コオリの魔女 (3)
まどろんでいたタルヒが、ふと目を覚ました。強い光が洞穴の中に射し込んで来ている。暑い。夏だろうか。
この時期に起きるのは珍しい。何事も無ければ、タルヒの意識が戻るのは雪が降り始める頃だ。
何かあったのだろうか、とタルヒは視線を巡らせた。
「わ」
声がして、びっくりした。慌てて起き上がる。洞穴の奥の方に転がり込む。大して深くないし、隠れるような隙間も無い。その行為にどの程度意味があるのか判らない。
恐る恐る振り返ってみると、祠の横に人影があった。
小さい。大人ではない。祠よりも少し高い程度の身長。ざくざくに短く切られた髪。細い手足。真っ黒に日焼けした肌。
「お前、誰だ?」
男の子だ。見慣れない感じ。いや、それより。
「あなた、私が判るの?」
声を出すのもなんだか久しぶりだ。何年ぶりだろう。ちゃんと喋れているだろうか。男の子の顔をじっと見る。
眉毛が濃くて太い。団子っ鼻。やんちゃな感じだな。野山を駆け巡っている印象。
「判る。お前、ひょっとして、座敷童か」
そう言われると、なんだかちょっとムッとなった。確かにそうかもしれないけど、面と向かってそう言われるのは面白くない。イタズラばかりしている子供みたいだ。
「私はタルヒ」
ぷいっと横を向く。言葉が交わせる。心の中がざわつく。不思議な感情が湧き上がってくる。
「そうか、俺はヒロト」
ヒロト。その名前を、口に出さずに何度も繰り返す。初めてタルヒの姿を見て、タルヒに気付いてくれた。タルヒに声をかけてくれた。初めての人。
そっとヒロトの方を窺う。ヒロトは白い歯を見せて笑っていた。長い間忘れていた、夏の陽射しに似た笑顔だった。
ヒロトは、夏休みの間だけ父親の実家があるこの辺りに来ているということだった。
狭い洞穴の中、祠の後ろに並んで座った。生きている人とこうやって話すのは初めてだった。タルヒは胸が躍る気分だった。
「冬の間は座敷童がいるって聞いてたからさ」
では、夏にはどうしているのだろうかと、ヒロトは探していたのだそうだ。
宿の近くに洞穴があって、入り口に赤い鳥居が建てられていた。中を覗き込んでみたら、女の子が祠に寄りかかって眠っていた。
この子が座敷童だろうと、ヒロトはすぐに確信したという。
「ヒロトは、私のことが見えるのね」
もっと小さい頃から、ヒロトは不思議なものを見ることがあったのだという。他に人には見えない何か。だから、自分なら座敷童が見つけられると思って、宿の中や周辺を虱潰しにあたっていた。
「座敷童って言われても。私はそういうものじゃないよ」
では何なのか、と訊かれても困ってしまう。タルヒ自身、自分が何者なのかは判らない。ただの死人。かつてここで死んだ女の子、というだけなのか。
「ヒロトには、私はどう見える?なんだと思う?」
タルヒ以外にも、不思議な何かを見たことがあるというヒロトならば。タルヒのことが判るかもしれない。
ヒロトはじっとタルヒのことを見て。
にっ、て笑った。
「わかんねえ。女の子にしか見えない」
女の子。ヒロトには、タルヒが普通の女の子に見えるのだろうか。
タルヒは自分の身体を見下ろした。今日みたいな夏の日に外に出れば、どろどろに溶けてしまう自分。こんなタルヒが、普通の女の子な訳がない。
「ヒロト、私は普通じゃないんだよ」
タルヒは自分のことを語った。恐らく、遠い昔に雪崩で死んだ人間であること。冬以外の日に外に出れば、溶けてしまうこと。宿には旅人の話を聞くために訪れていること。
タルヒの話を、ヒロトは熱心に聞いてくれた。自分の言葉が届くのだと思うと、タルヒは饒舌になった。
自分のことを知ってもらいたかった。自分が何者なのか判らない苦しみを、判って欲しかった。
気が付くと、陽が落ち始めていた。ひぐらしの声が聞こえる。洞穴の入り口から差し込む光が、橙色に変わっていた。
「ヒロト、もう帰らないといけないんじゃない?」
