新しい親友
額への冷たい唇の感触で目覚める。
「おはよう、マリア」
重い瞼をうっすらと開けると、眼前に大迫力の美形がうっすらと微笑んでいる。
「んぬぁ!」
「なんて声を出すんだ。どうしてそうも色気がない……」
残念そうに呟いて、ベッドから半身を起こすルシファーの上半身は裸だ。
「服着てっていつも言ってるでしょ!! そもそも、ここで寝ないで!! 約束と違うから!!」
枕やらなんやら、手元のものをありったけ投げつける。
「わかったわかった、私は締めつけられると寝れないと、何度も言っているだろう。寝所に忍び込むのは、朝だ。夜は我慢しているぞ」
「……待って、どっちも止める気ないってこと!?」
「ふーん、心外だ。どうしてやめなくてはいけないか、理解できない」
「……ルシファー。私はあなたの子供を妊娠しているけど、あなたの恋人でも奥さんでもないのよ。そういうふしだらなことは慎んでちょうだい!」
躍起になる自分が、惨めでたまらないけれど、状況に流されて、なし崩しに魔王のものになる、なんていうのは嫌だった。
自分の意思で、決められることは決めたい。
私の命がどこまで持つのかはわからないけれど、残された時間で悔いのないようにしたいから。
「添い寝が、ふしだら? ……お前のいた世界はどうなってるんだ。目でも合えば妊娠するのか? 私の知っている手順ではないな」
呆れたのか、疲れたのか、ルシファーはベッドからシーツを巻いて立ち上がる。これも彼なりの気遣いだった。
なにせ昨日は全裸で添い寝されて、朝から戦国武将のように危うく憤死するところだったんだから。
「ハァ〜、もう村に帰りたい……」
「それはダメだ!」
振り返ったルシファーの形相は、魔王然としていて、驚いて何度も瞬きをしてしまう。
「つわりとやらで、あんなに寝てばかりなんだ、どこにいたって一緒だろう。寝心地のいいベッドのあるここで休んでもらう」
一昨日、村にやってきたルシファーの前で、つわりで嘔吐する姿を見られてしまって、あれよあれよと城に連れ戻された。
ここのものは食べないと知っているルシファーの手配で、食事は村で作られたものを、毎食運んできてくれる。
私が退屈だといけないと、マンバも隔日で連れてこられて、私に仕事が溜まっていると文句を言って帰っていく。
当のルシファーは、執務の合間に私にどんなに邪険にされても何度でも顔を出す。
息つく暇もなく、ゆっくりするはずがずっと忙しない。
イライラしていると、ノックされて、またルシファーかと無視を決め込むと、扉がゆっくりと開く。
「マリア……? 寝ているのか?」
案の定、ルシファーで、白目をむいた。
けれど、何かとてもいい匂いがする。
「薬草茶なんだが、むくみをとって、吐き気を抑える効果があるそうだ。飲んでみないか?」
すっと鼻を通る、爽やかないい匂い。
「妊婦の、人間が飲んでもいいの?」
「問題ありません、マリア様。これは人間界のものです。人間の世界で、妊婦に飲ませる習慣のある薬草ですから」
そういって、大きな男がルシファーの後ろから、ぬっと顔を出した。こげ茶のボサボサの髪に農夫のような出で立ち。一見人間かと思うような屈託のない笑顔を浮かべている。けれど、その目は真っ赤で、この者も悪魔なのだとすぐに理解した。
「私は庭師のバティム。人間界の薬草を調べているんでさ」
「庭師などと謙遜を。お前は魔界一の植物学者だ」
すっかり感心した声でルシファーが紹介して、私はその紅茶を受け取る。恐る恐る口に含むと、ずっと胃を支配していた、小石がゴロゴロとあるような不快感が、すーっと引いていく。
「あ……」
「どうだ、マリア?」
ルシファーに心配げに覗き込まれて、とっさに目を伏せた。
「すごく効くわ、これ。ありがとう、バティムさん」
「いいえ、お口に合って何よりです、女王様」
敬礼をされて、身の置き場がない。あわあわしていると、すぐにルシファーが私の手元からカップを引き取った。
「……バティムに頼んだのは、私なのだがな」
そのちょっと拗ねた言い方に、バティムが驚いている。一ヶ月以上過ごしてすっかりこんなルシファーに慣れた私は、彼の手をとって、にっこりと微笑む。
「ありがとう、ルシファー。とても楽になったよ」
「そうか! そなたが楽になってよかった」
満足げにルシファーはカップをベッドの脇のサイドボードに置いて、執務室に戻っていく。その背中を見送る私を見ていたバティムが、呆れたように呟いた。
「……あんな魔王様を見るのは、初めてです。お疲れ様です、マリア様」
「わかってくれて、嬉しい。ありがとう、バティムさん」
「バティムとお呼びください」
「……わかりました」
大きなため息が、自然と漏れて、私はベッドに横たわる。
「おそらく妊娠二ヶ月目に入られたころ。人間のこの時期は、気分の上下が激しく、疲れやすいと聞く。つわりの時期は、リラックスするのが一番でしょうな。何がお好きです?」
大男で一見屈強すぎるマッチョだけれど、気遣いが細やかだ。
「バティム、あなたみたいな友達が欲しかったのよ。これから当分きてちょうだい」
この私のお願いが、今後とんだ騒動を起こすことになろうとは、この時の私には思いもよらなかった。