第12話「残る熱」
朝の光が、カーテンの隙間から強く差し込んでいた。
葵は、涼の腕の中で、しばらく動かずにいた。胸に耳を当てると、彼の心臓の音が、ゆっくりと落ち着いたリズムを刻んでいる。昨夜から今朝にかけての熱が、まだ身体の奥に残っている。首筋に残るキスの痕。胸に残る掌の感触。太腿の内側に残る、指の軌跡。すべてが、朝の空気の中で生々しく蘇ってくる。
「……行かなきゃ」
小さく呟くと、涼の腕が、わずかに強くなった。
「もう少しだけ」
低い声。寝起きの掠れが、甘く耳に残る。唇が、額に優しく落ちる。次に、目尻へ。頰へ。そして、唇へ。浅く、柔らかく、朝の光の中で重なる。舌先が、軽く触れる。熱が、すぐに広がる。葵は、思わず彼の背中に腕を回した。指先が、肌に沈む。
「仕事、遅刻する……」
「俺が責任取る」
冗談めかした声なのに、腕は離してくれない。掌が、背中をゆっくりと撫でる。腰骨の際を、指先で円を描くように。甘い残熱が、また蘇ってくる。体が、自然と彼に密着する。下半身の熱が、薄いシーツ越しに伝わってくるのがわかって、頰が熱くなった。
「……本当に、行かなきゃ」
ようやく体を起こすと、涼は残念そうに息を吐いた。それでも、邪魔はしない。ただ、起き上がる自分の姿を、黒い瞳でじっと見つめてくる。視線が、乱れた髪から、首筋の赤い痕へ、そして鎖骨へとゆっくりと落ちる。その視線だけで、肌が熱を帯びるようだった。
シャワーを借りて、身支度を整える。
鏡に映った自分の首筋に、薄く赤い跡が残っている。化粧で隠せる範囲だと自分に言い聞かせながら、いつもより丁寧にファンデーションを重ねた。涼が、着替えを終えたシャツ姿で洗面所のドアに寄りかかり、静かに見ていた。
「痕、残ってるな」
「……わかってる」
「隠せんのか?」
「なんとか」
近づいてきて、指先で優しくその部分を撫でる。熱い。昨夜の感触が、すぐに蘇る。涼は、低く笑って、唇をそこに軽く寄せた。
「また、つけてやる」
耳元で、囁かれる。吐息が熱い。膝が、微かに弛んだ。
会社に着いたのは、ギリギリだった。
フロアに入った瞬間、周囲の視線が少し気になる。自分の表情に、昨夜の熱が残っていないかと、胸がざわつく。デスクに座ると、斜め後ろから涼の気配がする。すでに来ていて、画面に向かっている。目が合った瞬間、彼の唇が、わずかに緩んだ。昨夜の自分を知っている目。朝の自分を知っている目。その視線だけで、下腹部に甘い疼きが落ちる。
午前中の会議で、再び隣の席になった。
資料を広げていると、机の下で、涼の指が自分の手に触れた。絡めるでもなく、ただ、指先で軽く撫でる。一回。二回。熱が、すぐに広がる。会議の声が、遠くに聞こえる。意識は、完全にその小さな接触に吸い寄せられていた。次に、膝に触れる。掌が、スカートの上から、ゆっくりと円を描く。昨夜、直接触れられた場所が、生地越しに熱を思い出して震える。
「……黒峰、意見は?」
上司の声に、涼が短く答える。声は冷静なのに、机の下の指は違う。太腿の内側を、わずかに押し込むように撫でる。甘い電流が走り、唇を噛んで表情を殺した。
休憩時間。
給湯室でコーヒーを入れていると、背後に気配がした。
「痕、隠せてるか?」
耳元で、低い声。振り返ると、涼がすぐそこに立っている。二人きり。彼は一歩近づき、指先で自分の首筋を、優しく確認するように撫でた。化粧の上からでも、熱が伝わる。
「なんとか」
「今夜も、俺の家に来い」
短く、断定される。拒む言葉が、喉の奥で詰まる。涼の手が、腰に回され、シャツの上から背中をゆっくりと撫でる。昨夜の残熱が、一気に蘇る。吐息が、耳にかかる。
「朝、お前が俺の腕の中で小さく喘いだ声、忘れられねえ」
声が、さらに低くなる。
「今日も、一日中、頭から離れない」
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。周囲に人が来そうな気配に、葵は慌てて一歩下がった。それでも、涼はすぐに追ってこない。ただ、黒い瞳で、ゆっくりと自分を見つめてくる。その視線が、唇に落ちて、すぐに戻る。
午後。
仕事に集中しようとしても、意識が斜め後ろに持っていかれる。時折、涼が資料を持って近づいてくる。通り過ぎる瞬間、ジャケットの裾が肩に触れる。意図的だ。熱が、肩から鎖骨へ広がる。吐息が、わずかに漏れた。
定時を過ぎ、フロアの人が減っていく。
九時を回った頃、涼が自分のデスクに歩み寄ってきた。
「行くぞ」
低い声。すでに車のキーを手に持っている。葵はバッグを抱え、後に続いた。エレベーターの中で、扉が閉まる音とともに、涼の体が自分を壁に寄せる。唇が、すぐに重なる。深く、熱く。舌が絡み、吐息が混じり合う。腰に回された手が、強く引き寄せる。密着する。下半身の熱が、直接伝わってくる。
「一日中、待ってた」
唇を離し、耳元で囁かれる。声が掠れている。
「お前の匂いが、まだシャツに残ってる」
車に乗り込み、エンジンがかかる。
助手席で、涼の手が自分の手を握る。指が絡められ、親指が手の甲を円を描く。その動作が、昨夜と今朝のすべての熱を、再び呼び覚ますみたいだった。
車が、彼のマンションの地下駐車場に入っていく。
エンジンが止まり、静寂が落ちる。涼が、ゆっくりと体を寄せてきた。
「今夜は、もっと深く、お前を知りたい」
低い声。黒い瞳が、自分を真っ直ぐに見つめる。
葵は、小さく息を吸って、彼のシャツの生地を握りしめた。
「……うん」
その言葉を聞いた瞬間、涼の目が、深く沈んだ。
次の瞬間、唇が、再び、熱く重なる。




