挿入閑話・ある風の約束
ティリオに風の加護を授けた、とある少年の追想
人の手の入らない土地にて高く濃く緑が生い茂った、草原。
びゅうと音を立てて風が吹きぬける。部分的な強風は先ほどまで穏やかな微風にそよがれていた数多の植物を薙ぎ倒し、長く広い道をつくった。
平面となった草地に降り立つ、少年の足。特徴的な鞣革に包まれたそれは重力を持たない空気が如く緑の表面をなぞっていたが、ややあって普通に歩き出す。まるで途中から歩き方を思い出した、といわんばかりに。
畳まれた草上を軽やかに進みつつ、これまた特徴的な衣の裾が翻る。襖子の上から垂らされた袍布は鈍金糸で模様が成されており、長袖の肩には同色で細かな刺繍。窄まった襟から胸元にかけて赤い縁取りが入っている。風で絡まった濃茶の頭髪と日に焼けた肌は野生児そのままなのに服装は豪奢で整然としており、足元も着こなしも崩れていない。ただ、頭をがしがしと掻いたり腕をまわしてこきこきと関節を鳴らしたりする仕草はごく普通の少年のようである。気取った言い方で例えるなら誰も知らない辺境国の奔放な貴人、そんな外見であった。
水色の瞳を眇め、間延びした独り言。
「あ~~ねみ~~~……」
さくさくと音を立てて歩きながら、少年は欠伸をする。ふああ、とのどかなそれは宙に残され、徐々に凪いでいく風と共に消えていった。
あとにはただ、倒された草と踏まれた植物の濃い匂いとが満ち溢れている。
■ □ ■
遥か昔、「霊具大戦」というものがあった。
妖精がそれまで秘匿としていた強力な武器霊具が人間界隈に流出したことがきっかけで起こったそれは、多くの死傷者を出す歴代有数の惨事となる。霊具を巡る攻防は個人の諍いだけに留まらず民族や国を巻き込んだ大規模争乱に発展、争いの火種が全世界あちこちに飛び回り、数多の命が奪われた。
やがて大戦は霊具流出を赦した妖精の過半数が死滅・一族離散という課程を以って徐々に沈静化。人間界隈に燻った火種も、猛威を奮った殺戮凶器が公の場で破壊されることにより一応の終結をみせた。壊されず残った武器霊具も調整霊力を行使出来る妖精がいないことで弱体化、自然と争いの渦から遠ざかる。形骸化することにより、霊具は単なる歴史の遺物に収まっていったのだ。
近代の多くの人間は、かの霊具大戦こそが人界最大にして最長、最悪の戦争だと信じている。それは事実の一環であろうが、それより更に昔、超古代と呼ばれる時代にはそれを上回る規模の戦乱が多数あった。人間はいつの時代も、強大な兵器を行使出来るものこそが強者だと信じる節がある。自分達の力だけでは制御出来ないくせに手に入れば使いたくなる、そんな暗愚な思考により引き起こされた災禍は数知れない。殺戮兵器を巡っての争いなぞ、人界においてはごく普通のことだったのだ。
そんなありふれた争いのひとつが、「第二次魔法大戦」である。
霊力と相反するちからである「魔力」、それに関わる災禍は無法地帯において無節操に発生、魔界より暴虐な魔族召喚も頻発した。惨事が日常となり、人界一部が魔界化した時期もあったのだ。
当時は魔力に対抗する術が精霊族の加護持つ「霊法師」だけだったため、多くの霊法師が盾としていくさ場に出兵させられ、また命を狙われた。結果、最も深刻な被害を受けたのが西北地方にて存在していた遊牧民の一派である。彼らは非常に有能な霊法師を多々輩出する有名な一族でもあり、そのため各国各地の狙いどころとなってしまったのだ。一族の直系は殆どが殺され、逃げ延びたものも悲惨な末路を辿り、少数ながら世界的に有名だった名族はその時代にて滅亡する運びとなる。
霊法師は、契約を交わした精霊族の性質にもよるが血縁によって加護が継続されることが多い。彼らもその一環であり、直系が死滅することは精霊族の加護が消え只人になることを示していた。他所から嫁いだ者や養子入りした者など、傍流と称される者らは力を持たないことで戦乱を生き延び、戦後もこれまた世界各地に居所を分散することで命を繋いだ。土地勘が多方に有り、肉体が丈夫で霊法師ゆかりの健康法も心得ていたので徐々に富を蓄え、のちにとある王国にて「名家」と称されるまでに発展した生き残りもいる。
