若葉が萌えいづるとき
ふわふわと、柔らかくたなびく若草色の髪。
帽子を深く被り、長い髪で顔周りを隠すようにしているが、漂う雰囲気が可憐でどことなく目を引く少女である。細々とした日用品、それを紙袋いっぱいに詰め込んで人間の街を歩く彼女の姿は、ここ十数年でお馴染みだ。
不審人物ではないし早歩きで街の出口へと向かっているので呼び止める者は少ないが、それでも空気を読まない輩は多少なりとも存在する。
「――ねーそこのコ、ちょっとお茶しない?」
たるい口調でかかる声。無視して歩く彼女に痺れを切らし、その行き先を塞ぐようにして前方に出る。
「ねえってば、」
ふわん、と髪を掻き分け、仕方なく前方を仰ぐ少女。深く被った帽子の隙間から、髪と同色の瞳が瞬く。
「……!」
その顔をちらっと見た者が固まったり、あるいは顔を真っ赤にさせたり、口を意味無く開閉させたりして挙動不審になるのも、いつもの光景だ。
気を取り直して(あるいは余計に燃えて)ナンパを続けようとするものの、断固とした断りに遭う。さり気なく細い身体を捕まえようとしても、巧妙にすり抜けられてしまう。そうしていくうち、彼女はそのかんばせにうっすらと別の表情を乗せた。
破壊力抜群の微笑みである。耐性の無いものなら、呆けて呼吸を忘れるくらいの。
「ごめんなさい、ちょっと急いでるので」
ふんわりとした声できっぱり断りをいれ、歩き出す少女。ナンパ男がはっと気づいた際にはもうその場に彼女はいない。
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土の黒と、新芽の緑が対比で目に鮮やかだ。
「……ねえ、テス。この植物ってなんていったっけ」
植木鉢片手にそう呟くと、学部でも優秀だと知られる才媛はすぐに応えてくれた。彼女の記憶の容量は至極多いのだ。
「聖丁香花だったはずよ。ある程度大きくなったら地面に植え直して育てる小木の一種」
「ふ~ん……」
ほうっと見つめる。土にちょこちょこと芽吹いている可愛らしい芽が、視線を捉えて離さない。どうしてだろうか。
「なあにワカバ、それが気に入ったの?」
食料品の入った袋を手にした少女が、中身を台所の要所に仕舞いこみながら聞いてくる。期間限定のおまけだということで市場から無料でもらった小さな種、それを撒いてみたら数日もしないうちに芽が出てきたのだ。
「うん。だってわたしの鬣……髪の色と同じだもん」
「そういえば、そうね」
ふわふわとした長い髪、それを摘んで新芽の近くに持っていく。やはり、同じ色だ。春に芽吹く若草のいろ。自惚れているわけではないが、この色はワカバにとって思い入れがあった。本性時の鬣と同調している人型時の髪も、手入れをするときは念入りになる。鏡を見つめるたび、同じ色を宿した瞳を確認するたび、こころが囁くのだ。この色を大切になさい、と。
「もしかしたら、ね、」
「ん?」
大好きな家族に、その考えのかけらを零す。
「わたしの一族にとって、鬣って重要なのかなって思うの」
「ふ~ん。まあワカバがそう思うなら、そうなんじゃないかしら」
食料を仕舞い終えた少女が近寄ってくる。
「テス」
ワカバは頬をふわりと喜色に染めて、彼女に擦り寄った。この人間の少女の近くにいると、それだけで気分が高揚する。そればかりか、普通の人間より鋭敏な身体がその高揚に包まれ格段に楽になるのだ。思えば、初めて出逢ったときから特別だった。
テスがまだ赤ん坊の頃、育ての親に引き合わされたその瞬間、こころとからだが歓喜に躍った。そして彼女を背に乗せた途端、それまで長くワカバを悩ませていた背の痛み痒みがぴたりとおさまったのだ。そして程なく自分の内に存在する生命力が大きく跳ね上がったのも感じ取った。行使出来る霊力も増大し、姿かたちを本性の四足から二本足の人型へと転じることも可能となった。それまで漠然と在った人界での不安すべてが解消され、テスという生命体がいるだけで自分はなんでも出来るのだと本能的に悟ることさえ出来た。
すべては、彼女と共に在れば。
豊かな胸にワカバを寄りかからせながら、彼女は慣れた手つきでワカバの髪を梳いてくれる。その感触が心地よい。うっすらと思う。ああ、わたしはこのひとのためならなんでもするんだろうな、と。
「しかし腹立つくらいイイ髪してるわね、ワカバ。こんだけやらかいのに枝毛一本も無いなんて」
「テスだって綺麗な髪の毛じゃない」
「あんたが言うと嫌味かって思うわよ。この絶世の美少女が」
