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我輩は騎獣である  作者: KEITA
間章之二
61/127

蒼き風との出逢い 四

 小さな手が、青年の頬からそっと離される。暖かな熱が去ったあとは、赤紫に腫れ上がっていた唇と頬が元に戻っていた。

「……――」

 茫洋とした面持ちで口元に指を当てた青年。治癒痕を確かめた彼の表情が、見る間に変わっていく。血の気の失せていた薄い頬に、赤みが差した。

「うん、腫れは引いたみたい。痛くない?」

「……ああ」

「よかった」

 微笑みかけると、視線の合った蒼眼が一回瞬きし、ほわりと綻ぶ。優しく穏やかなあの笑みが、端麗な顔に広がった。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 つくづく、美形の微笑みというものは破壊力が高い。自身も美形であることは棚にあげ、ワカバはふむふむと頷く。

(このひと、人間の雌に凄いモテるだろうなあ。テスはタイプかな?)

 そんな場違いなことを考えるワカバを尻目に、彼は立ち上がり傍らに置いた盆を手に取る。先ほどまでのどこか重かった空気が一掃され、彼本来のものと思われる涼やかな風のような身軽さであった。

 美しい双眸の主は、ワカバに盆をそっと渡す。慈愛深く、優しげな動作で。まるでお腹を空かせた幼子に、食べ物を分け与えるように。

「夕飯だ。仙山査子の果実と苦スグリを採ってきた。天無花果を絞った茶も入れたから、それと一緒に食べるといい」

「――」

 盆の上に用意された、果物の山と綺麗な色の飲み物。今朝食べたものと同様、滋養効果の高い食事なのだろう。そしてやはり、この青年は自分のために骨を折ってくれているとわかる。

 腫れの引いた端麗な顔を眺めながら、ワカバは思った。

(今は、いいや。ここはどこかとか、なんでわたしがここにいるのかとか。それを知るのはあとでいい)

 言いたいことも、訊きたいことも山ほどある。でも、それはひとまず置いておこう。

 だって。

(このひとは――やっと逢えた、仲間なんだもの)


「これも美味しい。せんさんざしっていうの?」

「ああ。天の一部に生えるものだ。果実は食用に出来るし、花や葉、茎や根まで余すところ無く加工できる」

「ふ~ん。……この苦いスグリ、わたしあんまり好きじゃない」

「我慢しろ。栄養価が高いんだから」

「はーい」

「いい仔だな」

 食事を受け取りもくもくと食べるワカバを見守る青年の顔に、もうかなしみは見当たらない。

 あるのはただ、穏やかで優しげな眼差し。

「ごちそうさまでした」

「――ああ」

 そして、静かな決意だった。


きい……ぱたん


 青年が空になった皿を盆に載せ、退室する際。いつものように鼻先で閉められた扉のあとに、施錠の音は聞こえなかった。

「……」

 足音が去って行ってから。ワカバはひとり、寝台の上に腰掛けて扉を見つめる。

(今なら、勝手に出て行ける)

 それは、確信だった。今ならば、この扉に鍵はかかっていない。扉を開けて、こっそりと逃げ出すことも可能だろう。青年の補填してくれた霊気が芳醇で、持ってきてくれた食物も良かったお陰で、内在気はほぼ器に馴染んでいる。無理をしなければ普通に動けるだろう。

(でも)

 ごろり、とワカバは寝台に横たわる。扉を背にして。

(今は、出て行かない。あのひとのために)

 あのかなしげな蒼眼を持つ、優しい同胞。彼が何を考えているのかわからないけれど、何も言わずに出てゆくことだけはしてはならない気がした。彼は何かを耐えている、その何かを知らないうちは、ここを離れてはいけないと内なる自分が囁いたのだ。

