魔王からの条件
悪魔に囲まれて暮らすよりも、人といたいと言うと、魔王はどこか寂しそうに見えたけれど、そのことには触れなかった。
そして、私はこの村で過ごすことを選んだ。
魔王から提示された一つの条件を飲む代わりに。
「ウチだったら、絶対お城で暮らすけどなー」
綿の実を毟りながら、マンバは私を馬鹿にする。
「あの城、悪魔ばっかりなんだよ。怖いでしょ」
「えー、悪魔の子産むのに?」
正論に喉が詰まる。
「まー、ヒドい悪魔もいるけど、魔王はなんか違うじゃん? 半分、人間だからかな」
マンバは小首を傾げて、不思議そうにしている。
マンバの順応性の高さには参る。私はお腹の中に、悪魔の子供がいるという違和感に、まだ慣れていない。
あと、これから自分を待ち受ける試練も。
「はぁ……かもしれないね」
適当に返して、もうこれ以上考えたくない私は作業に没頭した。
「マリア」
呼びかけられて振り返ると、魔王がいた。
私がここに移ってから、魔王はこの村に足しげく通った。お連れもなく、お忍びで。
「そんなことをして、体にさわらないか?」
魔王はそれだけ聞いて、私を抱き上げる。
「ちょ、何すんの!」
「心配だ、そんなにも働かずとも良いだろう」
ドンドンと魔王の胸を叩いても、ビクともしない。この男は、どうせいうことなんて聞く気がない。抗うのは諦めて、身をまかせる。
行き先はわかっていた。魔王のお気に入りの、見渡しのいい丘まで連れていかれるのだ。
「マリア、怒っているのか」
私を膝に乗せたまま草原に座る魔王は、このツノさえなければ、おとぎ話の王子様のようだ。
端正な顔立ちで私を覗き込んで、私はその美しさに慣れることなんてできず、いつも顔を真っ赤にする。真っ赤になった私を、魔王は可笑しそうに笑う。
最近、やっと無邪気に見せるようになったその笑顔が、嬉しいと感じる自分に、私は戸惑っている。
「そなたがここに来てから、私は笑うということの意味を知った」
「……意味?」
「腹の底から満たされていて、どこか温かくて、顔も緊張感も緩むんだ」
私の髪を長い指先で弄び、口付ける。
「そなたが私を……腹の子を、受け入れていないのはわかる」
「そんなこと」
ないと言おうとした自分に驚いて口を噤んだ。
「まだ小さくて、ここに命があるということが、ピンとこない」
恐る恐る、魔王は私のお腹に手のひらを当てた。びくりと体が波打つ。
「あ、ああ、すまない。触れてもいいか?」
「もう触ってるでしょ」
「そうだな」
魔王の声は、とろけるように甘い。確かに、彼は緩んでいる。初めて会った日のような威圧感もないし、悲しい顔もしていない。
「楽しみなの?」
「あぁ。私が生まれて、今までのどの瞬間よりも、楽しみだ」
孤独だったんだと思った。
母親もいなくて、自分は周囲の悪魔とは違う。
悪魔でも人間でもない。
この子が生まれたら、この人は生まれて初めて、一人じゃなくなるんだ。
「……お父さんは……どんな人なの?」
「私が生まれてしばらくして、戦いで死んだらしい」
「ごめんなさい」
それは……前の妃が、生贄にならなかったから……?
「いや、いい。……予定していた生贄の儀式の前だったらしい。魔王の死が知らされてすぐに儀式を実行しようとしたら、母はもう逃げた後だったそうだ」
我が子を残して逃げた母、私は彼女に複雑な感情を抱く。幼い子供を捨てたと責めたい気持ちと、この世界に、悪魔という異形に、慣れることができなかったのだろうという感情がせめぎ合う。
「あなたが……どうやって育ったのか、聞かせて」
「フラウロスという悪魔が、私を育ててくれた。悪魔らしからぬ男で、人間味があると私は思っている」
「ーーフラウロス」
「そなたも会っているんだぞ、覚えていないか」
「……誰が誰だか」
「そうだな。今度会わせよう。……なぁ、そろそろ城に、戻らないか。私はずっとそなたと過ごしたい」
抱き寄せられて、その胸に顔を埋める。真っ白な肌の生気を感じない彼から、鼓動が聞こえて、そのリズムは思っているよりも早い。
私に拒まれたくないのだと、そしてその緊張が、彼の鼓動を早めているのだと気づくと、胸の奥がキュッと締め付けられた。
「あそこじゃ、安心できないし……あなたがここで暮らしたら?」
「そうできればいいがな」
ため息をついて、彼は私をいっそう強く抱きしめて、頭の上に顎をのせる。
「そなたは私の妃なんだぞ」
どこか子供っぽい、恨みがましい言葉に、つい笑ってしまう。
「笑うな。バカにされている気がする」
「バカになんかしてないわ。ちょっと可愛いと思っただけ」
「魔王に可愛いなどという人間は、そなただけだ、マリア」
両肩をそっと掴まれて、彼の顔が近づく。
あぁ、今日もこの時が来たのだと、覚悟を決める。
「……マリア、いいか」
「ーーもう約束したんだから、聞かないで」
顔が火がついたように熱い。
顎に例の長い指がかけられ、上を向かされる。
私はもう、目を痛いほど閉じて、その瞬間を待つ。
「クク……その表情では色気がないぞ、マリア」
「だったら、しなきゃいいでしょ!」
腹が立って、ぐっと魔王の顔を両手で遠ざけた。
「いいや、その唇はいただく。私の一日の一番の楽しみだからな」
チュ、チュ、とわざと音を立ててキスをされて、そのまま顔から火が出た。
体はガチガチに固まって、今日から石になれそうだ。
彼の長い指が、私の唇をゆっくりと撫でる。
カッカと火照る顔をいたずらっぽく覗き込んで、彼は言った。
「願わくば、そなたからねだってほしいものだ」