九章・序/あるわたしの正体
女の唇が弧をえがく。
「生まれてから一度も他人の幸せを願ったことなんて無いって言ったわね、あんた」
真っ赤なそれは、真っ白な肌によく映えた。薄気味悪いほどに。
「なんてかわいそう。いや、なんてかわいい男なのかしら」
哀れみを通り越し、それはもはや無力な愛玩物に向けるそれだった。
「自分の正体にすら気付けず他者を道具扱いするなんて、すばらしく愚かで可愛い」
唇と同じく真っ赤に塗られた爪先が、みずからの髪を巻き取り弄くる。
「あんたみたいなの、よく知ってる。あたしも大昔、これでもかってくらいにかわいがられたからね」
周囲の闇に溶け込む漆黒の巻き毛。それを見つめる視線は、暗闇でも印象的な青だった。どこまでも澄み渡り陽光を等しく投げかける、暖かな空のような。
「だからねえ。あんたみたいなのに逢うと、正直嬉しいの。わあ、心置きなくかわいがり返してやれるーってね。いじめられっこがいじめっこに復讐ってありきたりだけど、ふふ、あたしも性悪だからね。愉しいのよ、こういうありきたりなパターンが」
またも弧を描く赤い唇、赤い舌がそこから覗き、真っ白な歯に挟まれる。一瞬だけむき出しとなった歯は肉を食む獰猛な獣のように、牙めいて暗闇に光る。官能というよりぞっと底冷えがするような、獰猛な表情だった。
「だから。早速虐めさせてもらうわ?」
淫らなくれないと禁欲的な漆黒、澄んだ青と無慈悲な白。異なる四色を併せ持つ女は、優しげな声で言った。
「『生まれてから一度も他人の幸せを願ったことなんて無い』あなた。なら、どうして――、」
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「――、おしまい」
ぱたん、と閉じられた絵本を前に、リラはふっと苦笑した。本を読み聞かせていた息子はいつの間にか、膝の上ですやすやと寝息を立てていたから。
「ティー、ベッドにいきましょうね」
胸に載せられていた柔らかい金髪の位置を変える。無防備にくてっと身をあずけてくる様子がいとしい。高い体温の柔らかな身体を抱き直し、専用寝台のある私室に向かう。
腕にくるずしりとした重さ。ほぼ四六時中一緒にいるというのに、その成長の早さには人間としての感覚がついていけない部分がある。何しろ生まれてからまだ半年程度だというのに、もう立って歩けるし話すことも出来るのだ。そして成長期のこどもの例に違わず――見かけによらず――かなり、重い。
これからもますますこの子は重くなり、相応に大きくなるのだろう。
(こうやって抱き上げることも、もうすぐ出来なくなるのかな)
そんなことを考えつつ、そっと寝床に横たえた小さな身体。父親譲りの尖った耳がぴくぴく動き、寝相が変わったことで上向いた唇からかわいい歯が覗いた。けれどもやはり起きる気配はなく、離された温もりに反応することすらない。毛布をかけてやってから、その頬を少しだけ見つめる。寝息の他、ぐっすり、という擬音がしてきそうな寝姿に小さく笑い、部屋をあとにした。
居間に戻ってのち、卓上に置かれたままだった絵本を片付けようとしてふと手を止める。表紙をまた開き、ぱらぱらと捲る。先ほど読み終わったばかりの箇所をまた簡単に追いながら、少し多めの吐息が洩れた。そして、いつもの独り言も。
「……ティーはどのくらい、わかっているのかしら」
様々な意味が込められた言葉だった。
読み聞かせていたのはエルフの世界で知られている絵本だった。きれいな絵とわかりやすい文章、童話らしい物語。リラの夫も小さい頃馴染みがあったという、昔ながらのこども向けの本。母親が子供に読み聞かせるに丁度良い、適度な長さの小さな絵巻。
長命種の世界で永く語り継がれ、愛されている物語がつまらないはずがない。短命種であるリラでさえ素晴らしいと思ったし、(少々哲学的で難しいとは思ったが)楽しめたのだから表現がわかりにくいわけでもないと思う。母親の読み聞かせ自体も、少々拙いながら極度に下手でもないはずだ(と思いたい)。実際あの子は嫌がる素振りもせず、退屈も訴えず、リラの膝の上でじっと大人しくしていた。ただし、絵本に集中はしていなかった。小さな手はきれいな挿絵に伸ばされることはなく、視線が物語の続きをねだることもかわいい声が合いの手を入れることも無かった。
あの子はずっと、リラを見ていた。頁を捲る母親の指を見つめ、そこからのびる手首の動きを眺め、捲られた袖と肩口を辿って声を発する喉と唇、動く顎をひたすら見上げていた。まるで、それしか興味が湧かないかのように。
途中で気付いたリラが絵本を指し示しても、息子はきょとんとした顔で母親を見つめるばかりだった。苦笑しつつ「読むのをやめる?」と訊くと、慌てて首を振って視線を前方に移す。でも気が付いたらまた、こちらをじっと見上げているのだ。まるで、どうしても気になって仕方ないものをこっそりと観察するかのように。
あの子は本が嫌いというわけではない。むしろその逆で、文字が書かれてあるものはどんなものでも大好きだ。しかも、より活字の多いものに集中する節がある。
ただ、あの子はまだ赤ん坊。文字の意味なんて、わかっていない。わかっていないはずだ。――多分。
(絵本の方が、絶対わかりやすいはずなのに)
だからこそ、と始めた読み聞かせは、結果としてリラの思ったようにいかなかった。当の息子が、まるで集中しないからである。本は大好きなはずなのに。文字よりも絵の方が理解しやすいはずなのに。――人間なら。
(……人間じゃないから、順番が違うのね)
