風の転換 1
途中からの文は「はしどいの、のこりが。」からのお引越し分です。もう読まれた方は中間地点を飛ばしてくださって構いません。
風は風のままに進む。
ときに微風のように優しく。
たまに強風となりつつも。
木枯らしとなって吹き抜けながら。
気紛れに旋風になる日もあり。
すべてを叩き壊したくなる、嵐が心地も訪れ。
風はそうやって進む。
そしてたまに。
予期せぬ岐路に立ち止まり、転換を余儀なくされつつ。
◇
木の門を通り抜ける。墓所から脚が離れたその瞬間、漂う死の気配、それがぶつんと途切れるように薄まった。
(今だ)
顔を覆っていた手を離す。ふわ、と若草色の髪が周囲に広がる。その毛先が中空に躍る刹那。
少女の身体を、光と風が包んだ。まとっていた衣は弾け、四散する。
そして次の瞬間、その場に現れたのは二本の角を持つ獣であった。
「――」
ぶるり、と鼻づらを震わす。湿った大気にたなびく若草色の艶やかな鬣。同色の双眸は春にいづる新芽のごとく瑞々しく清い。涼風に体表を撫でられる繊細優美な造形。小柄ながらしなやかな骨格と筋肉持つ、美しい雌のイヴァである。
そしてこれこそ、ワカバの本性であった。
鼻腔に押し寄せる濃厚な匂い、雑多な気配。本性に戻った瞬間から感覚という感覚は研ぎ澄まされ、人型においては視えなかったものも見えてくる。ただの風であったものが、意思持つ風だったということがわかるのだ。
《かぜのけものだ》《てんのけものだ》《きれいなけもの》
鬣を靡かせ、角の隙間を潜り抜けながら嬉しそうに周囲を躍るのは、ここ辺りに棲まう風の精霊だ。そういえば、生活用品を買いに行った人間集落で、領域を侵しに来たと勘違いした彼らのお仲間に絡まれたことがあったっけと回想する。この国はやはり、風と風に属するものが多い。彼らの機嫌を損なわなければ、どんなものでも楽に生きてゆけるのだ。そして、風に近しいものほど、その加護を多く受けられる。
《きれいなけもの、どこいくの?》
鼻先を悪戯に掠める風に、微笑みながら応える。
「ここから東の先に。ねえ、頼みがあるのだけどいい?」
《なあに、きれいなけもの》
「わたしが駆ける間、助けてくれないかな。出来るだけ早く、辿り着きたいの」
《いいよ!》
丁寧に頼めば、嬉しそうに躍る風は瞬時に弾け、思念が瞬く間に広がってゆく。四元精は同じ属性の精霊族に対して友好的だ。この分だと、道のりまで霊力が途切れることなく風の援助を受けられるだろう。
「ありがとう」
礼を言って、眼前を見据えた。
(この場は霊気が濃い、自宅周辺も霊気が薄すぎるってわけじゃない、だから大丈夫。いける)
周囲を見据え、目標を定める。だいぶ離れているが、確かに感じる――懐かしい、気配を。数日逢っていない、ワカバのいとしご。魂の片割れ。騎獣にとっての騎者。大切な、家族がいる方角。
ぐ、と蹄を踏みしめる。周囲を渦巻いていた風の霊気が、四本の脚に集う。筋肉に満ちてゆく、心地よい霊力。脚力を増幅させるちから。出来得る限り溜めて、後足に力を込める。大気内に霊力のかけらさえあれば、物理も地の距離もすべてを超越しどこまでも進めるのがイヴァの脚であり、一族の特殊能力なのだ。
目指すは、東。いとおしい気配に向かって。
(テス、今征くから)
地を蹴った。
地獄を抜け終えた、その自覚と同時に姿を転じたのにはわけがある。細身の少女から、四足の獣へ。人型から、本性へと。なぜなら、それが最も効率の良い移動手段だからだ。心配しているだろう家族を一刻も早く安心させたいという気持ちもある。しかし、実際のところはそれ以上の決心がワカバの脚を急かしていた。
(はやく、)
一刻も早く。この場から離れて。
(はやく、助けを呼ばないと)
自分一頭では、どうしようも出来ないから。苦しんでいる仲間を――蒼色の同胞を、地獄から救い出すだけの手段を見つけないと。それだけの手勢を連れてこないといけない。
