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我輩は騎獣である  作者: KEITA
第五章
57/127

前半はまたもや別視点


「今日の夕方からは外実習で、一泊してくるわ。大学近くの自然区域B地点、そこにキャンプ場があるから」

 がさごそと手際よく、簡単な宿泊品を用意していく後ろ姿。

「翌日の午後になってから大学に戻って、ツナギを着替えてから帰宅ってことになるから。大体――そうね、」

 居間にかかっている古い時計を覗き込み、確認する。

「帰りは夕方か夜になるでしょうね。夕飯はもしかしたらいらないかも。先に食べてて」

「わかった」

 聞き分け良くそう返しつつ、内心はちょっとがっかりする。せっかく育てている野菜がいい案配なのに。それをふんだんに使った料理を大切な家族と一緒に囲むのが、目下の楽しみだったのに。彼女は外での付き合いがあったりするので平日はなんとか我慢できるとしても、休日くらいは一緒にご飯を食べたいと思っていたのに。

「じゃあ、いってきます」

「いってらっしゃい。……」

 荷物を抱えた小柄な後ろ姿を見送って、見えなくなってからしょぼんと項垂れた。

(今週末も、ひとりかあ)

 寂しいけれど、仕方ないと自分に言い聞かせる。



 家に入って、朝食の食器を片付ける。お湯の中に落として汚れを流し、無香料の洗剤でごしごしと洗いながらワカバはそっと溜息をついた。

(ベシャメルソースもひとりで食べきっちゃうことになるのかな。せっかくパスタ用とグラタン用に沢山作ったのに)

 二人分のコップを濯ぎながら、唇が尖る。

(オレンジジュースもわざわざ絞っておいたのに。ウチには冷蔵庫無いから生もの保存できないのがヤだな)

 フォークやスプーンを水切り籠に挿して、台に滴った雫を拭き取る。ちら、と脇に置いてあるボールの中身に目がいって、ますます溜息が洩れる。今朝、早起きして摘んできたものがこんもりと積まれているからだ。

(……せっかく超自然区域にまで脚を運んで、たくさん採ってきたのに)

 普通のスグリとは一味も二味も違う、蜜のように甘いスグリの実。それはワカバが本性の姿でしか採りにいけないような奥まった地域に生えている。しかも年中無休で実をつける辺り、特殊なものだ。ただし、この時期に採れるものは暑気のせいかあまり日持ちしない。

(一部はジャムにするとして、)

「涼しいところに置いとけば、明日の夜までは大丈夫かな」

 そんなことを考えつつ、台所の裏口から外に出た。洗い桶で衣服を洗濯して、干すためだ。水道は並み以上に通っているが引かれている電力は微弱なので、最低限の灯りしか使用できない。冷蔵庫や洗濯機といった家電を使うとそれだけでヒューズが飛んでしまうのだ。一般家庭よりだいぶ旧式の生活を余儀なくされているのは仕方ない。

 ワカバが大切な家族とふたりで生活しているこの家は、人間の集落から離れた箇所に建てられている。周囲には近所らしい家も店も近代的な施設も見当たらない、変わりに深く豊かな自然環境が取り囲む孤家だ。この国において人型のワカバが過ごしやすい最低限の霊力環境が、そういった場所だからだ。

 自然区域のほぼさなかに位置しているので、周囲は霊気が漂っている。それでもワカバにとっては物足りないともとれる量だ。人型であるから普通に暮らせているのであって、本性の姿に戻ると未だに楽に動けない。からだの奥底が本能的に叫ぶのだ、ここは霊気が薄い、と。

 でも。

(とうさまが、わたしとテスのために建ててくれた家だし。自然区域内で、しかもテスの大学や大きい集落にも近くなのにあんまり人が訪れないような場所。わたしたちが暮らすうえで、これ以上条件が揃った棲家はそんなに無いから)

 多少の不都合は、我慢しなければならない。亡き家族の思いを無駄にしないためにも、今生きている家族を大切にするためにも。


● ● ●


 元々ワカバは、この人界に長く存在してはいけない種族だ。天界という、霊力で出来た霊力の世界にて暮らすべき生き物。なのにどうしてか人界にいて、こうして人間に混じって生活をしている。そのわけはワカバ自身、まだ把握しきれていない。原因を知るであろうものが、ここにはいないからだ。