タルヒにそう言われるまで、ヒロトはその場を動こうとしなかった。急かされても、なかなか立ち去る素振りを見せない。タルヒは困ってしまった。
「どうしたの?帰りたくないの?」
「タルヒは、どうするんだ?」
「私はここにいるわ。今までもそうだったし、他に行くところも無いもの」
「一人なのか?ずっと?」
はっとして、タルヒはヒロトの顔を見た。気付いてしまった。
タルヒは、一人ぼっちだった。
ヒロトに指摘されるまで、そんなことは考えたことも無かった。この洞穴の中で、タルヒは独り。誰とも出会うことは無い。誰とも言葉を交わすことも無い。
寂しい。
感じたことの無かった気持ちが込み上げてきた。ヒロトがこのままここを去れば、タルヒはまた、一人ぼっち。祠の後ろで、そっと膝を抱いて眠りにつく。
「そうだよ、ヒロト」
だから、どうだというのだろう。ずっとそうだった。気付いたからなんだというのだろう。
タルヒは、そうしてきた。もう何年もの間、そんな時間を過ごしてきた。
「さようなら」
外の光に触れないように、祠の後ろから手を振る。眩しい外の光の下で、ヒロトがこちらを振り向くのが判る。これでいい。
楽しい時間だった。人とお喋りが出来るなんて。こんなこともあるんだ。
でも、知らなければ良かったとも思った。むしろ知ってしまったからこそ、苦しくなる。愛しくなる。欲しくなる。
ヒロトは普通の人間だ。タルヒと同じ時間を生きられる訳ではない。この洞穴を訪れる人間や、宿に勤める人間が年老いていく様を、タルヒは実際に見て解っている。
どんなにヒロトが特別でも、タルヒのものには出来ないし。
ヒロトは、タルヒよりも先に、老いて死ぬ。
どうして一人なのだろう。タルヒは悲しくなった。せめてもう一人いてほしかった。タルヒと同じ時間を生きる仲間。タルヒと言葉を交わせる友人。タルヒに似た存在。
陽が落ちて、洞穴の中は暗闇に包まれた。虫の声が聞こえる。タルヒは祠の横に座り込んで、自分の肩を抱いた。暖かくも冷たくも無い。陽の光で溶けてしまう、気持ち悪い身体。
外の世界。空には星が輝いている。夏の夜空は、ゆらゆらと瞬いているように見える。冬と違って、光が気持ち柔らかい。タルヒは冬が好きだ。突き刺すような鋭い光を放つ星に囲まれている方が、なんだか落ち着く。
夏の夜は、優しすぎる。
「ヒロト」
声に出してみた。この声も、誰にも聞こえない。届くとすれば、それはヒロトだけだ。
タルヒはうつむいた。白くて丸い膝が二つ。この足では、光の下を歩いていけない。ヒロトのいるところにはいけない。
ぱたぱたと、何かが膝の上に落ちた。なんだろう、この感じ。良く見ようとしても、視界が濁っている。
暖かい。
どうして。そんなの、感じたことが無かった。これは何だろう。顔の周りに、何かがついている。
掌で触れて、タルヒは初めて、それが自分の涙であることを知った。
「あああああ」
喉の奥から声が漏れた。嗚咽。意思に反して、感情に任せて、身体の奥底から湧き出してくる。
「あああああ」
涙が止まらない。ヒロト、あなたは酷い人間だ。タルヒに、孤独を教えた。寂しさを与えた。
悲しみを、残した。
「ヒロト」
眠りにつこう。時間を進めよう。
ヒロトは夢を見せてくれた。素敵な夢だった。永い眠りの中で、ひととき訪れた幸せな幻。
手に入らないものを想って嘆くのはやめよう。
タルヒは目を閉じた。冬の空気を、空を、白い雪を待とう。大丈夫、また、同じ時間の繰り返しだ。
「ああ、良かった、いてくれた」
どうして。
タルヒが目を覚ましたのは、その翌日だった。良く晴れた暑い夏の午後。ヒロトが、洞穴を訪れてきた。
「これ、供え物」
そう言って、差し出されたのは、三角に切られた西瓜だった。赤い果肉を、タルヒはまじまじと見つめた。冬ばかりを過ごすタルヒには、珍しいものだった。
「どうして?」
言葉に出して尋ねた。ヒロトはどっかりとその場に腰を下ろすと、その場に西瓜を置いた。一つを手にとって、かぶりつく。ぐしゅ、と果汁がこぼれる。
「うん、甘いよ。タルヒはあんまり食べたことないんじゃない?」