ともあれ、西北の主要な霊法師――風の加護持つ人間は、激減した。彼らの死をかなしく思った風属性の精霊達も、その地から自主的に離れていった。霊力寄りだったはずの西北地方は魔力の介在を赦すようになり、磁場や中間地が多くなることで人口は増えた。が、精霊族の領域は狭まる一方であった。霊法師が有名であった西北地方はいつしか「霊法師不毛の地」となってしまったのだ。
転機となったのは、魔法大戦終結からしばらく経ったある時期の出来事である。
西北地に居を構えたとある人間が、有志を集って石碑を建てたのだ。超自然区域の霊石を基に十年以上かけて彫り上げたその碑は、かの遊牧民の居住跡に設置された。手の込んだ慰霊碑はされど立派でも大きくもなく、戦後に作られた鎮魂証としては珍しくもなかった。
不思議が起きたのはそれから後である。霊気が薄くなり久しかったその地に、なんと精霊族が戻ってきたのだ。全てが風属性であり、かの民族と交流のあったものが大多数であり、中にはちっぽけな石を守るためそのままその地に居座ってしまうものすらいた。石碑を守ろうとする精霊は徐々に増え、人間が建てた慰霊碑はいつの間にか人間が近寄れないほどの霊圧に包まれることとなった。かの民族が如何に精霊族から好かれていたのかがわかる出来事といえよう。
時が経ち、石碑を建てた人間が没し、彼らの集落の規模が移り変わっても。かの石碑は変わらずその地に在り、精霊族らに辛抱強く守り続けられた。そのうち、やがて西北の土地はさらに様子を変える。力ある精霊が密集したことにより新たな霊圧が空気中に発生し、ごく普通の中間地においてもかの石碑周辺から吹き降ろす風のみ霊気を帯びるようになったのだ。世に言う「風の恩恵」の始まりである。
時は過ぎ行き、石碑を守っていた当初の精霊族も死に絶えた。しかし新たに生まれた次世代の精霊族が代わりとなり、入れ替わり立ち代りその場に留まってかの証しを守り続けた。西北より吹き降ろす霊風はますます強まり、他地域より風属性の精霊族が居心地の良さを求めて移り棲むようになった。以後、彼らの霊力的な好循環は続くことになる。
こうなると、もうこの地は「霊法師不毛の地」ではない。霊風に吹かれて暮らすうち、おのずと霊気容量に優れた人間も多数生まれる運びとなり、近くに棲まう精霊族と仲良くなることで彼らの加護を手に入れる者も自然と出てきた。世界各国に散らばっていた傍流の子孫や彼らに近い者らも巡礼に訪れるようになり、激減した風の霊法師は時間をかけ徐々に数を復活させていったのだ。
ただ。
そのいずれも、力は弱く。かつて天候を操り自在に空を舞い「風の友人」と讃えられた遊牧民のようには、なり得なかった。
かの一族が滅亡したことで、風属性最強の霊法師はやはり永遠にうしなわれたのだ――かのような通識と諦観とか世界に蔓延し、やはり戦は忌むべきもの、稀少な霊力者は尊重するものといった教訓が常となる。霊法師や霊力に順ずるものは人間の力が及ばない不可侵のものとして認識されるようになり、霊力を可視出来ない只人らはより一層精霊族と距離を置くようになった。そして更に、歳月は流れる。
戦争終結より、数百年後。かの民族が遺した教訓がはや薄れ始め、精霊族と人間との境界も若干曖昧になってきた頃合い。
一人の不思議な少年がとある精霊族の区域にてある人間の少女と出逢ったのは、そんな時期でもあった。
■ □ ■
「かえ」
「かえ? な~にそれ、帰れってか?」
「うぅ。かえ」
「……もしかしてそれさ~、オレのこと~?」
「かえ!」
そんなやり取りをしているのは、濃茶の髪の少年と複雑な色の金髪の赤ん坊である。
「かえ、」
ふっくりした頬と尖った耳持つ赤ん坊は、傍の衝立に掴まってよろよろと立ち上がる。持ち上がった視線は青紫色。その目で正面から見つめられ、少年の水色の瞳がぱちくりと瞬いた。
「へ~え。おまえ、結構賢いんだな~」
頭が重いのでまだ重心が巧くとれないようであるが、転びそうになりながらも転ばない。生後間もないというのにその瞳には理性が有り、知能もそれなりに高いようであった。舌も回らないながら、しっかりと眼前の存在を認識して声を発している。
「かえ!」
「あっはは~わかったわかった。一目でオレの正体見破ったのおまえが初めてだよ。褒めてやる、エライエライ」
