一抹の不安
「うん、順調ですな」
村の医者の往診を終えて、私は衣服を整える。
「まぁ……人間と同じなら、ですが」
「そうですね……」
私も首を傾げて、思わず顔を見合わせる。
「つわりも治ったようですし、食欲も回復しているのは、何より。二人分ですからなぁ」
最近はなんでも美味しくて、絶対に太ってしまった自覚はある。
「しかし、なんでも過ぎたるは及ばざるが如し、お産の時に苦しむ羽目になりますからな。太りすぎにはご注意を」
しっかりと釘を刺されて、舌を出す。
「お散歩など、天気のいい日にはされるといい」
「ありがとうございます」
「ではでは、お大事に」
お医者さんを見送って、バルコニーに向かう。
断崖絶壁のこの壮絶な風景を見て、散歩って、どこを……とため息をつく。
そもそも、この世界はいつもなんだかどんよりとしていて、気持ちのいい場所とは決していえない。特に、海の近いこの辺りの天気は変わりやすい。
「散歩、ねぇ……」
妊娠も三ヶ月をすぎ、気分もすっかり落ち着いてきた。この場所にもなんとか慣れてきて、自分の適応能力もそう悪くはない気がしている。
徐々にお腹が出てきて、胸が張り始めた。体型の変化を感じて、これがいわゆる妊婦の体なのだな、と他人事のように感心している。
あれこれ考えていると、ノックとともにバティムがやってきた。
「マリア様〜、前に言ってた果物が手に入ったぞ〜」
「わーー! やった〜〜!」
バティムは本当にいい悪魔(?)で、私を太らせている張本人だ。
「俺も食べてみたんだが、まぁ、うまい。甘いし」
ガサツな性質が見てわかる。今も早速リンゴのように見えるその果物を、服で拭いて齧りついている。けれど、そこが気楽でいい。アザゼルだとかの気難しい肩肘を張った悪魔ばかりだと、気が滅入る。
近所のお兄ちゃんみたいなバティムは、ちょっとした癒しキャラだ。
「ちょっと太っちゃったから、散歩でもしたほうがいいって、先生が」
「なんだ! 色艶が良くなって、マリア様は今がいっちばん別嬪だぞ」
「んもぉぉ〜〜、バティムったら、いいやつだなぁぁ!!」
バッシバッシとその肩を叩いていると、扉のそばにルシファーが立っていた。立ち会うはずだった検診に遅れてしまったから、きっと経過が知りたいだろうと歩み寄る。
「あ、ルシファー。お疲れ様。お仕事一段落したの?」
「……戻る」
俯いたまま、こちらを見ようともしないで、ルシファーは背を向けた。
「どうかした?」
「何も」
冷たい声音で吐き捨てて、あの長い階段を降りていってしまう。
身重の私は、それを追うことができずに、ただただ、小さくなっていくルシファーの背中をじっと見つめていた。
「あれ? 魔王様は?」
「わかんない。何かあったのかな?」
状況がわからない私たちは、こんな日もあるのだと、軽く受け流してしまっていた。
あのルシファーが、まさか、とんでもない誤解をしているなんて、気づきもしないで。
その日の夜、いつもなら晩餐には必ず現れるルシファーが、姿を表さなかった。
マンバや村人に調理を習ってくれているという、マルバス(黒獅子コックとか、ほんと超かわいい)が、腕によりをかけて作ってくれたヘルシーな食事が、目の前で食べ時を逃していく。ひとりぼっちの食事は味気なくて、ちっとも進まない。
具沢山の野菜のスープは口にしたものの、メインのお肉はパスして、食後のフルーツも摘んだ程度。
「……お召し上がりにならないんですか?」
ナアマが不思議そうな顔で私を見た。
「ルシファーは? 忙しいの?」
「いえ、今日の議会も上の空で、アザゼル様が追い返しておいででした」
「……じゃあ、どこにいるの? ここが彼の部屋なのに」
「まぁ、この城全てが、魔王様のものですので」
そういえば、あの後マンバもきたけれど、今日はあれ以来、ルシファーは顔を出していない。どこにいってしまったのだろう。不安になってくる。
「マルバスには申し訳ないけど、下げてもらってもいい? あと、いつものハーブティーをお願い」
「了解致しました。すぐにご用意いたします」
ナプキンで口元を拭って、テーブルの上に置いた。
ナアマが絶妙なタイミングで椅子を引いてくれて、私はバルコニーのそばに置かれたソファに移動した。
あんなにしつこいほど顔を出していたルシファーが、少しも顔を見せない。忙しいわけじゃなくて、どこかに雲隠れしているらしい。
今までなら、そんな時は真っ先にここにきて、私をかまっていたはずなのに。
たった半日程度のことなのに、不安になる。
胸がざわざわして、出されたハーブティーも味がしない。
「今日はもう遅いので、お休みなられてはいかがでしょう?」
ナアマに声をかけられて、ハッとする。
もう1時間ほど経っていて、夜風で指先もハーブティーもすっかり冷たくなっていた。
いつもなら、ルシファーが私の指先を温めて、たしなめるはず。
妊婦が夜風にあたってはいけないと。
自分で指先に息を吹きかけ、室内に戻る。
明日、きっと、ルシファーの口づけで目覚めるはずだ。
今日のこれは、きっと、ちょっとした手違いなんだ。
そう自分に言い聞かせているのに、胸のざわめきは一向に晴れない。
ーーーーそして、その不安は的中した。
その日から、ルシファーは、私のところに顔を見せなくなってしまったのだった。




