悪魔の誘惑
ーーーーでしょうね!
心の中で頷いた。コックコートとコック帽を着た黒ライオンが現れたら、流石に気づく。そんな可愛いコスプレされたら、たまらない。
正直なところ、私は動物が大好きなのだ。もうそのツヤツヤの毛並みが撫でたくて浮き足立っている。ご機嫌なバアルをベッドにそっと横たわらせる。
「あなたの厨房で勝手なことをして、ごめんなさい。でも、あそこは不潔過ぎよ」
「悪魔は不潔など気にしません。悪徳は悪魔の喜びです」
「いいえ、私の子の食事をあんなところでは作らせません。あんな材料も使わないで」
「で、ですが、あなたが処分した薬草や死骸は、大変貴重なもので……」
「勝手に捨てたのは、ごめんなさい。価値があるなんて思わなくて……」
機嫌を取ろうと、部屋を見渡すとワゴンに私の作った魔界粥があった。
「あなた、料理人なんでしょう? これからこういうのを作ってくれる?」
話しながら、私はジリジリと近づいて、射程圏内に入る。鍋ごし差し出すと、不思議そうな顔をして、その鍋の中身を嗅ぐ。分厚くて真っ赤なざらついた舌が、鍋の中に入る。
ピクッと目の当たりが動いて、あっという間に鍋の中を舐め尽くしてしまった。
「美味しかった?」
「すごく! こんな美味しいもの、食べたことがありません! 魂の次に美味しい!」
興奮したマルバスを見て、思わず尻尾を覗き込んだ。尻尾は垂直に立っていた。ご満足いただけたのかもしれない。
さーわーりーてーえー。もーふーりーてーえ!
「作り方を教えるから、今度から作って欲しいのよ。私の生まれたところの料理でね……あぁ、この世界のもので、他にも何か使えるかもしれないから。手伝って欲しいな」
「いいでしょう。ここの食べ物は、味わうものではないので。魔力を強化したり、回復するために口に入れる、それだけなんです。でも、食事に快楽があるなら、それはいい……」
マルバスは腕を組んで、何度も頷いている。その度にふさふさのたてがみが揺れるのがたまらない。
「ねぇ、綺麗な毛並みね? 触っていい?」
返事なんて聞く前に、もう手は伸びていた。見た目とは違う毛質は、思ったよりも柔らかい。ぐっとたてがみの中に指が入ってしまう。
「……あっ!」
可愛らしい声がしたと思うと、マルバスはみるみる姿を変えた。褐色の艶やかな肌に、たてがみはそのまま漆黒の長髪に変わる。ただ、琥珀の目だけは変わらない。
「さ、さっきは、その、怒っていて……人型が保てず……失礼しました」
私の指は、彼の頬に触れたままで、手触りはもう全く違う。精悍な青年になってしまった。がっかりだ。もういいやと離そうとした手を、マルバスの大きな掌がそっと、けれどしっかりと掴んだ。
「マリア様」
まっすぐなマルバスの視線に戸惑う。ライオンを撫でられなかったのは残念だけど、こんなイケメンの頬を触っているのは、悪くない。
こんな至近距離でこんなレベルのイケメンと見つめ合うなんて、前の私ならあり得なかった。ドッドッとあり得ない速度で心臓が動いている。このまま破裂しても仕方ないくらいだ。
「悪魔は誘惑に弱いもの」
マルバスは私の指先に唇を押し当てる。そして、ゆっくりと私の手を額に押し付けた。そこには、やはりツノがある。
「どうしましょう、あなたは魔王の妃なんです」
長い髪をかきあげながら、マルバスは困ったような顔をして覗き込む。
思わず、心臓が跳ねた。
「私は悪魔、不貞は大好きなのですが、……さすがに魔王の妃を盗むのは……命懸けです」