 ワカバの育て親によると、ワカバの母親はワカバを出産直後に死亡。どうやらそれが死因ではなく、その前に大怪我を負っていたせいらしい。遺言として、ワカバを「てんにかえして」欲しいと望んだそうだ。詳しいことは不明だが、彼女が人界に我が仔を連れてきたことは本意では無さそうだ。そう、ワカバは本来なら、ここにいるべき存在ではないのである。

(でも)

 ワカバは見つけてしまった。人界に存在すべき、理由を。

(テスが生きている限り、わたしは人界にいたい)

 彼女がいるだけで心身が毅くなる。その純然たる事実があるから。そして何より。

(テスのことが、大切だから)

 大切な家族の傍に、出来る限りいたいのだ。いつか彼女が自分を必要としなくなるそのときまでは、彼女の帰る場所で在りたい。今自分がいなくなってしまったら、彼女はたった独りになってしまうから。

(テスが家族を新しく見つけるまでは)

 ワカバは、テスだけのワカバでい続けるのだ。そう決めている。そしてそれは、ワカバ自身の望みとも重なる。大切な存在と過ごす幸せを出来るだけ長引かせたい、自分勝手な望み。

(それで両方幸せになれるなら、「いっせきにちょう」だもんね)

 そういうことだ。

 だから今日も、ワカバは大切な家族のために動き続ける。


● ● ●


「いい天気」

 物干し竿に洗濯物を干して、ひと段落。この地方特有の涼風がシーツの合間を吹き抜けてゆく。ワカバの若草色の髪もふわりと靡いた。

(ずっと髪の毛伸びないのも、鬣と同調してるせいなのかな)

 人型での容姿には疎いワカバでも、手入れを欠かしていないのがこの長い髪である。腰辺りまである若草の色。神経は通っていないのに、一本一本がまるで生きているかのように柔軟で丈夫だ。抜け落ちたことも切れたことすら無い。人型に初めて変化出来るようになってから、容姿も髪の長さも変わらない。

「……」

 空を見上げた。真夏の晴天が広がっている。わずかに、小さな雲も漂ってはいる。

 額の上に手をかざした。暑いというわけではなかったのだが、ちょっとくらりときたのだ。日陰に入っても頭部に残る重みは取れない。そればかりか、段々身体中が重くなってくる。

(こういうときは、本性に戻っちゃいけないんだよね)

 そのサインが、人型時に時折訪れる。熱も無いのに、妙に全身がだるくなるのだ。それはやはり人型に変化出来るようになった頃から、ほぼ変わらない周期でやってくる。

「――もうそんな時期、か」

 しょっちゅうではないし、生活に支障が出るほどでもない。しかし必ずといっていいほどこうなるのだ。癒しの霊力を全身にあててみてもやはり治らない。

 家族に相談したらこう言っていた。

『ワカバも雌っていうか、女だから。生理じゃないの? 要は妊娠するために必要な処置を、からだがしてるのかも』

 血の臭気を厭うワカバのために毎回防臭対策を徹底している彼女には、いつものことながら苦労をかけている。そしてワカバは同じような状態に陥ったことは無い。

『ホラ、ワカバは霊獣だし。人間とは違うのよ。天界の霊獣ってのは生粋の精霊族にしちゃ珍しく、繁殖方法は人界の獣と一緒だって聞いたわ。だから、そういうのだってきっとあるでしょ』

 他に考えもつかなかったので、ワカバもそう自分を納得させることにした。けれど。

(雌の生理現象なんて、無ければいいのに)

 少し、心細くなるのだ。だって周囲の環境には同族がいないから。

 他の霊獣と話をしてみて、どうやら「そうなる」のはワカバだけではないと知り安心はした、けれど、ワカバほど人型と本性との差が大きいものはいないようだった。人界の霊獣は天界の霊獣と同じく人型に変化出来る異能を持つが、生理現象においては変化した形体とほぼ同様となる。つまり、人間と同じように月経が訪れるのだ。

 しかし、ワカバにはそういったものが無い。代わりにあるものは。

(人型でならだるくなる程度だけど……本性だと、『そうなる』んだよね)