こくりと頷いて、タルヒは西瓜を手に取った。瑞々しくて、ずっしりと重い。そして、冷たい。よく冷えている。
三角の先端を、そっと口に含んだ。ふわっと、甘い香りが広がる。
「おいしい」
思わず声が漏れた。顔を上げると、ヒロトが笑ってタルヒのことを見ていた。タルヒは恥ずかしくなって横を向いた。
「どうしてまた来たのよ」
「いや、話がしたいのかな、と思ってさ」
昨日あの後、ヒロトは宿の人にこの祠について訊いたのだそうだ。タルヒの語った通り、ここでは昔、一人の少女が雪崩に遭って命を落としたのだという。
この洞穴で昔死んだ少女が座敷童になっているのではないか。そんな話は、既に語り継がれていた。だから、この祠も丁寧に祀られている。タルヒの姿は見えなくても、その存在は皆の心の中にいた。
「タルヒは、多分神様なんだよ」
「神様?私が?」
それは怪しいな、とタルヒは思った。タルヒには、神様らしいことなんて何も出来ない。ここにいるだけだ。
冬の間だけ外に彷徨い出て。宿の中をうろうろして。ちょっと悪戯する程度。
それで神様を名乗れるなら、安いものだ。
「ここに行くって言ったら、これを持ってけって」
地元の信心深い人は、こうやってよくお供えをしてくれる。人や動物でなければ、タルヒは触れることが出来る。お腹は空かないが、こうやって供えられた食べ物を摂ると、少し元気が湧いてくる。
込められた想いを食べている、ということになるのだろうか。
ならば、やはりタルヒは神様なのか。何も出来ない神様。ここにいて、一人で膝を抱えている神様。変なの。
「タルヒ」
ヒロトが声をかけてきた。足元には西瓜の皮がいくつも散らばっている。タルヒへのお供えだったはずなのに、遠慮が無い。
「なあに、ヒロト?」
言葉が届く。胸の中が騒がしくなる。
こうやって話が出来る。お互いの姿を見れる。
一人じゃ、無くなる。
「話を、しようよ」
どう言って良いのか判らない感じで、ヒロトは照れ臭そうだった。そんなヒロトの様子が、タルヒには可笑しかった。
「うん。お話ししよう」
また一つ、初めての感情が、タルヒの中を満たしていく。
嬉しい。楽しい。
そして。
愛しい。
タルヒは、初めての笑顔を浮かべた。
夏休みの間、ヒロトは毎日のようにタルヒの祠を訪れてくれた。
タルヒはヒロトと色々なことを話した。
自分のこと、旅人から聞いたこと、この土地で昔あったこと。
冬のこと、真っ白な雪原のこと、樹氷のこと、風に舞ってキラキラと光る粉雪のこと。
ヒロトも、タルヒに自分のことを話してくれた。
この土地ではない、何処か遠くの街のこと。ヒロトの通う学校のこと。ヒロトの友達のこと。
ヒロト自身も話にしか聞いたことの無い、遠い遠い外国のこと。海のこと。
タルヒは毎日が楽しかった。ヒロトが来るのが待ち遠しかった。眠らずに、夜の星を数えて待つことすらあった。
ヒロトがここにいるのは、夏休みの間だけ。
「また来年も、ここに来るよ」
ヒロトはそう約束してくれた。
夏が終わって、秋になればタルヒはまた眠りにつく。
冬には目覚めて、ヒロトに聞かせるために山野を巡り、旅人の話に耳を傾けようと思った。
春が来たら、夏を夢視て眠る。ヒロトにまた会える、夏。
胸の奥が騒がしい。嬉しい。嬉しくて、弾けてしまいそう。
また会えると思うだけで、タルヒの心は高鳴った。一人じゃない。そう、信じることが出来た。
あいたたた。まだ身体のあちこちが痛い。とにかく転びまくったからなぁ。お風呂で痣が出来てないか、全身くまなく確認しちゃったよ。はぁ、恥ずかしい。
物凄い勢いで滑ってきて、派手に転んで雪を巻き上げるものだから、ついたあだ名がサイドワインダー。ミサイルかよ。誘導して当たらないだけマシだってさ。あいたたた。
晩御飯が終わって、お風呂に入って、ヒナを待っていたのはスーパー尋問タイムだった。曙川さん、朝倉君と付き合ってるんだよね?え、あ、うん。どんな感じ?何処まで進んでるの?
