⑤叫んで責めても悪くないはず
母が泣いてるよ。たこに私が襲われた日からずっと泣いてるよ。でも泣きたいのは私だよ。いや、母も泣きたいか。私が泣きたい日に母が泣きたくなってもいいじゃない。いいじゃない。
「ごめんなさい、ごめんなさい。私が弱いから、由紀ちゃんを守れなくて……本当にごめんなさい」
うん知ってるよ、母よ。あなたは弱いよ。父も弱いよ、私も弱いよ、しょうがないよ。姉は強かったね。だから頼りすぎたよね。姉の手首がボロボロになるまで頼りすぎたよね。
「昔はあんな人じゃなかったのに……」
あんな、人? 人って誰のことだろう。たこのことか? 母よ、たこを人に例えるとはなんと優しいお人なんだ。そういうところはなんとなく姉に似てるよ。というか、その口ぶりは昔のたこを知っているってことなのか?
まさか母がたこと知り合いだったとは、驚きですよ。思わず逆上がりしちゃうほどの驚きですよ。
「……別れたい。あの人がいない世界でゆったり生きていきたい」
あの人がいない世界? それが母の居場所ですか? そうなんですか?
「居場所? そうね、そう、あの男がいない世界が私の居場所。でも、そんな世界ありえない。別れ話をつきつければ、殴られるし、もし仮に離婚ができても、その後の生活はあの人がいる限り、あの人の影に怯えていかなければいけないもの。私に、心安らげる場所なんてないんだわ。……真由美ちゃん、真由美ちゃん」
姉の名前を連呼して、また母は泣き崩れて言ったよ。私にどうしろと言うのだろう。いや、姉の名前しか呼んでないし、私はきっと何もしなくていいんだよ。そうだよ。だって、お母さんが名前を呼んでいるのは姉だし。私は何もしなくていいんだよ。
そうだよ。でも何か言いたくてしょうがないんだよ。何かいってあげたいんだよ。何も言いたくないのに、言うもんかって思うのに、私も姉も幸せにできないこんな母親なんてそのまま不幸になればいいって思うのに、なんかほっとけないんだよ。
そりゃそうだ。だってうちらは親子だったんだもの。この女のおっぱい飲んで大きくなって、この女の笑顔が欲しくてたまらない時だって、確かにあったんだから。
「大丈夫だよ。あのたこはすぐ死ぬよ。すごいお酒飲んでるもん。酒で死んでいくよ。そうだ、酒の中にさらになんかアルコールでも混ぜればいいよ。エンジンオイルとかいれればいいよ。きっとたこだから気付かないよ。たこが酒飲むのを止めないで、むしろ飲ませて早く死んでもらえばいいんだよ。そうすればべろんべろんになって、死んでいくよ」
私がそういうと母が奇妙な顔で私の顔を見上げてきたよ。すごい珍しい物でも見るような目で私を見てるよ。なんかの天然記念物の気持ちが今なら分かるよ。
ぱちぱち何度も目を閉じたり開いたりした後にポツリと母が言ったよ。
「それも、そうね」 ってね。
久しぶりにあの人間に呼ばれてあの素敵ボロ家にいますよ。今日は珍しく手首アルバムは広げないつもりらしいよ。人間がなんかちょっと浮ついた顔で好きな男の話をしているよ。青春だね。青春だよ。
「ね、素敵じゃない? カズ君。カッコいいし、頭もいいし。今度告白してみようと思うの」
どうやらこの人間は同じクラスのある男子に恋したようですね。空ろな目でぺちゃくちゃぺちゃくちゃ話してますよ。幸せそうに。まあ、幸せならいいんだよね。誰にも迷惑かからんし。私に迷惑かからんし。
「ねえ、由紀は好きな人とかいないの?」
って聞いてくるもんですから、ココが好きなんですよとかなんとか言ったら、
「え、ココって? 何? もしかして私のこと? 勘弁してよ。私女に興味はないから」
とか人間が勘違いしだしましたよ。勘違いもほどほどにしたほうがいいですよ。まったく。これだから人間は、まったくなんですよ。私が好きなのはこの家ですよ。
