第1話 : 男が自分の手で薪を割る世界
「フッ……ハッ!」
コーン、と心地よい乾いた金属音が、静まり返った深い森の中に響き渡る。
振るわれた小型の手斧が描いた綺麗な軌道。その刃が見事に狙い通りの位置を捉えると、丸太は悲鳴をあげることもなく、パカンと真っ二つに割り開いた。
「ふぅ……よし、これで今日の分の薪は十分かな」
額に滲んだ汗を丸めた袖口で拭い、俺は満足げに息をついた。
足元に転がる割られたばかりの薪を拾い上げ、庭の隅にある木製の棚へと整然と積み上げていく。割れ目の木目が綺麗に出ていて、我ながら良い手際だと感心する。
俺の名前はハルト。今年で30歳になる、ごく普通の男だ。
……いや、正確には「元・ごく普通の男」と言うべきかもしれない。
思い返せば一ヶ月ほど前、俺は現代日本で平凡な会社員生活を送っていた。それがどういうわけか、気づいたときにはこの見知らぬ異世界の森の中に放り出されていたのだ。
突然の異世界転移。最初は当然、パニックになりかけた。
しかし、幸運なことに俺の実家は田舎の農家だった。幼少期から農作業を手伝わされ、成長してからの趣味は料理と日曜大工(DIY)。おまけに転移時にステータスを確認してみたら、【日曜大工】【家庭料理】【体力回復UP】なんていう、冒険には何一つ役に立ちそうにないが生活には超便利なスキルが生えていた。
「まあ、生きていく術があるなら、死ぬわけじゃないしな」
そう開き直った俺は、人里離れたこの森の広場に拠点を構え、木を切り倒し、ログハウスを建て、畑を耕し、自給自足のスローライフを始めたというわけだ。
「さてと、そろそろ昼飯の準備をするか」
積み終えた薪から状態の良いものを二、三本引き抜き、手製のログハウス——趣味のDIYの延長でパパッと組み上げた自宅——の庭に設置した、石造りのかまどへと向かう。
火打ち石を使って手際よく火を起こし、細い枝から太い薪へと火を移していく。パチパチと薪が爆ぜる心地よい音が聞こえ始めると、俺はその上にお手製の大きな鋳物鍋をセットした。
鍋に注ぐのは、近くの清流から汲んできた澄んだ水。
そこに、自家菜園で収穫した甘みのある根菜や葉物野菜をゴロゴロとした大きめのサイズに切って放り込む。さらに、先日仕込んでおいた干し肉と燻製肉を厚切りにして投入した。
「火加減は中火でじっくり、と。ハーブも少し散らしておくか」
塩と、この世界の森で採取した香辛料を適量。
フタをして煮込んでいくと、ものの十数分で鍋のフチから真っ白な湯気が吹き出し始めた。それと同時に、肉の濃密な旨味と野菜の甘み、ハーブの香ばしい香りが混ざり合った、たまらない匂いが広場全体に漂い出す。
「うん、いい匂いだ。スープの味見を……よし、塩加減もバッチリだな」
木彫りのオタマでスープをすくい、フーフーと息を吹きかけて口に含む。
肉の出汁がしっかりと出ていて、野菜の甘みがスープ全体に溶け込んでいる。【家庭料理】スキルの補正もかかっているのか、自分で作っておきながら売り物レベルの美味さだ。
と、スープの出来栄えにひとり満足げに頷いていた、その時だった。
ガサリ、と広場の入口にある草むらが大きく揺れた。
「……え?」
「はぁ……はぁ……ッ……! くっ……ここまで……来れば……」
荒い息遣いとともに姿を現したのは、全身に煌びやかな、しかし傷だらけの銀色甲冑を纏った一人の女性だった。
美しい金髪は汗と泥で乱れ、立派な鎧の随所には斬撃の痕や焦げ跡がついている。背中には見上げるほど大きな大剣を背負っているが、それを支えにしなければ立つことすらままならない様子だ。
血の気の引いた青白い顔と、今にも途切れそうな息。どう見ても限界を迎えている。
(うわ、凄まじい整った顔立ちの美人だけど……めちゃくちゃボロボロじゃないか! 方角的に、魔物とでも戦ってきたのか……?)