 ワカバ自身、恥ずかしくてたまらない。だから、テスにも詳しく説明していない。身体がどうしようもなく火照って動けなくなるのだ、とだけしか言っていない。

(三年に一度だけ。人型だと大体一週間で終わるからどうってことないけど。この日だけは、本性に戻っちゃいけない。だって――)

 普段はなんとも思っていないのに、急に同族が恋しくなるから。特に、自分とは違う性の雄に逢いたくなって。そして……

「――っ」

 連想したもの。生え際まで赤くなり、ワカバはぶんぶんとかぶりを振ってその思考を追い出した。いつまで経ってもこの結論には納得がいかない。

 だって。

「……つがいなんて今は求めない、要らないはずなのに」

 その決意が、脆くもあっさり崩れそうになるからだ。



 洗濯を終えたら、次は畑作業。小さな家の周囲と少し離れた敷地にて、様々なものを育てている。一般の家庭菜園と称するには大きめの規模だ。まさかこの一帯、すべて見た目が華奢な少女ひとりで(しかも近代機具無しに)世話しているなど、誰も思わないだろう。


 さほど贅沢をしない質素な女二人の生活とはいえ、親が遺してくれた財産と片方の稼ぎ――テスは大学入学の際首席だったので学費が免除されており奨学金もおりている――だけでは到底暮らしていけない。テスも時間が赦す限りアルバイトをしているが、ワカバも内職をしている。それが、自家製の農作物の売却だ。購入者は大体決まっていて、近い集落に棲む人間の一部である。

 人間の界隈において、自然区域内で育てた農作物というものはそれだけで一種の箔がある。霊力豊富な環境で霊力の恩恵をたっぷりと受け育った野菜は、人間の界隈内で採れたものより栄養素が多いのだ。その内実に気づいた人間の市場では、「自然区域内及び近い環境で育てたもの」の値が釣り上がった。そのため一昔前までは、普通の野菜がさも霊力豊富な野菜であるかのように宣伝され売買されるという、偽証作業が横行していた。あまりに詐称物が氾濫したので商品価値が落ち値が下がるという結果に繋がり、霊力云々という宣伝は意味の無いものとなった。今では、市場の多くがそういったもの関係無しに、平均値で売買されている。

 ただ、少しでも栄養価の高いものを効率良く手に入れたい、なんとしてでも欲しいと考える人間は沢山いる。例えば、食欲の無い病人を家族に持つ者だとか、身体の弱い子を健やかに育てたい親だとか、身体が弱くなった親に孝行したい子だとか、はたまた長生きしたい単なる金持ちだとか。彼らが求めているのは、はっきりと保証のある「自然区域内で育てられた」野菜だ。多少値が張っても構わないという、断固とした要求がそこにある。

 そういった要求ニーズに応える役割として、自然区域内で育てた作物を直接売る仕事があるのだ。ただ、売り手と買い手の信頼関係なしには成り立たない市場であるので、売る際にははっきりとした「霊力野菜」の証拠か信用のおける仲介者かが必要である。ワカバの育て親が生きていた間は、国家公務員であった彼が保証人になってくれていた。

 実際にワカバの育てた野菜は抜群の栄養素を持っていたので、育て親が亡くなったあともずっと、お得意さんは離れずにいてくれている。特に、一般家庭よりやや富裕な層はそういったものに金の糸目をつけない。ワカバが主に取引している相手はワカバ自身も気に入ってくれているので、長年に渡って高値で買い取ってくれている。なんでも「ワカバちゃんみたいなカワイイ子が作ってくれたってだけで、もうイロイロ天にものぼる心地」なのだそうだ。

 ワカバ自身、人間の顔云々は見分けられる程度であり、さほど重要だと感じてはいない。自分の人型外見は良い意味でも悪い意味でも目立つことぐらいはわかっているので、それを弁えて行動する程度だ。

(でも、この顔が家計の役に立つんだったら)