だから、走る。二本足の次は、四本足で。脚の赦す限り、駆け抜ける。地獄を地獄でなくすため。
(あのひとが、騎者と離れても平気な方法を見つけるの。この脚で、)
一族の誇りたる脚で、一族を助け出すのだ。
すべての思いを風に乗せ、若草色の麒麟は駆ける。
光と風のかたまりが遠のいていった直後、墓場に吹く風の向きが変わった。それは、湿った気配を届ける流れ。新たなかたまりが近づく証。
嵐の、予兆であった。
ひゅう、
指先を掠めた涼風に、旅人はうっすらと瞳を細める。
(この国は、だいぶ風の通りが良い)
同様の風が旅装の裾を翻し、顔に巻かれた布の端をも擽って通り過ぎていった。真夏のはずであるが、体感温度はだいぶ低い。中央国でいう初秋のような涼しさが肌を包む。
国の位置がやや北寄りなせいもあるが、一番の原因はやはり、この風通りの良さにある。
(そんなに霊力寄りの地でもないのに、風の霊気だけこれほど強いとは)
「いつ来ても不思議ですね」
旅人は独り言を洩らしながら、顔に手をやった。しゅるり、と解かれる埃避け兼変装用の布。夏の日に厚着をしているのはやはり心地よいものでもないし、周囲にひと気が無かったので開放感に浸りたかった。もっと肌で風を感じたかった、という気持ちのせいもある。
「……」
ひゅおう、
頬を撫でてゆく涼風。旅人の髪が、そよぐ。薄い色の金髪である。見る角度によって異なる印象を与えるような、複雑でいて美しい色合いのアッシュブロンド。ここ数年は切っていないので少しばかり伸びている。
「……」
それを視界の片隅に捉える、旅人の瞳。凛と形の良い双眸にはめ込まれた、青紫色。
『ティーの瞳は宝石みたいで、綺麗ね』
そう言っていたのは、誰だったか。
『髪の毛も綺麗。金色なのに、銀色にも見えるわ』
わたしの髪は黒一色だから、華やかな色のひとは羨ましいの。そう言って微笑む顔。
『やっぱりオーリに似ているわ』
親子なのね。そう続く言葉も、くすくすと笑う声も。
「……」
脳裏をそよかぜのように掠めてゆく、かのひとの幻影。
「……」
旅人は、空を見上げた。風に吹かれるままに。
中央大陸西北のこの小国を訪れるのは、初めてではない。
正しく言うなら、この地を踏むこと自体は以前もある。旅立ってからの千年余り、幾度と無く西北の地に脚を運んだ。前述のように風の霊気あふるる場所であったし、ひいては自分にとって相性の良い土地だからだ。そして。
(この地は、リラの先祖がいた地でもあるから)
どうしても、来たかった。幾度でも。
(不相応だとわかっていても)
そんな資格など消えうせているのだと識ってはいても。
(どうしても)
あのひとのかけらを、感じたかったから。
第一次魔法大戦による戦死者・その魂に哀悼を。
そう刻まれてる記念碑を前にして、旅人はしばし佇む。この場所に立つのは、数えて数百回以上にものぼる。最後に訪れたのは四十年ほど前。石碑が建てられたのはそれより遥かな昔だ。石碑自体はさほど巨大なわけでなく、大仰なつくりでもない。旅人の腰ほどまでの高さにとどまり、刻字以外は細かな細工すらない、小さな石の塊だ。それなのに人間がつくったこの墓標は、数千年を経てもわずかな磨耗のみでとどまり、その位置もかたちもほぼ変わらずここに在る。
(シルフィード家直系の、先祖。その鎮魂碑)
ただ単に丈夫な石で作られているだけでも、職人の腕が良かったからだけでもない。永い歳月、吹きさらしを耐え抜けたのは、これを特別に護っているものがいるためだ。
周囲には、絶えず小さな風が巻き起こっている。旅人の特別な目には見えていた、その正体が。
《すごいのきたね》《うん、すごいのきた》《おうさまのようせいがきた》《うん、おうさまのようせいだ》
旅人の衣を悪戯気に擽りながら、碑の周囲を躍るもの。何体かの風の四元精だ。それも、少なくはない。
《ぼくらのおうさまは、ようせいにかごをあげたんだね》
《おうさまはにんげんがすきだから、にんげんにあげるかとおもったのに》