「おい大丈夫か!? 無理するな、今動いちゃダメだ!」
俺は慌てて手元の木彫りスープカップに、煮立ちたての温かいスープをたっぷりと注ぎ入れると、彼女のもとへと一気に駆け寄った。
「くっ……何者だ……! 私は王都近衛騎士団長、エリザ・フォン・ベルセルク……! 刺客か……!? 引くわけには……」
彼女——エリザは、俺の接近に反応して素早く大剣の柄に手を伸ばそうとした。
だが、過労と衰弱、そして空腹の限界を迎えていた彼女の脚は、カクンと無情にも膝をつく。そのまま前傾姿勢で地面に倒れ伏しそうになった。
「喋らなくていいから! ほら、怪我はないか? 支えるぞ」
俺はとっさに彼女の華奢な(しかし鎧でクソ重い)肩をしっかりと抱きとめ、そのまま近くの丸太のベンチへと優しく座らせた。
「な……ッ!?」
エリザの青い瞳が、信じられないものを見たかのように見開かれる。
無理もない。女性が圧倒的な優位に立ち、男は守られるべき存在——というこの異世界の常識(後で知ったのだが男女比1:9らしい)において、見知らぬ男が、倒れそうな自分を力強く抱き留め、介抱するなど本来あり得ない光景なのだから。
しかし、そんな世界のルールを知りつつも身体が勝手に「30歳の大人の男」として動いてしまう俺は、気にもとめずに湯気の立つスープカップを彼女の手に握らせた。
「ほら、まずはこれ飲んで落ち着け。あったかいスープだ。冷えた体に効くぞ」
「な……男が……温かい食事を、私に……? 毒など……いや、この芳醇な香りは……」
エリザは呆然とした様子で、手の中のスープカップと俺の顔を交互に見つめていた。
彼女の喉が、ゴクリと小さく鳴る。空腹はとっくに限界を超えているはずだ。
覚悟を決めたように、エリザは震える手でカップを口元へと運び、スープを一口口に含んだ。
瞬間——彼女の体がピキリと硬直した。
「〜〜〜〜〜〜っ!?」
彼女の瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「な、なんだこの美味さは……!? 濃厚な肉の旨味と、甘く柔らかい野菜……! 疲れ果てた五臓六腑に、温かい滋味がどこまでも優しく染み渡っていく……!! 身体の奥から、力が湧き上がってくるような……!?」
【体力回復UP】と【家庭料理】のダブル効果が効いているのだろう。顔色の悪かった彼女の頬に、みるみるうちに血色が戻っていく。
「はは、大袈裟だなあ。でも気に入ってくれたなら良かった。おかわりは鍋にたくさんあるから、焦らずゆっくり飲んでくれ」
俺がそう言ってポンポンと彼女の肩を優しく叩くと、エリザはハッと我に返ったように周囲へ視線を巡らせた。
広場の中央で煙を上げるかまど。
そこに置かれた大鍋。
庭の棚に美しく積み上げられた、切り揃えられた大量の薪。
そして、その奥に佇む頑丈で温かみのある木造ログハウス。
「ま、待て……まさかこの森の中で、薪を割り、火を起こし、家を建て、このような絶品料理を作ったのは……全て君なのか……!?」
「ん? ああ、そうだけど。薪割りも料理も家づくりも、俺が一人でやったよ」
「ひとり……!? 男が……たったひとりで……!?」
「まあね。男なんだから、これくらい普通だろ? 薪割りや力仕事くらい自分でやらないと、ここで暮らしていけないし」
俺は困り顔で笑いながら、当たり前のこととして答えた。
「————っっっっ!?」
その瞬間、エリザの全身を凄まじい衝撃が駆け抜けたようだった。
彼女は目を見開き、呼吸するのも忘れたように俺を凝視している。顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
(男が……自分の手で重い斧を振り下ろし、薪を割り、自らの手で家を建て……疲れ果てた私に、手作りの温かい料理を振る舞うだと……!?)
(『男なんだから普通』……!? なんだその常識を覆す圧倒的な漢気は……!? なんて雄々しく、力強く、包容力に満ちた男なんだ……!!)
「あ、あの……エリザさん? どうした? 顔がすごい赤いけど、熱でも……」
「あ……あ……私を守る……最高の『旦那様』が……ここに……いた……」
「はい?」
「——(ガクッ)」
「おいちょっと!? 倒れるならせめてベッドで寝てくれー!?」
過労と空腹からの解放、そして「あり得ないほどワイルドで優しい理想の男」に出会ってしまった過剰なショックにより、最強の近衛騎士団長エリザは、そのまま幸せそうな笑みを浮かべて豪快に気を失ってしまったのだった。




