の夏。
ヒロトは、タルヒのところに来なかった。例年のように目を覚まして、タルヒは祠の横に座っていた。暑い。洞穴の外では、大きな入道雲が伸びあがっている。青い空を眺めているだけで、身体が溶けてしまいそう。
一日中、タルヒは外を見ていた。陽が昇り、蝉が騒ぎ、雲が流れ、夕立が地面を叩き、星空が浮かぶ。星の瞬きが蛍を思い出させて、ほろり、と涙がこぼれた。
夏は、嫌いだ。
思い出ばかりが出来てしまった。何を見ても、何を聞いても、ヒロトのことばかりだ。夏には、他に何も無い。夏は、ヒロトの季節。
ヒロトがいなければ、誰もタルヒの言葉を聞くものはいない。タルヒの姿を見るものはいない。いてもいなくても変わらない。何のためにここにいるのか、判らなくなる。
満たされていたんだ。
どろどろに溶けてしまうこの身体が、ヒロトによって満たされていた。そう思うと、つらかった。
どうしてヒロトを拒絶してしまったのだろう。また来てほしいと、何故そう言わなかったのだろう。傍にいてほしいって、お願いすれば良かったのに。
気持ち悪い。
自分が。陽射しの下を歩けない自分が。生きている人間の目に映らない自分が。言葉を交わすことの出来ない自分が。たまらなく気持ち悪い。
一度、照りつける強い太陽の光の中に、全身を晒してみた。身体中が泡立って、ふつふつととろけていくのが判る。指が落ちる。腕がもげる。足が崩れる。このまま、何もかも消えてしまえと思った。
気が付いたら、夜半を過ぎていた。ゆっくりと身体を起こす。腕も足もある。何もかも元通り。ただ、空気が生ぬるいせいか、少しぐずぐずしている感じがする。本当に、気持ち悪い。
すでに死んでいるタルヒには、もう死ぬことも出来ない。許されていない。タルヒは何なのだろう。どうしてここにいるのだろう。理由なんて無いのかもしれない。でも。
もう、タルヒはここにいたくなかった。消えてしまいたかった。
冬が来た。結局、タルヒは夏から一睡もしていなかった。
雪が積もり始めて、タルヒは洞穴の外に出た。白い世界。タルヒの世界。夏とは違って、何もかもがじっと息をひそめる、静寂の支配する世界。
終わった。そう思った。ヒロトのいない夏を終えて、タルヒは元の世界に、元の場所に帰ってきた。
思い起こせば、この静かな世界で、タルヒは一人でいたのだ。そう考えれば、何も悩むことは無い。楽しい夢を視ていた。そして、夢は覚めてしまった。仕方が無い。
雪原の上を走る。ヒロトと蛍を見た小川は、雪の下に埋もれている。この時期は、もう何もかもが白一色だ。そこに何があったかなんて関係ない。
タルヒの心にも、きっと雪が積もる。冬になれば、ヒロトのことだって忘れていられる。全部、雪に埋もれてしまう。
夏が来なければ良い。昔のように、冬が終わったら眠りについてしまえば、夏なんて訪れない。
タルヒの季節は、冬だ。冬だけがあれば良い。誰もいらない。何もいらない。こうやって、白銀の中でただ一人、世界を見つめていられれば、それでいい。
本当に、それでいい。
とぼとぼと、タルヒは洞穴の前に戻ってきた。夜になるのを待って、宿にある自分の部屋に行ってみよう。今夜はどんなお客がいるだろう。何か面白い話は聞けるだろうか。ヒロトに話すようなことがあるかな。
そう考えて、胸が痛くなった。もう、ヒロトは来ない。ヒロトには会えない。何度自分に言い聞かせれば判るのか。
「タルヒ」
死んでも幻聴があるのか。どうしてもヒロトの声が聴きたいのか。いよいよタルヒはおかしくなってしまったのか。
洞穴の中に入り、祠の前に立って。
「タルヒ、久し振り」
そこにいるヒロトの姿を見て。
「ヒロト」
タルヒは、泣いた。ヒロトの前で初めて、涙を流した。
ヒロトの両親は離婚し、ヒロトは母親に引き取られた。
母親はすぐに再婚した。その再婚相手、新しい父親と、ヒロトは馴染めないでいた。
家も引っ越した。学校も変わった。名字も変わった。何もかもが、今までと違った。
子供であるヒロトに、逆らうことなど出来ない。言われるがままに全てを受け入れ、新しい生活を始めた。
だが、何もかもが違和感でしかなかった。聞きなれない名字で呼ばれる。知らないクラスメイトたちに囲まれる。父親を名乗る男が家にいる。その家ですら、見知らぬ土地の見知らぬ建物。
昔からの持ち物は、母親が全て捨ててしまった。ヒロトが、ヒロトであったものなど、もう何もない。ヒロトという自分ですら、もう何者であるのか、ヒロト自身にも判らない。
「だから、飛び出してきた。タルヒに会って、俺が、俺だって思い出したかった」
ヒロトの話を聞いて、タルヒは嬉しかった。タルヒは、ヒロトの唯一の拠り所になっている。夏の日々を過ごしたタルヒが、ヒロトがヒロトであることの支えになっている。
ヒロトが、タルヒを求めてくれている。タルヒを必要としてくれている。