 それを利用してもいいかなとは感じる。だから、多少雄の目で見られることがあったとしても我慢しているのだ。大事な顧客だし。

 テスは例にもよって彼を毛嫌いしている。「あのセクハラ成金親父、金づるじゃなかったら顔も見たくないんだからね……ッ」と見ていないところでしょっちゅう憤っている。その成金親父から、片方がお嫁に行ったら寂しかろう、共に食わせてあげるから屋敷に来ないか、と誘われているせいだ。断然その気は無いし、彼の視線には見るからに雄の欲望が透けているので、テスもワカバもカドが立たない程度に断り続けている。かの人間は根が悪い人間ではない、しかしさすがに、つがい持ち――妻帯者であるのに、他の雌に色目を使うのはどうかと思う。未だ人間のそういった感覚というものには慣れない。

 ともあれ。

 内職として、家計の助けとして始めた野菜栽培であったが、ワカバ自身植物を育成するのが楽しくなってきたこと、いっそ家庭食用分もそこで全部作ってしまえばいいこと、売る対象は何も金持ちだけに限定する必要は無いこと、一般家庭相手でも買う者は買うので、出来るだけ多く作ったほうが更に効率がいいことなどが判ってきた。なのでいつの間にやら家庭菜園は家庭菜園の規模を超え、ここ十年で、個人経営の農家が保持するような専用畑が家の周囲に広がることになったのだ。霊気が常に漂っているので植物の発育は異常に良い。その恩恵に助けられ、栄養豊かな大地の恵みをさほど手間もかけず得ることが出来ている。世話している少女が人外で、見た目よりずっと逞しいせいもある。

 そういったわけで、絶世の美少女たる農婦は今日も大小の収穫籠を重ね合わせ、それを携えて畑へと繰り出すのだ。


 広い畑を見回って、雑草をちょこちょこと抜いたり葉に付く虫を確かめたり。ちなみに害虫を発見したとしても、ワカバは性質上生き物を意識的に殺すことが出来ない。ので、せいぜいが離れた草むらにそっと放る程度だ。そんな気弱な害虫駆除(?)を終えたあと、熟れているぶんの収穫に移る。

「ズッキーニ、キュウリ、ナス、それからパプリカっと」

 どれも今が旬の夏野菜だ。広めの野菜畑を歩き回ってそれらを採取し、手にしている籠に放り込んでいく。太陽の光を照り返して艶やかに光る夏の恵みは、どれもこれも瑞々しい重みを持っている。

(午後の販売分確保。それから)

「うん、これだけあればトマト煮作れる」

 ほっそりした腕で野菜籠を持ち、少女はにっこりした。誰も鑑賞者がいなかったが、夏野菜を腕いっぱいに抱えて微笑む美少女というものは、それだけで絵になる光景である。

(本当は夏バテじゃないけど……気分的に元気出したいし。たっぷり作ってたっぷり食べて、だるいの忘れよう)

 収穫物でいっぱいになった籠を畑の脇に置いてあった一輪車に載せ、ごろごろと転がしながら歩き出す。華奢な少女がどう見ても重量のある野菜の山を軽々と運んでいくその姿は一種異様であったが、ここ十数年では馴染みの光景でもある。

「お昼はパスタとそれにしよっと」

 ふんふんと鼻歌混じりに独りごちる。途中で小規模に植えてある青草と香草とを引き千切り、野菜の山に載せてから我が家に戻った。

(元の姿に戻れないから栄養上乗せ出来なかったけど、まあいいよね。わたしひとりだし)

 土の付いた野菜を水洗いしながら、その瑞々しさに更に鼻歌が洩れた。――美少女の表面的な愛想に鼻を伸ばしているどこかの成金は、彼女が自分の家族に食べさせるぶんだけ自身の霊力を込め、更に栄養素を高めているとは知らない。知ったところで彼女は家族以外の人間相手に同じ手間をかける気などさらさら無い、なので知らないほうがいいだろう。

「だって、とうさまやテスと同じくらい尽くしたい人間っていないもん」

 そういうことなのだ。



 先日収穫したトマト、今日採った夏野菜。この地方特産の万能麦だけを使用した麺。それで作ったパスタとラタトゥーユ、冷製ポタージュは、我ながら会心の出来だ。ワカバは食肉類及び卵を食べることが出来ないので、いかにそれ無しでも美味しい料理を作れるかに凝っている。幸いなことに食用野菜はほぼすべて自家製で賄えているのは助かっている。たまの生果物や嗜好甘味類も、ワカバが本性の姿で自然区域奥に分け入れば、ちょっとしたものが手に入る。食費は穀物類と調味料分だけといっていい。食物を自力で得られるという達成感は、人間も獣も同じだと思う。

