炎の片鱗
時は少し前に遡り、とある日の皆が寝静まった時刻のことである。
鈴玉に喜鵲と名付けられた男は、己の最速を以て天朝宮へと戻ってきていた。
蝋燭の揺れる火に美しい顔を照らされながら、全身を椅子の背に預け、炎王誠偉は目の前に跪く喜鵲へ感情の読めない薄笑いで話しかけた。
「お前には姉上を守れと命じたはずだが?」
普通を装ったその一言に、冷や汗が流れるほどの圧力を感じる。
答えを間違えれば、鈴玉様に命じられたことさえ果たせず死ぬのは明確だった。
自分で望んだこととはいえ、随分馬鹿なことをしていると、この時ばかりは考えてしまった。
「道中、疫鬼に侵された村を通過いたしました。
鈴玉様により、その村に乩手を連れ戻る命を受けております。
それ故、影の役目を放棄致しましたことをお許しください。
そしてどうか、乩手を派遣していただきたく思います」
「ふむ」
心臓は早鐘のようで、破裂しそうなほどだった。
誠偉様は私の様子など全く気にした風でもなく、ゆったりとした雰囲気を崩さない。
そして顔を近づけ、何かを読み取ろうとする目で私を見てきた。
「姉上は息災か?」
「はい。私が離れる時には、問題ありませんでした」
「そうか」
それを聞いて満足そうに、再び背を深く椅子に預ける。
相変わらずこの方は、どこまでも鈴玉様のことばかり関心を向ける。
それなのに今回の旅を許可したことが不思議だった。
これほどに執着するならば籠から出さなければいい。実行するのは何の障害もないだろう。
しかし、どれほど疑問に思っても問うことはできない。
不用意につつけば、その炎がいつ自分に向けられるか分からないからだ。
「ならばよい。白杖老を連れていけ」
その一言に肩の力が抜ける。改めて表情を窺うと、誠偉様は来た時と同じような薄笑いを浮かべ、私の任務放棄には何の関心もなさそうだった。どうやら私はやり過ごせたらしい。
「白杖老を? よいのですか?」
「ああ。暇だろう」
最高官の乩手を動かす理由は、実に単純なものだった。誠偉様が良いと言うならば、否と言えるはずもない。
「畏まりました」
「それとお前、もはや影の任務はできん。そのまま白杖老と共に行き、姉上の護衛となれ」
「はっ」
実に寛大な処置である。それが誰のためのものか、聞くまでもなかった。
鈴玉様のみを特別扱いし、他を重んじない。これでは皆に示しがつかないと、役人の中にはこの状態に怒る者もいた。しかしそれは過去のことである。
今や面と向かって言える者はいない。いつの間にか誠偉様の周りは信者のような者ばかりで溢れている。
耳に届けば何処に飛ばされるか分からない。
誠偉様は破天荒ではあるが、その絶大な力と、人外のような美しさ、そして慧敏な頭脳は確かに人を魅了するのだ。
それは時に危険であればあるほど、煌めいて感じられるようだった。
思考に没頭していた自分に気付く。目の前の誠偉様は先ほどまでの薄笑いではなく、楽し気な笑みを浮かべていた。
急に息が詰まる。何かが起こる予感に、自分は怯えているのだ。
「……姉上から、何か渡されたか」
私は眼光鋭い目から思わず視線を地面に逸らす。恐怖に駆られ、無難だと判断したものだけを答えた。
「名を」
「名か。姉上らしい。何と?」
「喜鵲にございます」
「よい名だ。これからそう名乗るがいい」
「はっ」
咄嗟の判断がどう転ぶか分からないまま、会話を続ける。別に問題はないはずだ。
あれを見せるのは、咎められることがあればと注釈がついていたのだから。
しかしそんな浅はかな思いなど見透かすように、誠偉様は目を細める。愉悦ではなく、私に全てを語らせようと圧力をかけるためだ。
「……それだけか?」
目の前の男は、本当に人間なのだろうか。精霊を直接見たことなどないが、誠偉様がそうだったと言われても納得してしまうような独特の空気があった。
そもそもの存在が違うかのような。それらを前にした時、人は屈服するしかない。
実は全てを把握していて、弄ぶためだけにあえて口に出して問い質している。
そんなあるはずない妄想が、頭から離れない。
私は嫌な予感に包まれながらも、その圧力に抗えなかった。
「これを」
両掌に束ねられた髪を乗せ、恭しく誠偉様に差し出す。私の手は少し、震えていた。
「……そうか」
その声には何かの感情が含まれていた。それが何であるか、まだ分からない。
誠偉様はその髪束をそっと持ち上げて、注視する。
「私が髪を切らせたか……今度は! 私が!」
熟れ過ぎた実が僅かな刺激で弾けるように、誠偉様は突如として激高した。
怒りを込めて叫び、憎々しい目を向けて手の中の髪束を握りつぶす。
普段は背筋が凍るほどの処罰を与えても表情を一切変えない男の変貌ぶりに驚愕する。
室温がみるみるうちに上昇し、本物の炎がそこにあるかのような錯覚を起こさせた。
このままでは部屋が燃え出すのではないか。そんな恐れさえ抱き、逃げ出したい衝動が全身を支配する。
しかし、それに耐えねばさらに恐ろしいことが起こるのは明白だった。
誠偉様はそんなただ人の恐慌など目に入らない様子で、椅子から立ち上がり目的もなく周囲を苛立ち混じりに歩き出した。
「何故。いつになったら。ああ……全く!」
手に握る髪束が、青い炎に包まれ灰と化した。
これこそ、彼の本質である。
全てを焼き尽くす、人の手に余る炎だった。
「度し難いぞ、姉上」
この場にいないあの人に、憎悪するように、傾慕するように全てを込めて言った。
いつしか灼熱の暑さなど忘れて、その様に魅入られている自分がいた。
青い髪は感情に呼応するように熱に揺れる。炎の化身のようだった。
完璧な理解はできないが、恐らく鈴玉様は間違えたのだ。
誠偉様に対する、距離を測り間違えた。その結果がこれなのだろう。
無理もない。恐れるなと、一体誰が誠偉様を相手に言えるのだ。
熱に耐えきれずに小さく燃え出した机上の書類を、鬱陶しそうに誠偉様は素手でもみ消した。
それで少しばかり、理性が戻ったようだった。
努力して荒ぶった感情を抑えようとする。室温が徐々に下がり、私の汗ばむ顔に僅かな冷気が戻ってきた。
鈴玉様がこの怒りを呼び覚ましたのならば、鈴玉様がいなくなれば誠偉様はこのように感情を荒げることがなくなるのだろうか。
いや、それは真逆の結果になるに違いない。鈴玉様が失われた時、我々は止める術を失うのだ。
刺激しないように只管沈黙を保っていると、誠偉様は椅子に勢いよく腰を下ろし、片手で目を覆った。
「行け。その名の通りの、働きをするがいい」
「はっ」
胸の内の炎は消えたわけではなく、隠しただけなのだろう。それを、あの非力な人が望むが故に。
必方様も随分と恐ろしいことをする。たった一つを軛に、人の振りをする者を王に選ぶとは。
私は逃げるように夜の闇へと飛び出していった。