「そうかなー」
大切なひとの腕の中で首を傾げる。ワカバにとって未だ人間の顔の美醜というものはぴんとこない。見分けはつくのだが、どうもそれは重要でないように感じるのだ。
「重要なのは中身だよ」
「それも嫌味に聞こえるわ。ムカつくから黙ってなさい」
ふん、と鼻が鳴らされる。ワカバのような容貌の「ひと」の身近な場所にいる人間として、多少思うところはあるらしい。隠さずにずばっと言うところが、彼女らしくもある。
人型のワカバの容貌は、人間の常識で言うならとても目立つ類のものだ。今はそれを弁え行動しているが、昔は大変だった。無自覚だった頃は、街に出ては注目の的となり、見知らぬ人間から声をかけられたり迫られたりし、あしらいも知らなかったので色々と苦労した。ひどい時は無理矢理どこかへ連れて行かれそうになったこともある。テスが比較的気が強く育ったのは、人間の常識に疎かったワカバを護ろうとしたせいもあるだろう。彼女が身を挺してくれたお陰で助かったことも多々あるが、つくづく無理はしないで欲しいと感じる。テスだって女の子なのだから。
「重要なのはやっぱりそのひとの性質だと、わたしは思うだけだよ。それと匂い。わたしはテスの匂い、大好き」
「はいはい」
頭上の声が、照れたようになる。ワカバの若草色の髪を梳く優しい指も、胸元から立ちのぼる物柔らかな香りも、ふんわりとした感触も。すべて大切だ。
思いのままにちょっと頬ずりめいたことをしていたら、頭上から呆れたような声が響いた。
「――それにしたってワカバ、あんたまさかオンナが趣味だってことないわよね」
「いきなり、なんなの」
突飛な話題にきょとんとする。
「この前の講義内容が霊獣のつがいについてだったの。霊獣ってのは色んな種があるけど、同性をつがいに求めたっていう例は今のところ無いんですって。でもワカバは天界の霊獣だから、もしかしたら珍種なのかと思って」
「何、それ」
くすくすと笑ってしまう。
「生憎、わたしはテスのことはつがいだとは思ってないよ。だって雌と生殖行為したいとは感じないもん」
「あんたってやっぱ、獣ねえ。馴染みすぎてたまに人外だってこと忘れそうになるけど、たまの物言いが『あー霊獣なんだなー』って感じるわ」
「当たり前だよ、わたしは人間じゃない」
「そうね。でも、だとしたらなんでワカバとあたしはこんなに相性がいいのかしら」
ワカバだけでなく、自分にとっても相性がいいのだと言外に云われ、思わず頬が綻んだ。
「わかんない。けど、テスを背中に乗せてるときが一番落ち着くから、きっとそれに関係あるのかも」
「ふ~ん。原因がわかったら、精霊学のレポートで発表してみようかしら。もしかしたら霊獣の新説発見!ってことになるわ」
「いいけど、勉強に夢中になりすぎないでよ。テスだってつがいが……ええっと、彼氏がまだいないのに」
「お黙り」
頬っぺたを抓られた。
ワカバの髪を梳き終わり、役割を交換しながら人間の少女は笑い声をあげた。
「ふふ、それにしてもある意味楽しみね。ワカバはどんな男を……いや、あんたの言い方なら『雄』ね。どんな雄を選ぶのかしら」
「う~ん、わたしはまだ、そういうものには興味ないかな。だから、今はいいの」
大好きな少女の短く切り揃えられた髪を丁寧に梳きながら、ワカバはふと卓上に目をやった。黒い土に深緑の芽が出ている小振りの植木鉢。そしてその脇で微笑むひとりの人間の顔を。
「わたしが今一番大事に思うのは、テスだから。テスがつがいを……結婚相手を定めるまでは、わたし自身のことはあとでいいの」
「またそんなこと言って。ドリスお爺ちゃんにそう遺言されたの?」
少女の瞳が、植木鉢と一緒に置かれた遺影をつられたように見る。ほんのりと視線に寂しさを滲ませて。
「ううん。わたしの判断。勝手な我儘だから、テスはその我儘を黙って聞かなくちゃ駄目だよ」
(だって、とうさまが亡くなってから、わたしはテスのたったひとりの家族なのだから。わたしにとってテスが大事であるように、テスにとってもわたしが大事であることくらい、ちゃんとわかってるから)
「本当に我儘ねえ」
「言ったなー」
少女達の笑い声が、小さな家に満ちてゆく。
植木鉢の若草が、柔らかく草の匂いを鼻腔に運ぶ。新緑を見守る視線は家の中から一人と一頭、そしてすぐ傍に立てかけられた小さな写真の中からも存在しているように思えた。
春の若葉が萌えいづる季節は、すぐそこまで来ている。