(今月も範囲内に電気代抑えられたし。この分ならテスの結婚式費用もちょっと貯めることが出来るよね)

 主婦及び母子家庭の親のようなことを考えながら、美少女はほくほくと夏野菜を頬張る。見た目より中身が老成しているのが、ワカバという少女だ。そして見た目より大食漢でもある。

 朝作ったベシャメルソースは、二人分がすでに半分ほどになった。野菜で嵩増しした麺にたっぷりかけて、あっさり平らげたせいである。一輪車に山と盛られていた作物も、ワカバひとりで三分の一ほどが消費されている。本気になれば人間の食事十人前くらいは一度にいける、とワカバは思っている。実際に実行に移すとテスを含め周囲の人間は引くが。

りぃん。

 玄関の呼び鈴が鳴ったのは、昼食を食べ終えた直後である。

「あれ? ……もうそんな時間だっけ」

 皿の端に残った自家製オリーブオイルを拭き取りながら、ワカバは首を傾げた。居間の時計を見ると、時刻は午後の一時前。予定は三時だったはずだ。

(イワンさんも忙しいから、早めに着いたのかも)

 そそくさと立ち上がる。自然区域さなかに在って集落との道のりもやや険しいこの家は、滅多に来客は無い。しかし、週あたまと週末の午後にかけては定時に決まった人物が訪れることになっているのだ。それは、ワカバの育てている野菜の買取手である。本日来る予定なのは一般客のほうで、集落にすまう老夫婦のお孫さんだ。おじいちゃんおばあちゃんに少しでもいいものを食べて欲しいという、祖父母孝行な青年である。

 すぐに玄関に降り、扉に手をかけて開けようとし――ふと動作が止まった。

りぃん。

 あまり間隔を明けず、また呼び鈴が鳴ったからである

「……」

りぃん。

 もう一度、呼び鈴が鳴る。そして更に、もう一度。

りぃん。

(――違う。こんなに何度も鳴らすなんて、イワンさんじゃない。テスでもない)

 彼女が帰ってきたのなら、すぐにわかるはずだ。だって自分達のあいだには、見えぬ絆があるのだから。扉一枚を隔てただけの近い距離なのに、その気配は微塵も感じ取れない。だとしたら、誰だ。

りぃん。

 ワカバの全身の体毛が、ぞわ、と逆立つ音がした。こんなに頻繁に呼び鈴を鳴らす客人を、自分は知らない。夏季休暇時に訪れるテスの友達だって、こんなに苛立ったような鳴らし方はしない。テスだって、誰か来るなら言っておくはずだ。

りぃん。

(だれ)

 この扉の向こうにいるのは、一体。


りぃん。




……どんっ!


 不意に外から打ち鳴らされる、扉。びくりっとワカバの身体が跳ねた。そして。


「おい、いるんだろうッ出て来いよ、人型になったイヴァ!!」


 響き渡った男の声に、ワカバは声を無くした。



「『イヴァ』……?」


 濃褐色の釣り目が、軽く見開かれた。

「うむ。我輩の種は、精霊族内ではそのように呼ばれていることが多い」

「へえ」

 くれなずむ夕焼けの中、我輩ら三人は連れ立って歩いている。背の高い男二人と背の低い女一人。彼女の案内で、彼女の自宅へと向かっているのだ。我輩と同じ天の精霊族、そしてどうやら同種らしい獣の雌と逢うために。

「天の最上層におわす獣が始祖、それは人界においても有名であろう」

「ええ。『始祖霊獣』でしょ、天界霊獣すべての祖先だっていう。超古代にその一体が人界に降りてきたことがあったから、人間の文献にも残ってる。他にも色々伝承に記録されてるくらいだから、名前程度は誰でも知ってるわ」

 利発そうな光を瞳に浮かべ相槌を打ってくれる人間の雌、いや我が騎者の伴侶どの(予定)。彼女は見かけ同様とても利発な性質らしく、こちらの言うことにすぐ応えてくれる。持ちうる知識も「霊力総合学」を学ぶ現役らしく、豊富だ。