《そうだね、あのにんげんがだいすきだったのに》
笑い含みに駆け抜ける無数の風たち。二千五百年もの期間、入れ替わり立ち代り生まれてこの場に留まり、石碑を護り続けている精霊たちだ。
《なんていうなまえだっけ? あのにんげん》
《なんていうなまえだっけ? あのちっこいの》
《なんていうなまえだっけ? おうさまのおきにいり》
石碑の守護者たる風は、そうして旅人に囁く。
《そうだ、りらだ》
《りら、りら!》
《このようせいの、おかあさんだ!》
「……しっていますよ」
旅人は、薄く微笑んだ。
「疾風さんも、リラのことが好きだった。家にしょっちゅうお茶を飲みに来てました。だから、自分とも出逢えたのです」
《そうだったね》《おうさま、よろこんでたよ》《しあわせだって、いってたよ》
「……そうですか」
《おうさまのようせい、うれしい?》
「……疾風さんの加護は、小さい頃に強制的に押し付けられたものですから。正直嬉しいかと問われると微妙です。けれど、この能力のおかげで自分は生きる範囲が広がりました。人々の役にも立っていると、そう感じています。なので、今は疾風さんに――風の精霊王に感謝しています」
《そっかあ》《よかったね、おうさまのようせい!》《おうさまもよかったね!》
今はもうその「姿」を見ることは叶わない、あの日出逢った少年。それをうっすらと回想しながら、旅人は碑に花を供える。人間の集落で購入したものと、少し離れた箇所に咲いていた野花と。それは違った感慨で準備された、それぞれへの追悼だ。
《きれいなはな》
《いいにおい》
《おうさまのようせい、これなあに?》
風らが通り抜けるのは、芳しい花の隙間。
「……自分の、大切なひとたちへの思いです」
《おおきなおはな》
それは、この碑に刻まれた太古の戦の犠牲者へ。愛するひとと自分を生み出したその源流に、感謝と哀悼を込めて。
《それと、ちいさなおはながふたつ》
そしてそれは、他に場所を持たないがゆえの、至極個人的な手向けだった。
「リラと。――自分の父への、花です」
自分は生涯、あの地を踏むことは赦されていない。そしてあの男はきっと、妻と共に眠ることを選ぶだろうから。
「自分の父も、当然ながらリラのことが好きでしたからね」
亡き恋敵を語る男は、どこか懐かしげだった。
「本当に……、自分と父は、似たもの親子だったということです」
そして、寂しげだった。
ティリオはエルフの純粋種ではない。父はそうであるが母は生粋の人間なので、実際にはエルフの血半分といったところだ。
なのに、持ちうる能力は人間の域どころか、通常のエルフの域をも軽く超えている。人型精霊族としては最高峰の霊気容量・行使能力を誇るばかりか、その身には風の精霊王の加護が宿っているからである。
人界における最大最高の精霊族。それは、すがたもかたちも持たぬ四元素そのものだ。通称を、精霊王という。もっとも、この名は天界の精霊王から連想派生した仮の名でもあるので、人間の研究家や古参の精霊族の中には意義を唱えるものも存在する。一般市民においてわかりやすい通称名といったところだ。
ティリオに加護を与えたのは、風の四元精の頂点に立つ「王」。本来ならすがたもかたちも個たる意思すら持たない、純粋たる風そのものである。しかしこの風は何をどう間違ったのか、意思を持ってしまった。そして途中から何を思ったのか、すがたも得てしまった。そればかりかどういう考えなのか、同じすがたの二本足らと交流を開始してしまった。生まれつき素質を持っていたティリオはその一環で「彼」と出逢い、勝手に気に入られ、勝手に加護を押し付けられたのである。
