第15話「午後の温度」
午前中を、ほとんどベッドの中で過ごした。
何度も唇を重ね、触れ合い、名前を呼び合いながら、ゆっくりと時間を溶かしていった。涼は「体調不良」と上司に連絡を入れ、葵の分も「様子を見る」と上手く話を通してくれた。電話を切った後の彼の顔は、どこか悪戯っぽくて、子供の頃に内緒で遊びに行ったときの笑みに似ていた。
「……嘘、ついていいの?」
「お前を一日中独占するための、必要経費だ」
そう言って、彼はまた自分を抱き寄せた。胸に頰を預けていると、心臓の音が穏やかに伝わってくる。昨夜までとは違う、安心と熱が混じった音。葵は目を閉じたまま、そのリズムに身を委ねた。
午後になって、ようやく二人で起き上がった。
シャワーを順番に浴び、涼のシャツを借りて着ていると、不思議と落ち着いた。袖が長くて、指先まで隠れそうになる。鏡の前で袖を捲っていると、後ろから涼が近づいてきて、そのまま体を抱きしめた。
「似合うな。俺のシャツ」
耳元で、低い声。鼻先が、濡れた髪に触れる。唇が、首筋に軽く落ちる。化粧をしていない素の肌に、熱が直接染みる。鳥肌が、ゆっくりと立った。
「……動けるようにしてよ」
「動きたくないだろ、本当は」
図星を突かれて、言葉に詰まる。涼は小さく笑うと、腕の中で自分を反転させ、正面から見つめた。黒い瞳が、とても近い。朝の光とは違う、午後の柔らかい光が、彼の横顔を照らしている。
「腹、減ったろ。何か作る」
「……ううん、外に出たい」
自分でも驚くほど、はっきりと出てしまった。涼の目が、わずかに見開かれる。次の瞬間、彼はゆっくりと口角を上げた。
「わかった。お前の好きなもの、食いに行こう」
準備を整えて、マンションを出る。
雨はすでに上がり、路面が濡れて光っていた。涼が自然と手を繋いでくる。指が絡められ、親指が手の甲を撫でる。昼間の街中で、この距離感が、妙に新鮮で、恥ずかしい。それでも、手を振りほどこうとは思わなかった。
小さなカフェに入り、窓際の席に座る。
隣り合わせではなく、向かい合わせ。それでも、足がテーブルの下で自然と触れる。涼が、わざとらしく膝を寄せてくる。生地越しの熱が、すぐに広がる。
「昨日まで、こんな風に過ごせると思ってなかった」
カップを両手で包みながら、小さく呟く。涼は、自分のコーヒーに目を落としたまま、低く答えた。
「俺は、ずっと思ってた。いつか、こうやって昼間からお前と一緒にいられたらって」
視線が上がる。まっすぐで、熱を帯びている。
「十年、待った甲斐があった」
胸の奥が、きゅっと熱くなる。テーブルの上で、涼の手が自分の手に重なる。指が絡められ、ゆっくりと撫でられる。周囲の雑音が、遠くに感じられる。二人だけの温度が、そこにある。
帰り際、店を出たところで、涼が突然足を止めた。
「葵」
名前を呼ばれて、振り返る。次の瞬間、彼の手が頰に触れ、唇が軽く重なった。短く、優しく、でも確かに熱を残すキス。昼間の街中で。周囲の視線が気になるのに、体が拒否しない。
「……みんな、見てるよ」
「見てろ。俺の女だって、知られてもいい」
低く、はっきりと。耳元で囁かれて、膝が微かに弛む。涼は満足そうに笑うと、再び手を繋ぎ、歩き出した。夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしていく。
マンションに戻ると、すぐにドアが閉まった。
鍵がかかる音。次の瞬間、体が壁に寄せられる。唇が、深く重なる。舌が絡み、吐息が混じり合う。腰に回された手が、強く引き寄せる。密着する。午後の穏やかさとは違う、夜に向かう熱が、すぐに立ち上がってくる。
「昼間から、我慢してた」
掠れた声。唇が、首筋に落ちる。吸うように。熱を残すように。シャツの裾から、手が直接肌に滑り込む。掌の熱が、腰骨を撫でる。甘い電流が、背筋を走る。
「今夜も、俺のそばにいろ」
問いにではなく、確認のように言われる。
葵は、彼のシャツの生地を握りしめ、小さく頷いた。
「……いる。ずっと」
その言葉を聞いた瞬間、涼の目が、深く沈んだ。
唇が、再び、熱く、優しく、重なる。
午後の光が、徐々に夕暮れに変わっていく中で、二人の体温は、ゆっくりと、夜の温度へと溶けていこうとしていた。