(だって、あのひとは仲間なんだもの)同じ一族――イヴァたる、意識が。

「テス、ごめんね。もうちょっと待ってて」

 脳裏に浮かんだ家族に謝ってから、ワカバは若草色の瞳を閉じた。



 そして翌朝。

 いつものように部屋を訪れた青年は、寝台に腰掛けて迎えた少女に一瞬動作を止めた。

「――逃げなかったのか」

「なんのこと?」

「いや、なんでもない。……まあ、結界が解かれていないから、当たり前か」

 蒼い瞳はふ、と細められる。底に、熾き火のような決意を湛えて。


 そうして彼は、朝食を平らげた少女に言った。

「我が一族にとって、身体の中で最も丈夫な箇所はどこか、しっているか」

「え?」

 少女は若草色の目を瞬かせる。脈絡の無い話題だったからだ。

 青年は構わず、続けた。

「本性の姿においては角だが、人型の姿において最も衝撃を受けにくい箇所は――髪、だ」

「……」

 少女は黙って聞いた。青年の蒼色の目に宿る光に、気づいたからである。

「俺たちの髪は、知っての通り本性時の鬣とほぼ同調している。そればかりか、耳の裏にある角を護るため緩衝材の役割もこなしている。つまり、人型の身において、髪はこれ以上無いほど丈夫な箇所なんだ。滅多なことでは抜けないし切れない。自分から切り離そうと考えない限り」

「……うん」

 それは少女もわかっていることだ。頷くと、蒼眼も頷き返してくれた。

「鬣は我が一族において重要な箇所。人型においては柔軟な髪と化し、弱点を隠す盾であり、この上ない防護壁の役割もこなす。……そう、」

 蒼い髪。それを一房摘んだ青年は、微笑んだ。


「これで口や鼻を覆えば、死臭も感じない」


「――」

 無言で彼を見上げる少女。彼女に青年は静かに言った。

「今日の午前までが、猶予の期限だ」

「猶予?」

「ああ。――昼過ぎになったら、我が騎者がこの部屋へとやってくる。そしたら俺は、」

 お前を、抱かなければならなくなる。

「抱く?」

 意味がつかめずに少女は首を傾げる。それを見る蒼色の瞳は、あくまで冷静だった。「獣」にとって判りやすいように、言い直す。

「監視のもと、俺たちは生殖行為をしなければならない、と言ったほうがいいか」

「え!?」

 若草色の瞳がぎょっとしたように見開かれる。

「詳しい説明をする暇も無いし出来ない。今はこれだけ報せるのが精一杯だ。――何せ、」

 端麗な顔は自嘲気味に歪んだ。

「騎獣という生き物は、騎者を裏切ることなど出来ない。その意向に反することは、文字通り魂に反することだ。例え騎者の命令することが同胞を苦しめることであっても、そうしなければ心身が生きながら裂かれる、だから言われた通りにするしかない。出逢ったとき、俺がお前を逃がすことが出来ず説明もしなかったのはそういうことだ」

「……」

「お前は俺に好感を抱いても、つがいにしたいとは感じないだろう? 俺も同じだ。そしてつがいでないものと無理矢理交合させられることが我が一族にとってどれほどの苦痛を伴うのか、俺はよく『識っている』」

「……」

 何も、返せない。青年の顔が、あのかなしみと苦しみに支配されたからだ。

「同胞を治癒したこの腕で、同胞をまた奈落に突き落とす。それを我が騎者が望むのなら仕方ないと考え、そうせざるを得ないと思っていた」

「……」

「しかし、やっと気づいた。俺がしようとしていることは、仲間を苦しめるだけでなく俺自身をも苦しめることだと」

 ぎり、と骨ばった手の甲に長い指が食い込む。少女は思った。彼はこうして話しているだけでも、確かに苦しんでいる。身のうちを掻き毟られている。魂の片割れが望んでいないことを、口に出している。その「裏切り」行為に本能が悲鳴をあげている。

 けれども、次いですいっと上がったその顔は不思議なほど穏やかだった。うっすらと感じとる。彼は苦しみながらも決意を固めているのだ、と。

「それは魂に反することとなんら変わらない。従っても裏切っても苦しむ結果が待ち受けているのなら、少しでもこころが救われるほうを選ぶ」

「……」

 沈黙する少女に、青年は静かに言った。苦しみながらも、晴れ晴れとした面持ちで。


「若草色の同胞よ。逃げてくれ」


 少女は唇を一瞬噛み締め、頷いた。

「わかった。でも、……」


 続いた言葉に、蒼い瞳に漂っていた最後の苦しみは、霧散する。



 部屋から一歩、外に出た瞬間。入り口に張られていた霞のような霊気が瞬時に解かれるのを感じた。

そして、あの嫌な臭気と気配がワカバの周囲を覆う。いや。

(この部屋だけが、遮断されていたんだ)

 悟る。自分は、青年の作った霊力結界により護られていたのだと。

(ほんとうに、何から何まで)