「その内の一体が名を、麒麟という。我が一族はその末端に属する種だ」

「麒麟……なるほどね」

 健康的に陽に焼けた頬、それに手を当てて彼女は嘆息した。

「特徴が似てると思ってたの。ワカバの本性は角と鬣があって、色々な動物を混ぜたような見掛けだから。それに、お肉とかお魚とか一切駄目なの。卵も食べられないのよ」

「始祖より汲む流れゆえ、我が一族の性質は流血をこの上なく厭う。それに繋がる食物及び臭気はおろか、気配や争いも極力遠ざけんと欲する」

「そういうことだったのね」

 うんうんと頷く茶髪の彼女は、いつの間にか我輩に対しても自然と他人行儀さを取り払ってくれている。最初の印象通り、柔軟な気質を持っている娘だ。騎者どのも普通に接すれば、普通に仲良くなれたであろうに。

「でも、精霊学の資料集や霊獣について書かれた文献にも、『イヴァ』っていう名称はどこにも無かったわ。保護官やってたお爺ちゃんも人界霊獣については物知りだったけど、やっぱりワカバみたいな種は人界のどこにもいないから知らずに終わったみたい」

「たりめーだろ」

 不意に、横合いから騎者どのが口を出した。ぶっきらぼうな声音。前を向いたままの緑眼に、夕日が映りこんでいる。

「『麒麟きりん』自体はメジャー中のメジャーな瑞獣。でも基本天を拠点としてる生き物だから、その内わけまではさすがに人間さまの知る範囲じゃねえし」

「そうね。でもまさかワカバがそれだったなんて、予想していても驚くわ。だってあの麒麟よ? 創生期以前に人界を駆け回って自然現象の源をつくり、すぐさま天に駆け上がったっていう伝説の生き物の……御伽噺でしか聞いたことなかった」

 ほうっと溜息をついて遠くを見やる娘を、これまたほうっと見惚れるように凝視する騎者どの。話してゆくうちに段々と言葉のカドがとれてきた彼であるが、未だに態度はこういった案配だ。そしてこうやって彼女を盗み見ている。話すときは目を合わせない癖に、至極わかりやすい若者である。

「でも、間違いないわ、多分。ワカバは『イヴァ』よ」

 こちらを振り返り、濃褐色の瞳がふわりと笑む。気が強そうな細面が解ける瞬間は、第三者からしても目の保養だ。隣を歩いていた緑の瞳が、喉を鳴らす音がした。

「だって特徴が一緒だし、何より人型がリョクさんみたく超美け……すごく、雰囲気が似てるもの」

「左様か」

 頷きながら、彼女を凝視するあまり近くの「でんしんばしら」に激突しそうになっていた若者の腕をさり気なく引いて、方向転換をしてやる。恋というものは、危機回避能力をも一時的に麻痺させるらしい。今の騎者どのは、騎者でなくなっている。雌に見惚れるただの雄である。

「きっとワカバも喜ぶわ。生まれてからずっと、同族に逢ったこと無いって言ってたから。たまに心細そうにしてるから、気になってたの」

「左様か。我輩も、かの獣――ワカバどのに逢うのを、楽しみにしている」

 生まれ故郷の天においても、家族以外の同族には易々とは出逢えない。雄ならつがいを群れの中で見出せなかった場合は部分的に遠出をすることが多々あるが、雌はそういったことをあまりしない。我輩も、独り立ちをしてからやっと数頭とあいまみえた程度だ。ゆえに人界で同族に、しかも雌に逢えるということは胸中を少しばかり躍らせる。

「楽しみだ」

「楽しみね」

 微笑みを交わしながら、開いていた「まんほーる」に脚を突っ込みそうになっていた若者の腕をまた、引いてやる。取り敢えず、早くかの家に着きたい。同族に逢えるという高揚のせいもあるが、このままでは我が騎者が大怪我をしてしまう。



