隠れ人-1-
「このぉっ!マジリモノめっ!」
怒鳴り声を背に全力で走った。
息を切らしながら、木々の間を駆け抜ける。
荒い呼吸をするたび、芽吹き始めた森の香りが胸に染込んでいくようだ。
走る。まだ走る。
憎々しげに吼える声が間遠くなり、気がつけば、いつのまにか森の奥深くまで入り込んでいた。
息を整えながら太い木の幹に背を預け、汗で張り付いた前髪を片手で撫で上げる。
「……ふぅ」
遮るものがない視界で見渡せば、重なる枝々から差し込む日は薄く、日没が近いことを告げていた。
(今日は、けっこうしつこかったなぁ。食糧庫、忍び込めなかった……)
食べ物をかすめ取る計画は失敗してしてしまったから、この森で何とかしないといけない。また空腹のまま夜を過ごすのかと思うと、気分が沈んでくる。
だが、狩りをするには時間が遅いし、頼みの弓矢を持ってくることもできなかった。
「ふぅ……」
(うまくいかないなぁ)
目を落とせば、そこにあるのは北に位置するこの国では珍しい、母譲りの褐色を帯びた手。
(……母さま……)
もう5年も前に死んでしまったら、その姿はだいぶあやふやで、思い出せるのは名を呼んでくれた声くらいだけれど。
「……」
涙をこらえて、キュッと唇をかむ。
思い出で腹は膨れないから、動くしかないのはわかっていた。
(しかけたワナを見に行こう。……魚、かかってるかなぁ)
しばらく歩くと、川岸へと下りるいつもの場所に出る。
そこから一歩踏み出そうとしたとき、甲高い、笛に似た鳴き声があたりに響き渡った。
ピュィー、ピュィィー!!
顔を上げれば、悠然と翼を広げる一羽の鷹が目に飛び込んでくる。
(すごい、かっこいい! ……いいなぁ)
目で追い続けた鷹はあっという間に山々の間に姿を消してしまったが、その場から足は動かなかった。
もう戻っては来ないとわかってはいるけれど、もしかしたら……。
「っ!」
吹き付けてきた冷たい風に我に返れば、周囲はずいぶんと薄暗くなっている。
日没が近い。
(たいへん! ワナが見えなくなっちゃう)
木の枝につかまりながら斜面をおりようとして、思わず足が止まった。目の端をかすめたものに違和感を覚えて首を巡らせる。
(なんだろう、あれ)
大きな岩が重なり合う洞のなかに、見慣れない何かの影が見えた。
(動物じゃない、な)
違和感しかないソレに、ワナのことなどすっかり頭から抜けてしまった。河原には下りずに大きな岩の上に飛び乗ると、そのまま岩伝いに洞近くまで移動した。
(男の人?)
身を伏せて、そっと顔をのぞかせてみると、わずかな光に大きな背中が浮かび上がっている。
(あれは手、かな?)
男は膝に何か抱えているようで、その陰から不自然なほど白い指がはみ出していた。ぶるりと震えた、その気配を察したのだろう。男は傍らにあった剣を素早く片手でつかみ、振り返る。
「!!」
剣先を向けてくる琥珀の瞳は鋭い。距離があるのに、まるで首元を押さえられるような圧だ。
「……あの、えと……」
問いただすような視線にやっと声を絞り出せば、男の眉がわずかに上がった。
「あの、えと、その手の、ヒト、死んじゃった、の?」
「※※※※※※」
言葉は返されたが、それが大陸共用語であるディアムド語らしい、ということしかわからない。
「ゴメ、ナサイ。ディアムド、ナイ」
「ああ、すまない。ここはトーラ国だったな。……死んではいないが、よくはない」
カタコトのディアムド語で伝えれば、刃先も視線も揺るがないものの、男は質問に答えてくれた。
「そう、なの」
流暢にこの国、トーラの言葉で話す男を不思議に思いながら、改めてその姿を眺めてみる。
顔には疲れが色濃く出ていて、乱れた栗色の髪が額に張り付いていた。身にまとう黒い装束もあちこち破け、お世辞にもきれいとは言いがたい。
それなのに、どことなく洗練された知性を感じさせる男に、もう一度口を開く勇気が出た。
「えと、ケガ、してるの? 病気? 傷薬なら、あるよ?」
腰袋から軟膏の入った容器と晒を出して掲げ見せるが、男の表情は動かない。
「よかったら、使ってみて、ね」
岩を滑り降りて洞の入り口あたりに手にしていたものを置くと、男の目が細められた。
「攻撃されるとは思わないのか」
「思わない。だって、何かを、守ってる、でしょ。獣の親は、仔に危険がなければ、襲ってはこない、よ」
「私は獣ではなく人間だ。お前からすべてを奪い、口を封じるために殺すかもしれない」
「殺してまで、奪われるもの、ない。薬も、今はこれだけ。全部、あげる。封じるほどの、口も、ない。話す人なんて、いない、から」
感情の一切見えない男は、目の前にいる子供の頭の先からつま先にまで視線を這わせていく。
目を覆い隠すほど伸びた前髪。
上着と下衣には、拙く手直しした跡がある。
明らかに合っていない大きさの靴をはいていて、かかとからは雑に詰められた布がはみだしていた。
男はわずかに顎を下げて首を傾ける。
「ならば、その薬はどうした」
「自分で、作った。植物油と、蜜蝋。それから、薬草で」
「薬草?山野のものをつんだのか」
「あの、ちゃんと、薬草畑、ある、から」
たどたどしく説明するその姿からは、「信じてほしい」気持ちがにじみ出ていた。
「……もらっても、今は何の礼も返せないのだが」
「持っている者が持ってない者と分け合うことは当たり前だって、母さまが、言ってた」
「母親は南方の出身か。”持つ者は持たざる者と分け合うべし”という格言を持つ文化は、アガラム砂漠周辺の国だろう」
「知らない。母さまのことは、よく覚えていない。聞ける人も、いない」
「それは、……※※※※※?!」
「……※※……」
かすれ声のディアムド語を聞いた男は大剣を投げ置き、身に下げていた容器を傾ける。が、いくら振ってみても、そこからは何も出てはこなかった。
「水って、言った? 水筒、空なの? 汲んで、こよう、か?」
小さな手を伸ばすと、男はためらいながらも容器を渡してくる。
「ちょっと、待ってて」
「……感謝する」
駆け出した小さな背中に、男は深く頭を下げた。




