第58話 黒星の帰還――母の涙と、王城地下の呼び声
第58話 黒星の帰還――母の涙と、王城地下の呼び声
王城の禁書庫を満たしていた黒い魔力が、ようやく消えた。
崩れかけた天井から、細い光が差し込んでいる。
つい先ほどまで、ここでは三百年を生きた亡霊王子ルシアン・セレスティスとの死闘が繰り広げられていた。
俺の手には、小さな黒い結晶がある。
その内部には、ルシアンの魂が封じられていた。
「……終わった、んだよな」
思わず口にした俺に、リゼットが疲れ切った顔で頷いた。
「少なくとも、ルシアンの術式は完全に停止しているわ。地下に仕込まれた自爆術式も、もう反応していない」
「結晶の封印も安定しています」
エリシアが胸の前で手を組み、静かに続ける。
「彼の魂を消滅させずに済んだのは、レオンハルト様のおかげです」
「俺一人じゃ無理だったよ」
本当に、そうだった。
リゼットが術式を見抜き、エリシアが魂を守り、アリシアとエレノアが俺たちを守ってくれた。
そして――。
「レオン」
セレスティアが俺の袖を引いた。
振り向くと、彼女は少し怒ったような顔をしていた。
「もう、勝手に一人でいなくならないで」
「……ごめん」
「謝るだけじゃ駄目」
セレスは俺の手を握った。
戦いの最中、俺の意識はルシアンによって魂の内側へ引きずり込まれた。
そこで出会ったのは、この身体に本来宿っていた、もう一人のレオンハルト。
彼と交わした約束は、今も胸の奥に残っている。
『父上と母上を、幸せにしてほしい』
俺は握り返した。
「約束する。もう、何も言わずに消えたりしない」
「……絶対よ」
「ああ」
ようやくセレスが微笑んだ、その時だった。
轟音。
禁書庫の扉が、外側から勢いよく開いた。
「レオン!!」
聞き慣れた声。
銀色の髪が視界を横切った次の瞬間、俺は柔らかな腕の中にいた。
「か、母上!?」
「レオンちゃんっ!!」
母エレオノーラは、俺を抱き締めたまま離さなかった。
「王城の地下で大きな魔力反応があったって聞いて……! しかもあなたが中にいるって……!」
「大丈夫です。怪我もありませんから」
「大丈夫じゃないわ!」
母上の声が震えた。
「お母さんが、どれだけ心配したと思ってるの……」
肩に、温かいものが落ちた。
母上が泣いていた。
銀月の魔女。
王国でも指折りの大魔導師で、敵対する軍勢すら恐れる人。
そんな母上が、俺の無事を確かめるためだけに涙を流している。
「……すみません、母上」
俺はそっと背中に手を回した。
「ただいま、帰りました」
「……おかえりなさい、レオンちゃん」
その後ろで、父アルフォンスが立ち止まっていた。
黒獅子と呼ばれる男の顔は、いつになく険しい。
「レオンハルト」
「父上」
「敵は?」
「封印しました。もう王都に危険はありません」
「そうか」
父上は短く答えた。
そして歩み寄り、俺の頭に大きな手を置く。
「……よく帰った」
その一言に、胸が熱くなった。
父上の手が、ほんのわずかに震えていたからだ。
俺はこの世界で、誰にも負けない力を手に入れた。
けれど、どれだけ強くなっても。
この二人にとって俺は、ただの息子なのだ。
その当たり前のことが、今は何より嬉しかった。
◇
王城の応接室へ移ったのは、それから一時間ほど後のことだった。
国王アレクシス陛下、父上、母上、そして戦いに参加した全員が集まっている。
机の中央には、ルシアンの魂を封じた黒い結晶が置かれていた。
「三百年前の王子が、今も存在していたとはな……」
陛下が重々しく呟く。
「王家に残る記録でも、ルシアン・セレスティスは儀式の失敗で死亡したことになっている」
「死亡ではなく、肉体を失っただけだったのでしょう」
リゼットが説明した。
「しかも彼は、王家の禁術と現代の術式を組み合わせていた。誰かが長年、知識や設備を提供していた可能性があります」
「共犯者がいるということか」
「断定はできません。でも、彼一人では説明のつかない痕跡が残っています」