豪奢な縁取りのされた長袖が、伸ばされる。陽に焼けた指は、産毛のように繊細な金髪をわしゃっと撫でた。乱雑に見えて、その表面にはまったく重心をかけない撫で方でもあった。それがわかるのか嫌がる風情でもなく無垢に見上げてくる赤ん坊と視線を合わせ、少年はひどく愉快そうに笑む。
「妖精と人間の合いの子がどんなになるのか、愉しみにしてやるよ」
そんな彼も、数年後にこの子供相手に最大の覚悟と決心を抱くことになるとは、思ってもいない。
「もうティーはぐっすりね」
ややあって、赤ん坊が寝に入った頃合い。揺り篭に入ってゆらゆらと揺すられながら寝に入った小さなかたまりを、優しく抱き起こすのは小さな手だ。さらり、と揺れる結わえられた黒髪。赤ん坊と同じ肌の色をした女の腕。いや、少女といっていいくらいの年代だった。
ただ、その視線はしっかりと母親のものである。
「ありがとうございます」
「は? オレ、なんもしてね~よ?」
「先ほどまで、ティーの相手をしていただいてたので」
この子、来客があると寝つきがいいんですよと微笑む顔は、慣れない育児に若干疲れてはいる。だが、満足気でもあった。
すやすや眠る赤ん坊を抱きしめ、黒色の睫毛は伏せられる。じっくりと今在る幸せを噛み締めるような表情に、少年は無言でそっぽを向いた。こういう雰囲気のときには入っていけない。
専用の寝室にて赤ん坊を寝かせた後、少女は少年のもとに戻って来る。視線は出逢ったばかりの頃と比べて上の位置にある。ここ一年で、彼女は少しばかり背が伸びた。彼のほうは変わっていないのに。
「丁度お湯が沸きました。お茶、飲んでいってもらえますか」
「うん~見てやるよ」
「はい、お願いします」
こそばゆさと居心地の悪さ、両方が入り混じった心地で少年は再度そっぽを向いた。時間の経過を急速に感じるのは、当然だ。だってこいつは、只の人間なのだから。
「ごじゅって~ん。味も香りも半々」
「……難しいですね。精進します」
淹れられた茶を飲み、簡潔に品評してやる。ここ一年余りですっかり慣れたやり取りでもある。
「百点満点のお茶を淹れられるようになるのはまだまだですね。頑張らなきゃ」
「その意気だぜ~ちっこいの」
「ちっこいのではなく、リラです」
「あっそ。でさ~ちっこいの、これなに~?」
「もう、ハヤテさんってば」
一緒に陶器を傾ける小さな手の主は、拗ねた振りで溜息をつく。赤ん坊を揺すってる時と違い、滑らかな頬と口元は歳相応に綻んでいる。(見た目は)同年代のものと軽い会話が出来ることに嬉しさを覚えている様子だ。こんなことが母親業の息抜きとなるとは、まったくもって安上がりな人間である。
「それは昨日、集落で買ってきたお菓子です。東方の特産品らしくて、不思議な触感でとっても美味しいので是非食べてみてくださいな」
「うん~これオレ食べたことあるわ」
「え? そうなんですか」
「うん~」
間延びした声を発しつつ、少年は菓子を指先で摘み上げた。
「てゆうかツテあるし~。今度持って来てやるよ」
何気ない言葉であったのに。それを聞いて、少女はぱっと顔を輝かせた。
「あ、ありがとうございます!」
何がそんなに嬉しかったのだろう。
「ハヤテさんは、世界各国にお知り合いがいらっしゃるのですね」
「ま~ね。これでもそこそこ長生きしてるし、フットワーク軽いし、オレ」
「ふっとわーく?」
「こ~ど~りょくバリバリで、移動手段があるってこと~」
「へえ……」
自慢げに口の端を上げる少年を前に、少女の瞳が興味深げに瞬いた。
・
・
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「ハヤテさん」
別れの時刻となり、少年は小さな家の玄関を出る。いつもなら笑顔で見送る少女の顔が、若干固いように思えて彼は立ち止まった。呼びかける声は、ほんのりと焦りを帯びている。
「どした~?」
「あの、……」
言い難そうに俯く彼女を前に、少年は苛々と促す。
「言いたいことあんなら言えよ~そういうの心底ウゼ~わ。それともなに、今になって騎士サンに言いつけたくなった? そんなに殺されたいわけ?」
「ち、違います」
慌てて視線を上げ、少女はぎゅっと手を胸の前で握り締めた。