 自分は、彼に護られていたのだ。


「――っ」

 長く考え込んでいても始まらない。

 ワカバは部屋から出るなり、走った。なぜなら、彼がそう言ったからだ。


『走れ。この部屋を出て、廊下を真っ直ぐ右に。すぐに出口が見えるから』


 振り返らずに、走る。だって、彼がそうしろと言ったから。


『髪を顔に巻いておけば、人間が感じる程度の臭気はほぼ遮断される。その状態で廊下を通り抜けるんだ、周りのものを、なるべく直視せずに』


 口と鼻を覆っている自身の髪。ふわりと柔らかいのに、身体のなかで一番しなやかで丈夫な、文字通りの命綱。


『地上に出てからも、しばらくその状態で走れ』


 ワカバの手が、重い扉をこじ開ける。ぎぎ、と金属が軋む音。

 外に出ると、そこは。


『ここは――俺たちにとって、地獄そのものなんだ。だから、直視してはいけない』




 周囲は一面の、墓場。




 突き立つ墓標。ならされた土。取り巻く……死の、気配。

「……っ」

 片手を顔に押し当てる。鼻と髪との隙間を押しつぶすように。

(行かなきゃ)

 意識の焦点を目標地点だけに定める。周囲を詳しく視界に入れないように。軽く見渡せば、広く続く墓地は低めの柵が張り巡らされている。遠く、出口らしき門が見えた。――開いている。

(あそこまで走る)

 前を向く。手の平と髪越しに呼吸が出来るか確認する。がぢゃん、と背後で金属扉の閉まる音。

(大丈夫、行ける)

 地を蹴った。二本足の可能な限り、速く、早く。この場から去らねば。この地獄から、逃げなければ!

(待ってて)

 そして、祈った。


(待ってて――わたしが、助けを呼ぶまで)


 ぐんぐん背後に遠ざかる、蒼色の同胞に。




『わかった。でも、その前に言っておきたいことがあるの』

『なんだ?』

『忘れないで。わたしは今からここを去るけど、次来るときはあなたも一緒にここから出る。いいよね』

『急に何を……、』

『だって、どう見てもあなたはここにいて幸せそうじゃない。本来なら、わたしと同じく「てんにかえる」べき獣。そうでしょ?』

『……俺には、騎者がいる。お前だって騎者の元から離れたくないだろう。それと同じで、俺は魂の片割れから離れることなど、出来ない』

『本当に魂の片割れと思ってるなら、距離なんてどうでもいいはずだよ。どこにいたって大切だと思う気持ちがあるなら、ちょっとぐらい離れてたって平気。わたしは少なくともそう思ってる。テスと一緒に暮らしてるのだって、テスがお嫁にいくまでって制限付きにしてる。だって、テスにはテスの生き方があるんだもの。わたしが長く縛り付けちゃいけないってわかっているから』

『――』

『わたし達は強き脚の一族なんでしょう? この脚さえあれば、いつだってどんな場所にだって駆けつけられる。地の距離なんてどうってことない。界の距離だってそんなに重要じゃない。なのに、どうしてあなたは騎者の傍にずっといなくちゃいけないって思っているの?』

