四章・序/ある人間の負け惜しみ
さらさらと筆が紙面を擦る音が聞こえる。
蝋燭のほのかな灯り、それをたよりに書状をしたためながら女はふと窓際を気にする。燭台の周囲より他は暗闇が押し包む狭い室内、そこは女の私室ではあるが女ひとりのものでもない。
「眠れないのか?」
手は休めず呟けば、低い声で応答が返ってきた。
「……すこし」
「珍しいな、寝つきの良いお前が。何か怖い夢でも見たのか」
「そうではないのですが」
その美声が珍しく頼りなげに聞こえ、女ははたと手を止める。声だけではない、伝わる空気もどことなく違和感があったからだ。
「では如何した」
「……」
またも珍しく、今度は沈黙。しかし伝わる空気に違和感が強くなる。女は双眸を訝しげに瞬かせた。かの者は、そうとわかるほど心揺らしている。
女は手元に筆を置き、立ち上がった。持ち運び用の燭に火を移し、灯りを手にする。次いで窓枠に手をかけ、静かに開け放った。外は宵闇に包まれ星明りすら無いほどだったが、それでも確かな気配と存在感のある影がそこにある。手にした灯りを軽くかざせば、目に映るのは背の高い一人の男の姿。
真白の髪、真紅の瞳。
灯りを受け闇夜に立つその白皙はこの世のものならぬ神秘性があった。更に言うならここは重備な警護が張り巡らされているはずの場所であり、宵とはいえこうして私室のすぐ傍に現れるなど通常あり得ないのだが、女にとってはさほど驚くべきことでもない。なぜなら彼はそういう存在だからだ。
しかしここで女は目を見張った。常ならば、泰然としている物腰の主が見る影も無かったからである。
「泣いているのか」
「……済みません、朱里」
聞き慣れた美声はもはや完全に涙声だった。真紅の瞳は更に赤くなり色をぼやかせ、その双眸から激しく涙が流れ落ちている。それを拭おうともせず、男はふらりと窓際に寄ってきた。灯りが近くなると、よりいっそうその無残な泣き顔がわかる。
「翔?」
「朱、里」
名を呼ぶと、繊細な美貌がぐしゃりと歪む。ああ、と思わず手を伸ばす。平均より高い身長とはいえそれを更に上回る長身がすがりつき、ややふらついたがなんとか持ちこたえた。腕の中で嗚咽さえもらし、彼は派手に泣きだす。助けを求めるように女の名を叫びながら、まるで年端もゆかぬ幼子のように。
「……っ、朱里、あかり、あか、りぃぃいっ」
女は内心混乱していた。こいつが、こんな風に泣くなんて。出遭ってからだいぶ経つがこんな姿は見たことが無い。いや待て、一度だけあったか?
「一体如何した、何が……」
「ぼ、ぼくの、僕の」
「落ち着け」
ぽんぽんと広い背を叩いてやれば、男はしゃくりあげる。息を整え、彼は血を吐くよう、搾り出すように叫んだ。
「僕のつがいが死んだ……!!」
(……ああ)
男をしがみつかせたまま、天を仰ぐ。そこにいたはずの、彼のもうひとつの唯一無二を思って。
結局部屋まで招き入れ(夜半でもあるので)、それからひとしきり泣かせた。だいぶ長い時が経ち、ようやく男の鼓動が収まってきた頃合いに聞きだす。
「つがいとは、結ばれた矢先に天からお前を追い出したかの伴侶どののことか」
落ち着いた先も女から離れようとせず、細い肩に頭を預けたままの白髪がこくりと頷く。思い出したように震えるその麗貌に、例えようも無いかなしみがまとわりついている。
無言で、その頭を引き寄せ額を付き合わせた。
《後悔、しているのか?》
追い出されるまま人界に降りたことを。結果的につがいよりもこのわたしを選んだこと。心を引き裂かれながら、傍らに在るを望んだことを。
言葉無く問いかければ、また首が振られる。今度は否定の意だった。
《朱里は朱里。つがいはつがいです》
そこにはもはや、居場所に惑う弱き意思はどこにも無い。どちらも比べられぬ唯一無二であり、どちらも諦めたわけではないと。居場所が分たれているのなら、どちらかを選ぶだけだ。どこに居ても、想う心は変わらないのだから。