まあ、いいんですけどね、あんたが幸せなら、いいんですけどね。なんでもいいんですけどね。でももうこのメスには姉の面影はどこにもないみたい。少し似てると思ったのに、不思議不思議。
家の中に黒い服をきた人間どもが集まり始めました。母も黒い服着てるし、私も黒い服着せられてるし。なんだろ。この宗教団体はなんだろ。
「このたびは、ご主人がお亡くなりになられて……」
「まだ小さい娘さんもおられますのに……」
「この前、長女にあんなことがあったばかりなのに……」
ははあ、分かりましたよ。名探偵の私は全てを理解しました。どうやらこの家の主人が亡くなったみたいだね。ははあ。
「また誰か死んだらしいわよ。 この前長女が自殺したばかりでしょ? 今度は旦那さんが急性のアルコール中毒ですって。どんな家庭だったのかしらねぇ。おほほ」
そんな会話もまる聞こえ。私の耳は変なところで敏感で、悪口陰口なら、どんなところからでも拾い上げてしまうんですよ。ききたくないのに聞えちゃう。ききたくないこと聞こうとして、ききたくないことを聞いたような気がしちゃう。バカな耳。そう、バカな耳なんですよねぇ。
黒い服を着た陰気な奴らが家から去って行ったよ。よかったよかった。私は玄関に軽く塩まいときました。二度とくるなよって思いながらね。
家に上がると、さっきまでめそめそ泣いている素振りを見せていた母が、ニタニタ顔で私を手招きしているよ。私は何だこの母はニタニタしやがって気持ち悪いなぁとか思いつつも素直に手招きに応じてみました。すると母は目の前にある棺おけみたいな大きな四角い箱のふたをはずしたんですよ。いきなり。
そんでまあ、驚きつつも一体中には何が入ってんのかなぁって、好奇心にかられつつ覗き込むと……あ。
お父さんだ。
青白い顔したお父さんが静かに眠っているよ。
顔を上げたら母のニタニタ顔。下を向けば父の青い顔。
私はその二つを何度も交互に見た後、なんだか首が疲れたから部屋に戻ったよ。そしたらなぜか急に、胸が痛くなって、目が熱くなって、何かがこぼれたんだ。涙みたいな奴がこぼれたんだ。
だって、父は父なんだ。私にとって、小さい頃から一緒にいた父なんだ。なんだろ、今畜生め。父が私にしてくれたことのほとんどが嫌なことだったのに、嫌な思い出ばかりなのに、あんなふうに青白くさせて眠りにつかれると、ちょっとしかないいい思い出しか思い出されないんだ。
きっと父が耳元でそう叫んでいるんだな。いいことしか思い出さないように叫んでいるんだ。ずるい奴だ。最悪だ。
でももっと最悪なのは、母だ。何でニタニタ顔なんだ。いや、まあ、今までの父の仕打ちを考えると、ニタニタしちゃう気持ちは分からなくはないけれどさ、でもニタニタしすぎなんだよ。子供の前で、私の前で、ニタニタしすぎなんだよ。
私も、お姉ちゃんもうらんでるんだから。本当は恨んでいるんだから。どうして父も母も仲良くしてくれなかったんだ。恨んでいるんだ。仲良くして欲しかったんだ。それで安心させて欲しかったんだ。
私やお姉ちゃんはいつも願っていたのに、お父さんとお母さんの罵り合う怒鳴り声を両手で押さえた耳の隙間から聞くたびに祈っていたのに。
次の日には、二人が仲良くなっていて幸せになっていますようにって、祈っていたのに。
どうして、仲良くしてくれなかったんだよ。父と母の怒鳴り声が、私たち姉妹には「いらない子だ。間違った子だ」って囁いているように聞えていたことにどうして、どうして気付いてくれなかったんだよ。
親が私たちに「いい子」を要求するのが当たり前なように、私たちが親に「仲良くすること」を要求するのは当たり前のことだよね? それが義務だって、叫んで責めてもきっと私たちは悪くない!