俺は黙って聞いていた。
ルシアンは確かに強敵だった。
だが、最後の言葉が気にかかる。
『お前は、まだ知らない。異界の魂が、この世界へ来た理由を』
俺がこの世界に転生したことまで、あいつは知っていた。
そして、俺の魂が二つ重なった瞬間、黒星の紋章は黄金に変わった。
偶然にしては、出来すぎている。
「レオンハルト様?」
エレノアが小さく声をかけてきた。
「お疲れではありませんか」
「少し考え事をしてただけだよ」
「でしたら、お茶をお持ちします」
「ありがとう」
いつもと変わらないやり取り。
それだけで、張り詰めていた心が緩んだ。
ところが。
「……っ!」
突然、胸の奥が熱くなった。
俺は思わず上着の胸元を押さえる。
黒星の紋章。
正確には、あの戦いで金色に変化した紋章が、微かに脈打っていた。
『――聞こえるか』
声がした。
誰のものでもない。
耳からではなく、魂の内側に直接響く声。
『二つの魂を宿す者よ』
俺は立ち上がった。
「レオン?」
セレスがこちらを見る。
「……今、何か聞こえなかったか?」
全員が顔を見合わせた。
誰も頷かない。
だが、母上だけが目を細めた。
「レオンちゃん。あなたの魔力……今、少しだけ変わったわ」
『第一封印は解かれた』
再び声。
『だが、扉を開くには、まだ足りぬ』
俺は意識を集中させた。
声の方向を探る。
すると、足元から奇妙な感覚が伝わってきた。
王城の地下。
禁書庫よりも、さらに深い場所。
そこに、巨大な空洞が存在している。
俺の《万有引力》は、質量の偏りを感じ取ることができる。
なのに、その空洞だけは奇妙だった。
何もないはずの場所に、何かがある。
空間そのものが、隠されているような感覚。
「……陛下」
「どうした?」
「王城の地下に、禁書庫より深い階層はありますか?」
その瞬間。
陛下の表情が変わった。
父上も、何かに気づいたように顔を上げる。
「……なぜ、それを聞く」
「そこから、声が聞こえるんです」
部屋の空気が凍った。
陛下は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「王家には、代々伝えられてきた禁忌がある」
「禁忌?」
「王城の地下には、決して開いてはならぬ扉がある、と」
リゼットが身を乗り出す。
「それは、どの文献に?」
「文献には残されていない。王位を継ぐ者だけが、口伝で知らされる」
陛下は俺を見つめた。
「そして、もう一つ」
声が低くなる。
「その扉は、王家の血では開かない」
セレスが息を呑む。
「では、何で開くのですか?」
陛下は答えなかった。
代わりに、俺の胸元へ視線を向ける。
黄金に輝き始めた、黒星の紋章へ。
「……古い言い伝えでは」
陛下の唇が、ゆっくりと動いた。
「扉が待つのは、王ではない」
胸の紋章が、強く脈打った。
「――星を継ぐ者だ」
◇
同じ頃。
王城の地下深く。
三百年間、一度も光が差したことのない石室で。
七つの石柱のうち、一つが音もなく砕けた。
中央には、巨大な扉。
その表面に刻まれた七つの星のうち、一つだけが黄金に輝いている。
『第一封印、解除を確認』
無機質な声が響いた。
『継承候補、魂の同調率上昇』
『王家の血統、覚醒を確認』
『七つの絆――接続開始』
そして。
長い眠りから目覚めたような、低い声が石室に満ちた。
『……よくぞ、運命を破った』
『だが、まだ安心するな』
『お前が倒した亡霊王子は、ただ扉を叩いていたにすぎぬ』
扉の奥で、何かがゆっくりと目を開いた。
『本当に目覚めてはならぬものは――』
そこで、声が途切れた。
残る六つの石柱が、一斉に震え始める。
まるで、扉の向こうから何者かが叩いているかのように。
そして黄金の星の下に、古代文字が浮かび上がった。
『継承の刻まで、残り――二年』
それは、レオンハルトが本来死ぬはずだった年齢。
十七歳までの、残された時間だった。