冬に、この季節に、ヒロトがタルヒの下を訪れてくれている。
自分の中が、ヒロトで満たされていく。ヒロト。タルヒが、ヒロトを、あの夏の日のヒロトを思い出させるんだね。
それなら。
「ヒロト、すぐにここから出ていきなさい」
タルヒの声は、冷たい刃のようだった。
一瞬何を言われたのか判らず、ヒロトは呆然とした。タルヒはそれ以上の言葉を発しなかった。黙って洞穴の出口を指し示した。
「タルヒ、どうして?」
タルヒは応えなかった。ヒロトの方を見ようともしなかった。
タルヒが、タルヒだけがヒロトの支えになるようなことは、あってはならない。
タルヒは死者だ。この世のものでは無い。そんな存在が、生きている者であるヒロトの支えになど、なって良いはずがない。
確かに今、ヒロトは苦しいかもしれない。沢山の変化の中で、押し潰されそうになっているかもしれない。
過去の自分が全て否定されてしまう。確かにつらいだろう。でも、そこで過去に逃げたところで、何が得られるというのか。
ヒロトは前に進まなければならない。立ち向かわなければならない。ヒロトがこれから生きていく世界がそこであるなら、ヒロトはどんなに苦しくてもその道を行かねばならない。
タルヒは、ヒロトの過去だ。もうこの世にはいないものだ。
ヒロトの未来を創るものでは無い。タルヒはここにいるだけだ。ヒロトに何かをしてあげられる訳ではない。ヒロトが生きていくことを、手助け出来る訳ではない。
「タルヒ」
ヒロトはその場を動こうとしない。タルヒに、すがるような目を向けてくる。
「ヒロト、私は魔性だ。ヒロトの心を惑わせる魔性。魔女だ」
タルヒを好きていてくれるヒロト。タルヒも、ヒロトのことが好きだよ。ヒロトに元気で生きていてほしい。
「私に惑わされるな。ヒロト、お前には生きるべき場所がある」
ヒロトに必要とされて、タルヒは嬉しい。ここにいる意味があるって思えて、とても満たされる。暖かくなる。
「私の存在が、ヒロト、お前が今を生きる妨げになるというのなら」
ヒロト、タルヒはヒロトの中に、思い出としていられれば、それで良かった。
夏の日の思い出。二人で観た、蛍。二人で食べた、西瓜。二人で過ごした日々。
忘れない。忘れてほしくない。
「お前の中から、私という存在を消そう」
タルヒは、ヒロトの中にあるタルヒの記憶を凍らせた。夏の日の思い出を、全て。楽しかった日々。掛け替えのない、光り輝いていた毎日。
そして意識の奥深くに、そっと沈めた。さようなら、ヒロト。思い出すことは無いかもしれないけど、タルヒはここにいるよ。ヒロトの中にも残ってる。残しておく。タルヒの未練。諦めきれない気持ち。
少しして、何人かの人間がやって来て、倒れているヒロトを発見した。ちょっとした騒ぎになって、ヒロトは担ぎ出されていった。後には、静けさとタルヒだけが残された。
タルヒは祠の横に座ると、無言で膝を抱いた。ヒロトが、無事に生きてくれますように。
自分が神様なら、その願いを叶えられるようにと。
心の中で、祈った。
宿の大広間に集まって、わいわいと朝御飯だ。納豆、焼き鮭、味付け海苔、生卵、佃煮。白米に対して味付けの濃いおかずが多すぎる。ああ、やっぱりハルが早速おかわりしている。もう、塩分とか、炭水化物とかちゃんと考えないと。
でもこの野沢菜は美味しいな。ポリポリ。お土産に買って行こうかな。漬け方のコツとか判るかな。ポリポリ。
野沢菜をつまみながら、今朝方タルヒに聞いた話を反芻する。なるほど、そういうことだったのか。色々と腑には落ちた。
さて、そうなったら後は、知ってしまった身としてどの程度のお節介を焼くべきか。困ったものだ。知らないでいればそれで済んだ話だったのに。
今日は午前中はスキー講習の続き。午後は自由行動になっている。夕方にはバスに乗ってさようなら。強行軍だ。まとまった時間が取れるとすれば、自由行動の時なんだけど。
「午後はどうするの?やっぱり朝倉と二人?」
ユマが寝ぼけ眼で訊いてくる。ユマ、大丈夫?ちゃんと寝た?まあ、今朝見た感じだとしっかりと睡眠は取っていたみたいだけどさ。
そうなんだよねぇ。折角ハルと二人でお土産屋さんなり、洒落た喫茶店なりに行くチャンスでもあるんだよねぇ。おいしい焼きリンゴの店とかあるみたいだし。ユマともいい機会だから色々と見て回りたいし、ハルとも雪国デートしたいよなぁ。はぁ、時間はいくらあっても足りない。
とはいえ、今後の寝覚めが悪くなっても困るんだよね。神様関係に恩は売っておいて損は無い。スキー旅行は毎年この宿に泊まるらしいし、なるべく高く売りつけておきましょう。
そうと決めたら善は急げだ。今からならまだ間に合うかもしれない。出来ることは出来るうちに。
あ、その前に野沢菜。多分この宿で漬けてるんだよね。すいませーん、これって小売してますか?