「本当に、つまらないことなんですが。つかぬことを伺っても、よろしい、ですか」
「なに~」
「その、」
こくり、と喉を鳴らしてから、少女は恐る恐る言葉を発した。
「……ハヤテさんは、人間より長生きをされますか」
ぱちくり、と水色の瞳が瞬く。少女は気まずげに、また俯いた。解かれた手は今度は腿の上で握り締められ、震える唇が開閉する。
「わ、わたしは、ただの人間で。でも、ティーは……わたしの子供は、エルフで。きっとこの先も、オーリみたく長生きをすると思うんです」
「ふ~ん。それで」
促すと、気がだいぶ楽になったのか言葉の通りがなめらかになった。
「親馬鹿かもしれませんが、ティーはとっても賢い子で、きっと将来は素敵な男性になると思ってます。けど、」
高さが同じくらいの瞳は、何かを思って懸命に瞬いている。その必死さを見るにつれ、なんとなく、察した。
「わたしは、きっと見届けられない。恐らくあの子が大きくなるずっと前に……死んで、しまう」
このちっぽけな人間は。
「わたしはティーの成長を見届けられない。見守ってあげられる時間も、あの子にとってはきっと短い。オーリは大切なおつとめがあるひとだから、この家を留守にしなくちゃいけない時はこの先も多くなると思います。ヴィオラさんだってお忙しいし、ヴァレンさんだって遠くに住まわれてるからすぐに駆けつけられない。でも、」
この、肩を震わす小さな少女は。
「ハヤテさんは、不思議とそうは思わなくて。いつでも凄く自由で、気紛れだけど行動範囲が広くて――いつでもどこでも、風みたいに駆けつけられる。そんなふうに思ってしまったんです」
こいつは。
「図々しいお願いです。わたし個人の我儘な希望です。ハヤテさんがもし、人間より長生きをされる種族なら。どうか、」
潤んだ瞳は。
「ティーを。――わたしの大切なあの子を、まもってもらえませんか」
ひたすらに、家族を思っているのだ。
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青みがかった袍布が風にたなびく。金と赤に縁取られた衣は陽光に映え、軽やかな足取りと共に色鮮やかに軌跡を残す。
ふと、鞣革に包まれた足が止まった。目の前に開けた草原は、脚の長い草が広範囲に渡って薙ぎ倒され踏み潰されて横たわっている。自分が数時間前に作ったばかりの「道」を前に、少年はぽりぽりと頭を掻いた。
「ん~……」
少し考え、彼はくるりと踵を返す。背を向けたその後ろにて、激しくも暖かな風が巻き起こった。
てくてくと草の少ない場所を歩いて遠ざかる少年が完全に見えなくなった頃、平たく潰されていた草原の一角はいつしか表面の草が刈り取られたかのように緑が消え失せ、何も無い空き地となっていた。しかし、視えるものがいたなら視えたであろう、均土の上からきらきらと降りかかる光の粒子が。新たな草の種と共に。
一筋の風が運んできた草の一片を手に取り、少年はまた欠伸をする。今は花の咲く時期でなく、代わりに生い茂るのはこういった色だ。弱くもしなやかで、ひたすらに青臭い。
でも、この色がいい。
『まもってあげて』
指先でくるくるとそれを弄びつつ、独り言が洩れた。
「……べっつにこだわるワケじゃね~けど。騎士サンに貸しを作るってのも、悪くね~な」
耳に残るのは、ひたすらに必死だった花の訴えだ。
『どうか、わたしがしんだあとも、わたしのこどもを、まもってあげて』
「ちっこいのと逢えなくなるのはビミョ~だけど―――ま、オレは『風』だし~? そういうのもアリか」
少女の瞳と同じ深い色合いの緑を見つめる彼は、ただの少年の顔をしていた。
ハヤテ(疾風)・・・そんなこんなでイヴァニシオン一家と深く関わることになる、風の精霊王。外見年齢は14歳、実年齢は400歳とちょっと。口には絶対出さないけどエルフ香茶が大好きで、リラの元に気紛れに通ったのも半分そのせい。どんどん美味しくなるお茶が結構マジで楽しみだったらしい。戦士としての興味はオレアードにあり精霊としての興味はティリオにあったけど、ただの少年としての興味は可愛らしい女の子にあった辺り、青春である(笑
彼が彼らに関わることでどんな顛末となったのかは、やはり拙作シリーズ参照です。




