風の巻2
その不思議な客人が訪れたのは、一年に一度の台風の季節であった。
「お忙しいところ失礼します。道をお聞きしたいのですが」
そう丁寧な口調で、嵐瑛に話しかけてきたのはすらりと背の高い男であった。爪先から肩口まですっぽりと覆った分厚く埃っぽい装いが物語っている、相当年季の入った旅人だと。ついでに言うなら顔の半分以上まで巻かれた布が人相を判らなくさせていた。
ただ、その両眼はひどく美しかった。嵐瑛はしがない百姓に過ぎないが、それでもちらっと思った。まるで宝石みたいね、と。
「あの……、」
「あ、ごめんなさい」
つい見惚れていたことに慌てた。嵐に備えて網布を畑に被せていた手を止め、彼に向き直る。
「ここはロン国南の州・凱稜と見受けます。ご領主のお屋敷までの道筋を、教えていただきたいのです」
「はい、ええと、ここからまず真っ直ぐ歩いて……、」
説明を終えたあと、背の高い旅人は頭を下げて礼を言った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
そうして静かに去っていった後ろ姿を眺めつつ、嵐瑛は嘆息した。
(それにしても綺麗なお目目のひとだった。青紫色ってどう見てもこの国の人間じゃない。顔はわからなかったし声もこもってたけど、なんだか雰囲気がかっこいいひとだったわ)
そしてちょっと考える。
「もしかしたら、あのひともあたしと近い種なのかも」
妖精の血を引く人間というものは、全世界において割りと多い。かの一族が衰退してからだいぶ永い時間が経っているので、今や純粋な妖精というものは稀少である。しかし部分的な先祖がえりというものは、結構頻繁に生まれる。それこそ嵐瑛や領主のバカ息子のような、霊力も何も使えないくせにうっすらとした性質や外見だけは妖精めいている、言わば人間の亜種的な輩は数多い。
「……まあ、勝手に判断しても失礼よね」
そう結論付けて嵐瑛は作業を再開した。
その晩は、大方の予想通り嵐となった。丁度台風の頃合いで朝から空模様が怪しかったので、年季のある百姓として万全の備えをするのは当然である。それでも夜、びょうびょうと吹く強風にそわそわとなるのも性分と言える。他に田畑を世話する人手がいないので、嵐瑛自身過保護になっているのだ。
「……ちょっとくらいだったら、見回ってきても構わない、わよね。ホラ、他にやることないし」
一人暮らしの常で、ついつい意味が無いのに独り言で注釈を入れてから雨具を着込んで外へ向かった。吹きつける風と横殴りの雨粒が地味に身を切る。
(雹が降らなきゃいいのだけど)
網布を被せた畑を見回り、温室の骨組みを点検し、水路も壊れていないか遠目で見る。今年の台風は短い分、勢いが強めだと聞いた。対処は万全であると信じたい。一通り見てまわってから、嵐が本格的にならないうちに家へと戻った。
(そういえば、鍵かけてたっけ?)
帰路の途中で心配になり、早足になる。ど田舎なので周囲にあまり民家は無いしひと気も少ない、そのせいでちょっとした外出の際は施錠せず家を出てしまうことが多い。
けれど、今回ばかりは少し嫌な予感がしたのだ。
普段はしない嫌な予感、それは嵐瑛の場合当たることが多い。
「――よう、嵐瑛」
玄関の扉を開けた際、そこにいたのは見たくも無い顔だった。
「赤諷、様」
「こんな雨の中、畑の見回りか? ご苦労だな」
整った面差し、嵐瑛と同じ形の尖った耳を持つ男である。見た目だけなら良いところの御曹司といった風情の青年なのに、浮かべる表情と伝わる感情には怖気が走る。今だって雨具を着込んだ嵐瑛のからだを上から下まで舐めるように見られ、ぞぞっと鳥肌が立った。濡れてぴったり張り付いている雨着の胸元を、急いで摘んで皺を戻す。
(しまった)
脳内で舌打ちした。鍵を閉め忘れた自分と、兄を引きとめられなかった幼馴染を蹴りつけたくなった。なんだってこんな状況になってしまったのか。
「あの、何か御用でしょうか赤諷様」
震える身体に活を入れ、ぐっと拳を握り締めて彼を見据える。ここで怯えを見せてはいけない。
「冷たいなあ嵐瑛。昔は呼び捨てで仲良くやってただろう?」
「今は関係がありません。赤諷様、御用が無いのならお帰りいただきたいのですが」
なるべく無感情になるよう心がけ、玄関脇に身を寄せて外を指し示した。
「さあ、お帰りください」
「嵐瑛、こんな夜に俺を外に追い出すのか? 領主の嫡男をないがしろにするとは、いい度胸だな」
知るか、と嵐瑛は唇を噛む。
「今ならば嵐も本格的ではありませんので、徒歩でも屋敷に戻れるかと思います」
だからとっとと帰れ。その意で睨み付けると、赤諷の整った顔が歪んだ。
「可愛くない女だ。昔は俺の嫁になると言っていたのに」
「~~ッ、過去の話です、とりあえず今はお帰りください。あたしは忙しいので、お茶をお出しする時間もありません」
掘り起こされたくない大昔の発言を持ち出され、心底から羞恥と嫌悪が噴き出す。それをやっとの思いで抑えながら、嵐瑛はなおも外を指し示した。
「さあ、」
「……わかったよ」
つい、と横を通り抜ける男。安堵の吐息が零れかけた、次の瞬間だった。
どんっ、
「!」
がちゃん
玄関内へ身を押され、つんのめると同時に扉が閉まる音がした。
「――なんて、聞き分け良く帰ると思ったか? 嵐瑛」
よろけた嵐瑛に被さる大きな影。何が起きたと自覚する前に、背中に感じる冷たい玄関の床。腕と脚は押さえられ、上から体重をかけられて。
「な、」
「いい加減俺を受け入れろよ、嵐瑛……ッ」
耳元で囁かれる、湿った声と吐息。
押し倒されている、と自覚した瞬間、今までに無い危機感と恐怖が嵐瑛を襲った。
男の体温と匂い、大きな手の平の感触。ぐ、と擦り付けられる熱い身体。重み。そのすべてが。
(気持ち悪い――!)
「は、離れて、やめてくださいっ」
凛としていようと思ったのに、声が震えて掠れる。それを聞いて赤諷の顔がにいぃ、と笑んだ。嗜虐の笑みであった。
「嵐瑛、初めてか? かわいいな、気持ちよくしてやるよ」
あんたに触れられること自体が気持ち悪いのだ、という思いで、嵐瑛は精一杯抵抗を試みる。しかし、簡単に手首を押さえられ胴体も動けない。脚が開かれて服の上から押し付けられる感触に怖気が走る。
「いや、」
嫌だ。こんな男に、こんな場所で、こんな形で。
雨着が破かれ、服の合わせ目に手が入ってきた。募る嫌悪感。恐怖。大声をあげようと開かれた唇、しかしそれに気づいた赤諷が、乱暴に手の平と指で嵐瑛の口を塞いだ。至近距離で、濁った瞳と声音。
「騒ぐな。殴られたいのか」
「……っ」
怯えが身を竦ませ、手が離されたあとも悲鳴が出てこない。
(いやだ)
力なくもがきながら嵐瑛は叫んだ。
(お父さん、お母さん、助けて。誰か、助けて)
助けを、呼んだ。唯一へ向けて。
「青、風……ッ!」




