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母なる海と死の海

 羽ばたきひとつ。


 急上昇するドラゴンは、あっという間に白い雲の中に到達する。こんな岩のような背中に、捕まっている自信はなかったのに、ジェットコースターの浮遊感は感じるものの、体は浮き上がらない。

 背後から捕まっているエリゴールの力なのか、バアルの力なのか……。


「バティム、これじゃ何も見えないよ」


 そう言いながら、エリゴールはレンガのような肌を撫でた。

 真っ白な水蒸気の中を急降下して、眼下に広がったのは、城砦を取り囲む森を抜け、大きな城下町が見えた。そこは私が見ていた崖の反対側の世界だった。


「街……」

「えぇ、魔族も低級のものはこのように暮らします」

「もう少し、下がれない?」


 エリゴールがバティムの肌をゆっくりとひと撫ですると、静かに下降する。市場があり、見慣れないものを売り買いしている。

 煉瓦造りのさまざまな悪魔が行き来する雑多な街。不思議な光景だった。

 バティムの姿に驚いた悪魔たちが、歓声をあげる。


「よし、バティム」


 今度はバティムを軽く叩く。するとまた、大きく羽ばたいてあっという間に上昇する。


「見えるでしょう……森の果ての砂漠が。あれが年々広がっているのです。そのせいで我々の生活区域は減少の一途です。森で暮らしていたものも、あの街に徐々に住まいを移しているのです。ーーーーーこの国は、豊かではない」


 バティムの肌をもうひと叩きしてから、ゆっくりと撫でると、今まで一番の速度と高度で、バティムは大きく旋回して崖のある方へと飛び立つ。

 すぐに視界いっぱいに広がったのは大きな海だった。一面が真っ青。あまりに美しい、コバルトブルーの海。


「はぁ……」


 言葉なんて、こんな時は出ない、ただ息を飲むだけ。美しすぎる景色に、自然と涙が溢れる。神々しいと言うのは、きっとこんな瞬間なんだろう。


「……ルシファー様は、あの海が、欲しいのです」


 ボソッとエリゴールはつぶやいた。

 遥か向こうに続く穏やかな美しい海と、私たちの飛んでいる真下の海は、暗く大きな波が私たちの住む城の立つ断崖絶壁に、寄せては白く砕けている。海は線を引いたように分かれている。

 重く暗い海と、穏やかで明るい海。同じ海とは思えないほど、二つは違った。


「あれが母なる海。我らが海は、死の海です」

「死の……海?」

「我々魔族は、何も生み出せない。だから、あなたのように母なるものを召喚する」

「生み出せない……?」


 見たこともない景色に、聞いたこともない魔族の生殖活動。混乱していて、ちっとも理解できない。


「この死の海の風を浴び、我々は消滅するまで長い時間を過ごします。多分、それは永遠に近い……けれど、何も生み出せない。我々は、新たなものにはなれないのです」


 足元の闇のように真っ黒な海が、大きなうねりで崖にぶつかり、砕ける。それを永遠に繰り返す。ゾッとした。

 変わらないことへの恐怖が、いや、変われないことの恐怖が。

 振り返ってエリゴールを見ると、遠くを見るような焦点の合わない表情で、何かを思い起こしている。


「我々もきっと昔、生まれたはずなんです……あの海で」

「エリゴール……」


 エリゴールは、無言で私の髪飾りを外して、海の境に向けて投げつけた。ビリビリと(いかづち)が走る。

 髪飾りは跡形もなく霧散した。


「……ここには結界が張られていて、ここから先には行けません」


 見えているのに、あの青に触れられない。

 何かを囁くようにして、ゆっくりとバティムの体を撫でた。


「あちらからもここに来ることはできないのです」


 はっきりと言い切るエリゴールに、なら魔王はどうしてあちらに向かったのか、どうやって帰ってくるのか、でも質問できるような状況じゃなかった。


「異世界から次期魔王の生母を召喚することを、ルシファー様は快く思っておられないのです」

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