対極する四元精は仲が悪い。風のちからを得たものは風に関して強くなり、生涯風に護られることとなる。しかし、相反するちからである地に対しては極端に弱くなり、地の加護は生涯得られない体質となってしまう。ティリオも風の支配区域ならば自由に動けるし、風が吹く場所ならばどこでも過ごしやすい空間だ。ただし、無風だったり地の四元精が支配する空間においては、まったくといってよいほど身体が動かなくなる。そればかりか、気の荒いものに攻撃されたりもする。まったく厄介な体質になってしまった、と感じる。これならば普通のエルフであったほうが幾分生き易いだろうに。
(……でも、)
この能力のお陰で、助かったものもあるから。得たものも、出逢いもあったし、可能性も広がったから。
(今は、感謝している)
勝手に加護を押し付けてきた、あの日の風。ハヤテと名乗った、風やどす少年に。
(この能力があったから、幼い時分で家を出て、風が支配する超自然区域の中で生きてこられた。――リラの前から早々に去ることが出来た。罪を自覚した時点で醜態をそれ以上晒すことなく、リラの視界から失せることが出来たから)
半生を振り返ると、自虐的にもなる。それだけの罪を自分は犯した。与えられた罰は、この身が朽ちるまで永劫に続く。
むしろ。
(リラに逢えない苦しみなど、一生続いてしかるべきだ)
心の底から、そう思っている。実際、誰と出逢ってもどんな経験をしても自身の関心は動かず、風は風のままであった。識っているからだ、自分はもう一生他人を愛せない。あのひとと同じ以上に愛せるひとなどどこにもいない、と。
そしてそれは。
(苦しみであると同時に、この上ない幸福だ。あのひとを一生愛してゆける。リラをずっと想ってゆける)
本気で、そう感じている。
エルフとして最高の霊力を宿し、強大なちからも得ているこの身は、成長こそ早かったが老化が遅い。恐らく純粋種以上に寿命が永いであろう。それほどの期間、ずっとあのひとを愛して、想って、――忘れることなく、過ごしてゆける。これを幸せと云わずしてなんという。
狂っているかと問われれば、狂っているのだろう。しかし、こころに迷いが微塵も無い辺り、実に幸せな狂人だ。
(今では、わかる。自分の父が、どういうひとだったのかを)
あの男が何を考えていたのかを、今更ながら真なる意味で理解できる。己に正直だったというだけではない。妻を誰よりも何よりも愛していたからこそ、その気持ちに押されていた。恋情が大きすぎたゆえ、甘くわかりやすい愛の言葉を発することが出来なかったのだ。単なる言の葉では軽々しく感じてしまうほど、重すぎる気持ちだったから。元から口下手な父が、この世のすべてをかき集めたよりいとおしいと感じる存在相手に、言葉で気持ちを示すことなど出来るはずもない。
だからこそ、父は武人らしい気質のまま行動で気持ちを示そうとしていた。あまりに直接的で、強引だったのはそのせいだ。他人がどう思うかなど気にもせず、ただひたすらに妻を欲し彼女のために動こうとしていた。妻以外のものなどどうでもいい、と本気で考えていたのだ。実の息子も、世間の評判も、……己自身ですら。
かつて憎たらしいと考えていたあいつは、何事も卒が無い男ではなかった。愛するひとに愛しているとさえ言えない、ただの不器用に恋する男だったのだ。
そんな男でもただひとつ、あのことばだけは幾度も声に出していて。
『リラ』
それこそが、愛の言葉を発せない男の何よりも雄弁な愛のことばだ。その名を口に出すだけで幸せだったから、幾度も呼んでいた。かの存在を確かめている間は、誰よりも幸福な男になれていたから。
(あのひとを愛せているという自覚がある限り、この身は幸福。あの男も、そう考えていた)
結局、自分と父は似たもの親子。そういう結論に落ち着くのだろう。腹立たしくもどこか嬉しく感じる自分が、面白かった。同じ家に住んでいた頃は嫉妬と憎しみしか抱いていなかった相手に、今更親近感めいたものが湧いた。
ただ。
(父の考えが理解出来たとしても、自分はもう和解の機会を持ち得ない)
父子が腹を割って話し合うには、子が犯した罪が大きすぎた。あの日に命を取らず家を出て行くことを許したのが、最後の情けだ。もう一度のこのことあの家に舞い戻ったら、すぐさま首を刎ね飛ばされる。一言も弁解を赦さずに。