 かの家に辿り着いたのは、夕刻を少しばかり過ぎ去った頃合いだ。紅色の太陽がほぼ沈み、宵闇が周囲をうっすらと漂い始めている。

「見えてきたわよ」

 人間の集落にて「ばす」と称される乗り物から降り、歩くこと一刻ほど。森林を分け入った箇所にあるそこは、家宝の調整者どのの邸宅と同じく、周囲を農作物の畑に囲まれた小さな家であった。

「……灯りがついてないけど、もう寝ちゃったのかしら」

 そんなにあのコ、早寝じゃないのにね。そう苦笑しながら家の扉を開こうとした娘の腕を、傍らの若者がぐいっと引っ張って止めた。

「え」

 戸惑ったように彼を見上げる濃褐色の瞳、それに構わず、緑眼は、険しい光を帯びて扉を見つめる。そして、一言。

「リョク、」

「――うむ」

 我輩も、気づいていた。

「テスどの。かの家には、貴殿の他はワカバどのしか滞在していないと存ずるが」

「え、ええそうだけど」

「来客の予定は」

「昨日の午後にちょっとだけ。でも、すぐに帰ったはずよ」

「左様か」

「いきなり、なんなの?」

 まだ把握がつかめていない彼女。

「下がってろ」

「は?」

 彼女を背後に押しやり、騎者どのは扉を開く。思った通り、鍵はかかっていなかった。


がちゃっ。


 開いた先、民家の内部は荒らされていた。



「――ッ」

 足拭き用の絨毯が捲れあがっている。そして玄関脇に飾られていただろう鉢植えが落ち、割れて中身の土が飛び散っていた。廊下に続くは複数の足跡。家の奥から、何かが腐ったような匂い。窓は開いたままだった。

「なっ」

 人間の娘は背後から家を覗き込み息を呑んだ。

「ど、泥棒?! ――ワカバっ!!」

 青くなり、家の中に駆け込もうとする彼女。それを押しとどめ、騎者どのは低く言う。

「先に俺とリョクが入る。お前はここで待ってろ」

「でもッ」

 娘の細い両肩を掴み、若者は言い聞かせるように囁く。

「待ってろ。心細いようならこれ握ってろ。鈍器にゃなるから」

「わ、わかった」

 長剣の入った包みを持たされ、娘はそれを抱きしめて震えながら頷いた。

「騎者どの、我輩はこちらを見る」

「おう。俺はこっちを見てくる」

 廊下に散らばる陶器の残骸。それを辿ると、台所らしき空間に繋がっている。腐った匂いはそこから漂ってくる。

「――これは、」

 床と台の上にぶちまけられていた、加工食物。白い色のそれは、作りたてならばさぞや美味そうな匂いを発していたであろう。落ちていた丸い入れ物から零れ落ちているのは赤い色の加工食物。具材だと思われる野菜、その切れ端が流しの隅に置かれたままになっている。そのどれもが夏の暑気にやられ、異臭を発していた。床には泥付きの複数の足跡。

(まるで、ここで乱闘があったかのようだ)

 周囲に散らばるのは割れた陶器の欠片。金属の匙や「ふぉーく」。そこに触れると、わずかな霊気。

 そして。

(これは、蜜スグリか)

 一部にしか自生しないかの植物が、無事だった容器の中に詰まれていた。天か、そこに繋がる超自然区域でしか蜜スグリは実をつけない。やはりというか、精霊族の気配がする空間である。

「リョク、見つかったか」

「いや」

 台所にも洗面所にも風呂場にも居間にも、奥の部屋にも。かのものの姿は無い。荒らされているのは玄関と廊下、台所だけのようだ。

「ど、どうなってるの」

 玄関の扉の前で長剣を胸に抱え、震えながら呟く娘。頬が真っ青になり、濃褐色の瞳が潤み始めている。

「ワカバは、どこに行ったの……!?」

「落ち着け」

 騎者どのが震える細い肩に手を掛ける。それを振り払い、娘は叫んだ。

「落ち着けないわよ!! ――だって、わ、ワカバがいないのに、ワカバがっ」

 がたがたと震え、涙声で行方が知れない家族を呼ぶ娘。混乱の極致にある彼女を安心させるように、騎者どのはゆっくりと言う。

「いいから落ち着け。今パニクってもどうにもならん。電話はあるか?」

「ある、けど」

「よし。今から警察呼ぶから。リョク、家の中のもんは動かしてないよな」

「霊気の有無を調べた程度ゆえ、物体を動かしてはいない」

「おう」

 それから「でんわ」を使用するため騎者どのは家の中に再度引っ込み、我輩と彼女は玄関脇にて待機する。人間の娘は、騎者どのに持たされたままの長剣を胸に抱きしめ、俯いている。その身体はやはり、細かく震えていた。

