先の見えない階段
はあはあと肩で息をしながら、振り抜いた手のひらはジンジンとしていた。
「……き、貴様」
驚愕というような、凄い顔で魔王は私を凝視している。
「ごごごごごめん!!!!」
耳まで真っ赤になるのを感じながら、私はうつむく。
耳が痛いほど熱い。握りしめた両手がガタガタと震えた。
「ーーーー怖がるな。怒ってはいない。驚いただけだ」
「ご、ごめんなさい……私、慣れてないの、こういうこと……」
「それはそうだろう。生娘しか魔王の母にはなれないからな」
吐き捨てるように呟くと、魔王はため息をついてから、食卓を指差した。
「ナアマが用意していった。あれはなんだ?」
「それは私のレシピで作った魔界粥! これなら、バアルも同じものを食べられるから、いいかなって」
大きな食卓に、向かい合って席に着くようにテーブルセッティングされている。馬鹿みたいに遠いから、私は椅子と食事を運ぶように魔王に丁重にお願いした。
「これ、そこまで持っていって」
「????」
呆気にとられた魔王が、私のペースに乗せられている。大きな身体の悪魔が、私の言うことを聞くのは割と快感だ。
コンパクトにL字で席について、食事をはじめる。
手を合わせて、大きな声でごあいさつ。
「いただきます! さぁ、バアル、食べようか」
膝に乗せてご飯を食べさせるのは至難の業だ。ここには子供用の椅子もない。
誰かにそろそろ作ってもらわなくちゃいけないな、と思っていると、魔王の手がぬっと差し出される。
あっという間にバアルが抱き上げられた。
泣くかと思って固唾をのんでいると、意外なことにバアルはちっとも泣かずに、魔王の顔をペチペチとたたき始めた。
「お前にそっくりだな」
冗談を言うとは思っていなくて、思わず笑うと、魔王は怪訝そうな顔で私を見た。
「何を笑っている」
「え、冗談言うから」
「冗談など言っていない。これは嫌味だ。貴様には理解できないか」
「ムッカつく〜〜」
「ムカつく?」
そんな単語は知りません、とばかりに私を覗き込んでくる。
「怒ってるってことだよ!」
「知っている。殴られたのは私なのに、なぜ貴様がムカつくのかと言っている。……ちなみにこれも嫌味だ」
「う、うるさいな!」
やっぱり悪魔。腹の立つヤツだ。
気を取り直して木の匙で豆米を掬い上げると、ふーふーと冷ましてから、バアルの口に運ぶ。小さな口なのに、食欲旺盛で、バアルはこれをいくらでも食べた。
こういうところは、普通の赤ちゃんとは違うところだ。まぁ、時々離乳食をめちゃくちゃ食べる子もいるけど。
それを何度も繰り返すうちに、バアルのお皿は空っぽになる。
「まだ食べるの?」
「あー!」
「もー、仕方ないなぁ」
笑いながら私の分を食べさせ始めると、魔王が制止した。
「それはお前の分だろう」
「そんなのどうでもいいよ。子どもがほしがるなら、どの親でもこうするでしょ」
「……お…や……」
私の分を半分食べて、バアルはうとうとし始めた。食べながら寝るのは子どもの特権。
「ふふ、可愛いなぁ」
私がバアルの髪を撫でて、眠るバアルを抱き上げようとすると、魔王はそれを拒んだ。
「……折角寝たのに、起きたらどうする」
「でも……あなたも食べないと」
「貴様が先に食え。私はこれが起きないように抱いている」
「でも」
「いいから」
魔王に押し切られて、私は残りのおかゆを食べ始める。
チラチラと二人を横目で見ながら摂る食事は、何とも喉が詰まった。掻き込むように食べ終えると、変わろうと手を伸ばす。
けれど、魔王は首を振った。
「わかる。子供の温かさって、気持ちいいでしょ」
つい、笑いながら言った。
あの独特の温み。甘いような子どもの匂い。一緒に眠りたくなる、あの感覚。
「……貴様、あちらの世界で子どもでもいたのか」
「うーん、私の子はいないけど、預かってたんだ」
「なるほど、子守をしてたのか」
「……まぁ、そんなもんかな」
食卓に肘をついて、頬杖をする。すやすやと眠るバアルを見るのはとても幸せだ。
バアルがこんな風に身を任せて眠れるなんて、そんなに悪いヤツではないのかもしれない。
……まぁ、悪魔ですけど。しかも、魔王ですけど。
「……帰りたいか」
「そうだね。帰りたいよ。この子と一緒なら」
魔王はびっくりした顔を隠しもしない。ゆっくりとバアルを見て、例のとても哀しい顔をした。
「皆、そなたのような人間なら良かったのに」
聞こえるか、聞こえないかの思わず漏れた声だった。
「ねぇ、私、あなたと恋したわけでも、結婚したわけでもないけど、この子はあなたと私の子なんだよね?」
「あぁ。そういうことになるな」
「だったら、私、あなたをパパって呼ぶから」
「は?」
「あなたは、私をママって呼んで」
「は?」
すっかり冷めてしまった魔王の豆米の粥を、魔王の匙に持ち替えて掬う。
「私のところでは、一番小さな子の目線に合わせて、役割で呼ぶんだ。その子に分からせるためにね」
「ほぅ」
「この子の父親はあなただから、パパって呼ばせるのよ」
「なるほど」
「この子の前だけでいいから、あなたは私をママって呼んで。……はい、あーん」
「は!?」
「抱いてたら、食べられないでしょ? それにこれ、美味しいんだから。あなたの部下たちも夢中で食べてるらしいよ」
ぐっと匙を薄く形のいい唇に押し付けると、魔王は嫌々口を開ける。何度か咀嚼すると、眉が跳ねた。
「……悪く……ないな?」
「でしょ? 食べて食べて」
魔王の咀嚼に合わせて、何度も匙を運ぶ。大きな子どものようで、何だかおかしい。
「で、これは……いったい何でできてるんだ?」
「人間の作る豆みたいな、米みたいな植物だよ」
言った途端、魔王は顔をしかめて、口の中のものを床に向かって吐き出した。
「何するの!? バチが当たるよ!」
「こっちのセリフだ! 人間のものだと!? そんなもの、食わせるな!! 家畜の餌だ」
カッチンと来て、立ち上がる。
「人間を家畜だと思ってんの、アンタ」
「……当然だ」
「じゃあ、アンタ家畜から産まれたの」
「黙れ」
「人間は家畜なんかじゃない!」
バアルを強引に取り返すと、階段に向かう。
バアルが起きて、私を見ている。肩に顔を乗せて、まだウトウトするバアルの背中を何度も撫でて、もう一度寝かしつける。
許せないと飛び出したはいいけれど、辿り着いた階段はさっきの風でランタンが消え、真っ暗闇だった。
その先には恐ろしいほど長い、先の見えない階段が続いている。
途方にくれて、私は階段に座り込んだ。
希望は、かき消されてしまった。