『――』

『お節介かもしれないけど。あなたが騎者の傍にいて幸せだと思えないなら、離れたほうが逆にいい。わたしはあなたの同胞として、そう考えてる。そのことを、忘れないで』

『――……』

『本当はわたしと一緒に逃げて欲しい。……でもそれは、出来ないんでしょ?』

『……ああ』

『だったら、せめて覚えておいて。あなたの幸せを願ってる同族が、この人界にもいることぐらいは』

『……』


『あと、わたしの名はワカバ。大事な家族に付けてもらった、大切な呼び名。それを、あなたにも預けておく。だって、』


 あなたはやっと出逢えた、わたしの仲間かぞくだもの。



 風が、吹いている。この地方特有の涼風だ。それは周囲の湿った空気を含み、どこか異様な空気を漂わす役割も兼ねている。

 風が、吹いている。

 まるで、それ自体が生きているかのように。


「逃げた……だと」


 切れ長の蒼眼を眇める男に、青年は頷いた。涼風に、彼の長い髪がたなびいた。

「ああ」

 端麗な顔は、ただ唯静かだった。まるでこれから起こることを予期しているかのように。

「――そうか」

 青年に向き直る、背の高い男。ざわり、とその銀髪が揺れた。高い位置から見下ろす蒼の視線が、同色の視線と出逢う。

「お前が逃がしたのか」

「ああ」

 言い訳など、考えてもいない。騎者につく嘘など、持ち合わせていない。それが騎獣という生き物だ。

「なぜ逃がした」

「同族をいたぶるのは、性に合わないからだ」

「なぜ裏切った」

「どちらをとっても心身が裂かれるのなら、俺一体の犠牲で済むほうを選んだ。それだけの話だ」

 虚言など、不必要。ただこのこころとからだが命じるまま進むだけ。それが、誇り高きイヴァという霊獣。

「――」


 数瞬のち、青年は殴り飛ばされていた。


「が、ふッ」

 ならされた土が抉れる。地面に叩きつけられ、血を吐く細身の身体。手をついて起き上がろうとしたその刹那、容赦無く蹴りつけられる。

「……ッ」

 鈍い音と共に、声無く地に付す蒼髪を、冷たく見下ろす双眸。そこに渦巻くは、一見温度が低く見えるが業火のような怒りであった。

「この、役立たずがッ!」

 ぐい、と長い髪がわしづかまれる。

「役立たずの上に、背信行為までおこないおってッ」

 そのまま壁に投げつけられる。青年の身体が激突すると同時に、土造部分にヒビが入った。受身を取っていなかったら背骨が折れていただろう。

「――っは」

 咳き込みながら、体勢を整える。なおも襲いくる暴力を受け流すために。

 その表情は、不思議なほどに毅く、穏やかだった。


仲間かぞく


 鼓膜にはまだ、あの響きが残っていたから。




 自嘲する。生まれてからもう二百年余りになろうというのに、百歳にも満たないような年下の仔どもに教えられてしまった。

(そうだったな。俺らは強き脚の一族。どこにいようと、何が起ころうと、この脚さえ無事なら駆けられる。例え――例え天上の崖から落ちたとて、戻ってこれる。そのことは、天に棲んでいた俺がよく識っていたことだったのに)

 すべてをすっかり忘れていたとは。まったくもって情けない雄だ。

 それを諭してくれた、あの小さな雌、いや、呼び名をワカバと言ったか。ワカバの髪は、初対面だったというに懐かしい心地にもさせてくれた。色合いは違えど、彼女の若草色は記憶に残る幼馴染の色と、同系のものだったから。

 かの深く豊かな緑の鬣を思い出す。

(……緑の、ごめんな。お前と共に鍛えたこの脚を、無駄にするところだった)

 今の自分をかたち作る、大切な思い出に囁きかける。あいつは今、生きているだろうか。願わくば、生きていて欲しい。俺も、こんな情けない風体になってはいるが、一応生きているから。ぼろぼろになり、泥水を啜りながらもなんとか成獣になれたから。そして色々思うことはあれど、騎者とも出逢えた。今日まで人界で生きてこられたのは、彼の存在あってこそのことなのだ。あの小さな雌は快く思っていないようだったが、騎者と出逢えたからこそ、自分は潰れることなく生きてこられた。だから、どんな扱いを受けようと彼から離れられないのだ。

(しかし、そんな感慨は今は無用だな)

 うっすらと考える。同族も騎者も、天秤にかけることなど出来ない。どちらもそれぞれが大切だ。比べることなど、本来ならお門違いだ。

 ただし。

(瀬戸際で決断を迫られたとき。こころが死なずにいられるのは、「家族」だと迷い無く思える存在に対してだけだ)

 過ごした時間など関係が無い。本能の叫びよりも何よりも。自分は天の生き物であるとか、騎獣であることだとか、それより以前に。より親しい、近いと感じる方に感謝したい、尽くしたいと感じる只の雄だから。

 俺は、この道を選んだだけのこと。




「ッぐ」

 膝で蹴り上げられ、地面に転がる。身体中が打ち身に悲鳴をあげる。しかし、心は平静だった。

(殴られようが、蹴られようが、――命を失おうが)

 構わない、と思った。だって。


(俺は、最後の最期で道を踏み誤らずにいられた。同族ワカバに、仲間だと言ってもらえた。一族たる誇りを棄てずにいられた。だから胸を張れる。なあ、そうだろ……紅の)


 俺の中にいつだっている、いとしいきみも。きっと頷いてくれている。




 風が、吹く。そしてそれは、蒼い髪を靡かせ煽った。

 まるで、その色こそ風の色だといわんばかりに。



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