「どうしよう、どうすれば。ワカバ、ワカバが……ッ」

「……テスどの、」

 なんと言えばよいのか、わからない。彼女にとっては、棲家が他者に荒らされたうえにたったひとりの家族までも行方不明になってしまったのだ。我輩らにとってもあまりに突飛な事象が起きてしまったので、対処が思いつかない。

「空き巣に入られる心当たりは、あるか」

「ないわ。ウチなんて、お金無いのに。貯金だってギリギリだし、家にはなんにも置いてないのに」

 人間の界隈において、金銭や貴重品を狙う泥棒・空き巣という犯罪が往々にしておこなわれることは知っている、しかし、こういった見るからに周囲を自然区域に囲まれた家というものは、内蔵している物品もあまり無いことが常だ。自給自足の生活をしている人間というものは、金銭面において豊かでない輩が大半だからである。

 なのに、彼女の家は荒らされてしまった。

「ワカバは、どこに行ったの。どこ行っちゃったの」

 いや。

「わかばぁ……ッ」

 かの精霊族がいなくなっているという時点で、これは単なる空き巣ではない。



「呼んだぜ、警察」

「うむ」

 ややあって、家の中から騎者どのが出てくる。そして、剣を抱きしめたまま泣いている彼女を見つめ、一瞬唇を噛み締めてから口を開いた。

「――警察が来るまで最低一時間はかかるらしいから。取り敢えず、家ん中に貴重品とかは置いてるか?」

「置いてない、なんにも。なんにも無いのに……ッ」

 ほろほろと、その頬から涙が滴る。緑の瞳がそれを見て、ぎゅっと顰められた。鞄をがさごそと探ってくしゃくしゃになった布を取り出し、ぐいと押し付ける。

「ん」

「……」

 受け取って、それを頬に押し当てるのを確認したうえで、騎者どのは我輩に言った。

「リョク、霊気が残ってるか調べたんか」

「うむ。台所に生き物の痕跡が多かったゆえ、そこに落ちていたものに触れて確かめてみた。食器にワカバどののものと思われる霊気が、わずかに残っていた」

 かのものの名に、俯いていた娘が反応する。

「ほん、とう?」

「うむ」

「リョクは精霊族だかんな。同じ精霊族で属性がそんなに離れてないのなら、ある程度霊気を辿れるんだ。近い距離なら思念で会話も出来る。――待てよ、」

 騎者どのの緑眼が、そこで思いついたように閃く。

「なあリョク、家の外にもワカバちゃんの霊気が残ってないか、それは確認出来るか?」

「不可能というわけではないが。しかし、そのものが触れた物品か、そのものの一部が無ければ追跡するのは難しい」

「うーん。時間かかりそうだけんどちょくら探してみるか。ワカバちゃんの形跡を」

 騎者どのがもう既に暗くなりかけている周囲を見渡し始めた、その矢先だった。

「ね、ねえ」

 人間の娘が、我輩らに声をかけた。振り返ると、彼女は泣き腫らした顔を懸命に拭いながら、掠れ声を振り絞る。

「ワカバの、けいせきって。髪の毛とかでもいいの?」

「……うむ」

 ただ、霊獣の人型というものは本性と違い、体毛が抜け落ちることなど、滅多にない。特に我が一族の場合、鬣と同調している髪は全身の中でも丈夫な部分だ。抜けることはおろか、切れることもしないはず。

 しかし。

「これ。玄関に、落ちてたの」

 彼女が差し出したのは、一本の体毛だった。若草色の、長い髪。我輩のものと、同程度の長さをした。

「ワカバは、普段髪の毛抜けたりしないのに。いっぽんだけ、落ちてたの」

 それは。

「だから――きっとこれは、ワカバが自分から落とした、ものだと思う」


 我が同族による、何よりの目印だった。



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