計画の欠点
※今回はちょっと短めです。
明の宦官には東南アジアやインド、アフリカにまで航海した鄭和や満州に赴きその地域の統治に貢献したイシハなど活躍した人物もいたが、皇帝がモンゴル軍の捕虜となる土木の変を引き起こす要因となった王振や皇帝以上の権利を握り自身を批判する人々を逮捕、処刑して弾圧し、孔子と並んで讃えるべきだとして各地に自らの像を収めた祠を作らせた魏忠賢など明にはろくでもない人物も多く知られている。
そんな中、王承恩はそれらの宦官と異なり皇帝への忠誠に厚い人物として知られている。
崇禎帝の自害に際し、自らも殉死し、皇帝の遺児の脱出を助けたという逸話は、悪名高い宦官集団の中でも異彩を放ち、朝鮮王朝や日本の江戸幕府においてさえ、その忠義が評価されている。
王承恩に接触する方法をあれこれと考えていた朱慈煥は、あることをひらめいた。
「そうだ、中大兄皇子と中臣鎌足の出会いを参考にしよう」
朱慈煥は、前世で高校の授業で学んだ中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの逸話を利用することにした。
打毬とは馬に騎った者らが2組に分かれ、打毬杖(だきゅうづえ。毬杖)をふるって庭にある毬を自分の組の毬門に早く入れることを競う遊戯のことである。
中大兄皇子は打毬の際に靴が脱げてしまいそれを中臣鎌足が拾った縁で交流を持つきっかけとなったという話だ。
それと同じように偶然を装って接触することで後宮にいるであろう間者に感ずかれないようにできると考えた。
しかしここで別の問題に直面した。
「王承恩ってどんな顔しているんだ?」
接触以前の問題だった。
なにせ後宮だけでも宦官の数が多く9年間生きていても新顔を見ることがよくあった。その人物がどのような容貌をしているのか全く見当がつかない、仮に見つけたとしても同姓同名の別人である可能性もある。
もし、違う人に接触したら自分の寿命を史実より早めてしまう結果にもなりかねない。
計画は思わぬ難題に阻まれていた。朱慈煥の脱出計画はこの時点で、大きな壁に突き当たっていた。