あの子は、父親の血を色濃く受け継ぐエルフであるから。無知で単純なリラはそうやって、無理矢理自分を納得させるしかない。今までのか細い人生経験が及びもつかない場合、困りはするが長く拘っていても前に進めない。異種の世界に嫁いで二年余り、飲み込めない部分は「そういうもの」としておかないととてもではないがやっていけない。そのこともうっすらとわかってきた。
(そういうもの、なのよ)
でも。
あのきらきらとつぶらな青紫の瞳は、どこまでわかっているのだろう。どの程度「文字」を理解出来ていて、どのくらい内容をわかっていて、そして、何を見つめているのだろう。わたしはこの子に、何を優先的に与えるべきなのだろう。その疑問が浮かぶたび、リラはうっすらとした寂寥感にも覆われる。
この子は、わたしの子なのに。
わたしの、いちぶなのに。
一番近くにいるはずなのに、この子のことがわからない。
傷みやすい古い絵本にカバーをかけ、二階の書斎に戻し、階段を降りてすぐ横の玄関を抜ける。向かった先は中庭にある花壇だ。
ここ半年でまた増えた植物を見舞いながら、その一角で足を止める。だいぶ大きくなってきた背の低い植木。こまめに世話をしたせいで苗木はしっかりと根付き、鮮やかな緑が風にそよいでいる。
それを見つめているうち、土や草木の匂いを感じるうち、悩んでいたことが急にちっぽけに思えてきた。いつだってそうだ、植物はいつでも静かに佇み、ただ在るがままにそこにある。成長が遅いものも早いもの、ただ生きているままに。そして、どんなものも少しずつ成長していく。花を咲かせ、新たないのちを芽吹かせる未来へと向かって。
この世に存在するうちは。
いのちを、諦めないうちは。
「そうよね」
持って来ていたジョウロを傾ける。細かな恵雨が黒い土に滲み込んでいく。水滴を弾き、緑がきらきらと光った。乾いた地面にせっせと水遣りをしながら、リラは微笑んだ。独り言も、先ほどのものより明るい。
「それぞれにきっと、やり方があるのよね」
成木になるまで手間のかかるこの植物と同様、生き物の成長の仕方というものは一往でない。無理に型に嵌める必要だって無い。
「どんなことがあったって――ティーはわたしの子」
その事実があるだけで、充分だ。
午後の涼しげな風が頬を撫で、黒髪を攫って靡かせる。
リラはふと目を瞑り、空を仰ぐよう顔を上向かせた。聴こえるはずもないのに、静かな中で目を閉じて耳を澄ませると、何かが聴こえるような気がしたのだ。ただの願望だったけど、何かが近づいてくると思いたかった。耳に届くのは風の音だけなのに。
先ほどの絵本をふと思い出す。童話らしくわかりやすくも、童話らしい深い教訓と問いかけが感じられる物語だった。リラ自身過去に思うことがあるからこそ、そう感じたのやもしれないが。
髪を靡かせる風はまるで生き物のように生きているものに纏わりつく。弱くも強く、寒くも温かい風はリラの耳元で囁いた。
――お前はお前の正体を、ちゃんとわかっているのか?と。
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生まれてから一度も、他者の幸せを願ったことが無い。この世は、生きている限り地獄だ。
「本当にそうだったの? そう思っていたの? ……だったら、どうして、」
やめろ。
「どうしてあなたは、」
やめろ。やめてくれ。私の正体を暴くのは、やめてくれ。
「あなたは、」
――私の正体、それは。それは、ただの、
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風が弱まったその瞬間。ぱちっと見開いた緑の瞳は、次いで微笑んだ。にこっと柔らかで朗らかな、彼女らしい笑顔だった。花の咲くような。彼女自身が花であるかのような。
儚くも強かに。か弱くも芳しく。
花は、風に伝えた。
「……わたしは『わからない』。それで、いいのよ」
ねえ、ティー。
あなたがこの先どんな成長をして、どういう風に生きていくのか、わたしにはわからない。わたしとあなたが異種である限り、完全に理解出来ることも無いでしょう。
けどね、ティー。
覚えておいて。わたしは只の人間として、そしてただの母親として、単純にあなたを愛してる。ちっぽけな人間の親として、子供であるあなたを大切に感じているの。あなたがこの世に生まれた瞬間からいとしく思い、慈しみたいと感じた心が、そう在りたいと願ったものが、あなたが生きている限りはずっとあなたの傍にいるの。
だから、ティー。
この先何があったとしても、あなたがどんなものになったとしても。あなたがどんな辛い目に遭ったとしても、恐ろしい思いを、抑え切れない憤りを、拭えないかなしみを抱くことになったとしても。
覚えておいて。あなたの正体をあなた自身が否定しない限り、この愛は消えない。
そして。
あなたが自分自身を大事に出来て、そして自分以外の誰かを大切に思えたとき。そこに新しい「愛」は必ず生まれる。足跡すらみえない暗闇の中を歩いていたとしても、その瞬間からきっと未来は開ける。
例え存在に気付けなかったとしても、それを抱けた証しはずっとあなたの中に残る。誰かの幸せを願える心は、どんな心よりも強い。今のわたしがそうであるように、どんな辛苦もこの心を潰すことは出来ない。これこそ、わたしが生きている限り続く、わたしである証明だから。
ねえ、ティー。
そこに至るまでの道筋がどんなに辛くたって。その「愛」はきっとあなたを奮い立たせ、未来を照らし、凍えそうなものを暖めてくれる。
ティー。
あなたは、独りじゃないのよ。