(自分はあの家には戻れない。周辺地域にすら行けない。……リラの眠る場所を、血で汚すことも罪だ)
そして、それは父の死後も続く。いとしいひととその夫が眠っているだろう安住の地は、罪びとが我が物顔で踏み入って良い場所ではないのだ。旅立ってからもう永い歳月を重ね、そこそこの移動距離を有し、世界中の国を訪れた。しかし中央大陸のとある国のとある州だけは避けて周辺を通る際もわざわざ遠回りしているのは、そういった事情による。
風の便りで父が生涯を終えたことを知り、心のどこかがぽっかりと空洞になった気がした。自分は、思った以上にあの男のことを家族だと意識していたのだ。憎みつつも、肉親に抱く信頼があった。しかしその複雑な感情を自覚する前に家を出ていかざるを得なくなり、自覚してからも伝えることなく終わってしまった。自業自得とはいえ、父に対し確かな親しみを抱き始めていたからこそ、その事実が堪える。
(だからせめて、死後は家族らしいことをしたい)
そういったものはどこかの妻至上主義な男にとって、心底どうでもいい事象だろう。むしろ恋敵に親近感を覚えられても、迷惑なだけだろう。
(けれど、悼む真似事くらいなら、赦して欲しい)
だって、たった一人の息子なのだから。
家族としての手向けを終えた旅人が考えることは、ただ一つ。
(父が死んで。もうこの世に、あのひとを愛している生き物は自分以外いない)
そのことだけが、胸に刺さる。
もう、かのひとがこの世から去って永い歳月が過ぎ去っているから。エルフの男は一人の女との間に一人しか子をもうけることが出来ないため、きょうだいもいない。異母きょうだいなら数人いたが、彼らは血の繋がりがあるだけで父とは絶縁状態だったので当然ながら例外だ。それに全員王都住まいだったため、大戦で真っ先に死に絶えている。親しかった知人らも大半が戦乱で先立ち、また生き延びたとしても殆どが寿命を終えているだろう。
ティリオの他にはもう、「リラ」の血を引く者も名をしっている者もいない。
そのことが、無性に寂しかった。
「……やはり自分は、子孫を残しておくべきなのでしょうか」
《しそん?》《おうさまのようせい、しそんをつくるの?》
「……はい」
《でも、できるの?》
「……」
旅人の顔に、自嘲が浮かぶ。
「風に、嘘はつけませんね」
端麗な唇は、なんてことない事実を語った。
「出来るわけがない。自分は、リラ以外の女性は女性と思えないのですから。もうこの先、子孫など残せないのです」
こころばかりか、からだも。もはや、あのひと以外は愛せない。それが、永き旅のさなかで悟った事実のひとつだ。
(最愛を識ってからでは、もう遅いのだ)
父がそうであったように。
・
・
・
「……そろそろ、発ちましょうか」
花束を置いて手をあわせ、暫く経ってのち。ティリオはゆっくりと立ち上がる。《またきてね》《きっとだよ》と囁きながら髪を擽る風精たちに微笑み、そっと布を顔に巻きなおした。
(だいぶ風向きが変わってきた)
湿った大気の流れが肌に吹き付けている。空は晴天といったところだが、雲の動きが速い。間も無く夕立が襲うだろう。その日暮らしの旅人であるが、雨露をしのげる場所には早々に入りたい。
やや早足で街道を戻りながら、青紫の宝石は軽く細められた。空に流れる雲と同様、うっすらとした予感があったからだ。
(もしかしたら、嵐になるかも)
ふわり。石碑にいたものとは違う風の四元精が、ティリオに近づき囁いた。
《ひがしから、おおきなかたまりがやってくる》
あらしに、なるよ。
「……ありがとうございます」
礼を言ってかの精霊と別れ、訝しげに独りごちる。
「おかしいですね。アルカリー国に低気圧の中心はこの時期、まだ訪れないはずなのですが」
涼しげながら、ぴり、とどこか警告を発するように鼻先を掠める風。それは、何かが変わる予感に満ち溢れていた。