だからこそ、今こうしてここに在るのだと思念は伝えてきた。最愛の他者と魂の片割れ、自分は後者の居場所を選んだだけだ、と。
「……そうか」
切なくも嬉しく思う自分はきっと、悪い人間なのだろう。
額を離し、手にしていた巾で泣き濡れた顔をごしごしと拭いてやる。遠慮の無い手つきにも男は抵抗を示さず、されるがままだ。
「それで。天に帰るつもりなのか?」
「――いいえ」
布を離すと、かの麗貌はもうすでにいつもの表情だった。紅瞳はまだ潤んではいたが、毅さが戻ってきている。
きっぱりと、美声が言い放った。
「僕は朱里の傍にいたいのです。つがいの元へと還るのは、朱里が死んでからにします」
くくっと喉奥から笑いが洩れる。こんな時にこんなことを言う彼が心底面白かった。
「そうだな、わたしももう良い歳だ。命数はさほど無いゆえ、すぐ天に帰れるぞ」
男の若くすべらかな手を握ってやっているのは、皺の増えた初老の女の手だ。出遭ってからすでに四十の年月を越えている、さすがにもう若くない。男の姿は初見のときからずっと変わらないというに。
「いいえ、朱里はあと十年は生きてもらわないとなりません。この国の基盤は、まだ固まっていませんから」
「よくぞ言う」
憎たらしくも有能な相棒の頬を抓り、女王は立ち上がる。
次いでするりと音も無く立ち上がった長身に、彼女はあえて笑いかけた。
「さて、もう平気ならば明日に備えて休め。寝不足はいくらお前といえど毒であろう」
「はい」
来たときと同じく、暗闇に音も無く去ってゆく後ろ姿。すでに涙は乾き、いつものように背筋を伸ばした様子は泰然と落ち着いて見えた。そこにかなしみの残骸はすでに薄い。見かけよりも果断で切り替えが早い彼は、思い切り泣いたことで気持ちの整理をつけたのだろう。
かの者にとって引き離されたままの伴侶の死というのがどの程度影響を及ぼすのかは知らない、しかし衝撃は決して小さくないはずだ。いや、通常であればとっくに精神に異常をきたしているだろう。それほどまでに彼らの絆は深く強いことを知っている。
けれど、実際彼が狂わずいられるのは、他でもない、自分がいるからだ。
つがいとは別の唯一無二、それが「騎者」。
その精神的繋がりは呪縛に似ている。全てを失わせて尚、傍に居たいと思わせる心はいったいどこからくるのか。もはやこの強制力は、呪いの類ではないのかと悩んだこともある。
しかしそれらの杞憂を、男自身が一蹴した。「それこそが僕達にとっての『騎者』なのですよ」、と。
だから女は、騎者たる存在になるしかない。かの者が全力で信頼し、全てをさらけ出してくるのを受け止めてやるしか。その重さに時折慄きつつも。
悩みこそすれ、真の意味で苦と思ったことは一度も無かった。そこに付随する感情はただ単純なもので。
(お前の伴侶ほどではないが、わたしもお前が好きなのだよ)
だから、傍に居て欲しい。それだけのことなのだ。
しかし。
「……天に『帰る』ではなく、つがいの元へ『還る』などと言いおったな、あやつは」
ぽつりと呟いて、机上の書類に目をやる。蝋燭の寂しい火にゆらゆらと照らされた紙面がうすらと浮かび上がっていた。真白なそれにかの者をふと思い起こし、苦笑が洩れる。
「いくら騎者といえど、結局つがいには敵わないということか」
形ばかり悔しげに言葉を呟きながら、女の顔はひどく満足そうだった。
とある新興国の女王が崩御し、彼女の騎獣として名高かった白い麒麟が失踪する、丁度十年前のことである。
朱里・・・大国の圧制に苦しむ民を率いて独立した、東大陸東端の新興国初代女王。若い頃出逢った白い麒麟を相棒とし、様々な苦難を乗り越え建国に至る。
翔・・・世にも珍しいアルビノのイヴァ。騎者である朱里に付き従うため、人界に棲んでいる。天界に棲むつがいと人界の騎者との間で気持ちが揺れ動いた時期もあったが、肝っ玉母ちゃんだったつがい本人により蹴りだされるようにして人界を選んだ。騎者が命数を終えたらすぐさまつがいの元へ戻るという決心により、地に脚をつけたが……