はあ、ハルが学園祭でやらかしてくれたお陰で、もうすっかり学年イチ有名なカップルだよ。一年生女子部屋の話題の中心は、すっかりヒナだ。
お惚気話は嫌いじゃないんだけどさ、なんというか、下世話関係はちょっとね。実際のところ、ハルとはそこまで進んでいる訳じゃない。ハルは、ヒナのことをすごく大事にしてくれている。
「クリスマスはどうしてたの?」
クリスマスはね、ホリデーシーズンだからお父さんが出張から帰って来るんだよね。だから、毎年家族で過ごすんだ。まあ今年はハルの家族も一緒だったけど、ロマンス的な何かは無かったよ。家族にまで散々冷やかされたし。
プレゼントも、そんなに色気のあるものでもない。ヒナは手袋をあげて、ハルからはブローチを貰った。ああ、こういう装飾品を貰うのは初めてだったから、ちょっと驚いたかな。それくらい。
「二人の時とか、どうしてるの?」
実はあんまり二人っきりってないんだよね。ヒナには小学二年生の、シュウっていう弟がいる。ハルにも小学六年生の、カイっていう弟がいる。ヒナのお母さんはパートをしているけど、フルタイムって訳じゃない。ハルの家も似たようなもの。
そんな状態だから、家だと必ず誰かしらがいてがちゃがちゃしてる。二人で良い雰囲気、なんてなかなか出来ない。幼馴染でお互いの勝手も知ってるし、あんまりそういうドキドキってないんだよなぁ。
まあ、本当に二人っきりになることがあったら、そのチャンスは無駄にはしたくないかな。ははは。
こんな感じのインタビュー攻勢を受けて、ヒナはもうふらふらだ。いつまでも終わりそうに無いので、トイレに行くふりをして部屋から逃げ出してきた。みんな何を期待しているんだろうね。もっと、ラブラブでいちゃいちゃな話が聞きたいのか。
無い訳じゃないんだけど、それを誰彼構わず話すつもりはないかな。朝の登校の話とか、ヘタに噂になっちゃうと覗かれたりしそうじゃん。そんなのはお断り。ヒナの大事な蜂蜜タイムは、誰にも邪魔させません。
実際には、ハルとの肉体関係は抱き締めあって、キスするところまで。ヒナはハルになら全部許しちゃうけど、ハルはぐっと我慢している。その時が来るまで、だって。それはいつだろう。ヒナは、別にいつでも良い。ハルが望む時が、きっとその時だ。
ロビー、っていうか囲炉裏のところにやって来た。部屋の近くにいると、捕まってまた質問攻めにされて面倒だ。飲み物の自動販売機もあるし、ここで一休みしていこう。
割高な値段を見て、どれを買おうか悩んでいると、ハルもやって来た。疲れたような顔をしている。大方男子部屋も似たような状況だったのだろう。彼氏宣言とかするからだ。自業自得。
「お疲れ様、ハル」
声をかけると、ハルは片手を上げてみせた。声も出ないくらいやられましたか。ははは。
「好きなだけ自慢してくれば良いのに」
ハルが望んで、自分からやったことだ。ヒナは静かにお付き合い出来ていればそれで良かった。ハルはヒナを、しっかりと独占しておきたいんだってさ。
「してきたよ。それで殺されかけたから逃げてきた」
はいはい。それは大変でしたね。慰めてあげれば良いですか?
「ヒナが、そこにいてくれれば良い」
ふふ。いるに決まってるでしょ。ヒナはハルのところから離れませんよ。安心してください、彼氏様。
二人で並んで缶コーヒーを飲む。一般のお客さんもいるところだし、ここなら大騒ぎにはならないだろう。
なんだかとっても静かだ。雪が音を吸収するから、外からの音が聞こえてこないんだって。壁にかかっている古い時計の針の音が、とても大きく聞こえる。素敵だな。二人で旅行とかだったら、最高なのにね。
「君たち、スキー旅行?」
突然話しかけられた。一般のお客さんみたいだ。大学生?くらい?背の高い、若い男の人。ニコニコしている。
真面目そうで、優しそうな感じ。ちょっと影がある。苦労してるなぁ、って、そんな第一印象。
「高校のスキー教室です」
ハルが応えた。そうなんだ、いいね、とその人は人懐こい笑みを浮かべた。
「うるさくしてしまって申し訳ないです」
「いや、良いんだ。楽しそうだなぁ、と思って」
男の人は、法事でここに来ているという。そういう用が無ければ、スキーやウィンタースポーツには良い場所だよね、と笑った。
「初めて来る土地なんだけど、何故かそんな気がしなくてね」
複雑な事情があって、なかなかここに来ることが出来なかった、ということだった。今のシーズンだとスキー客ばっかりだと思っていたので、こんな人もいるんだなぁ、とヒナは少し不思議だった。
少し不思議。
うん、ちょっと不思議な感じがした。この男の人からは、微かに奇妙な気配がする。やっぱり何処かで感じたことがある。
「ごめんね、邪魔して」
それだけ言って、その人は去っていった。その際に、ほんの少しだけ心の中を覗いて。
またちょっと、不思議が増してしまった。どういうことなんだろう。