⑥思い出した
父は死んでしまったのでさすがに叫んで責めることはできないけれど、母はかろうじて生きているので、叫んで責めようと思って真っ赤に腫らした目で、次の日の朝を迎えた。
リビングにつくと、母がそれは憎らしいほどの爽やかな笑顔で、味噌汁を作りながら私におはようと声をかけてきたので、なんかもうやる気を失った。
母はそそくさと朝食をテーブルの上に用意してくれた。
鮭の塩焼き、豆腐とわかめの味噌汁、ほうれん草のおひたし、白いご飯。母は私の目の前で幸せそうに「いただきます」を言っていた。
私も母にならって白いご飯を一口食べた。
おいしかった。ご飯を食べると言うよりも、もっと別の物を体に取り込んでいるような感じがした。生きる気力のようなもの。母はこのご飯をとおして、私に生きることを約束してくれているような感じがした。
母の側にいれば大丈夫よ、と囁く声が聞えた。その囁きはたぶん幻聴なんだろうけれど、私が母から乳をもらって抱かれていた時によく聞えた幻聴だった。
母と父は、仲良くしてくれなかった。それは確かに憎らしいことだった。けれど、母は、私を生かそうとしてくれている。幸せにしようとしてくれている。もう、それでいいと思った。
でも、やっぱり、少し母は遅いよ。もう姉は死んでしまった。みんな姉を頼っていたから、姉は誰も頼れなくて、その辛い思いを受け止めてくれる人もいなくて、だから自分を傷つけていたんだ。本当にやさしいから、父や母のことをものすごく憎んでいたはずなのに、憎んじゃいけないんだと自分に言い聞かせて、そして腕を切っていたんだ。切っていたんだ。だから、やっぱり母は遅いんだよ、とろいんだ。
でも……もういいや。だって母はこうやってちゃんと、私たちが生きていくことを保障してくれるんだ、生きても良いよっていってくれてるんだ。だからもう、いいんだ。だって、やっと、私たちに居場所ができたんだから。
なぜか、そう悟ると、姉の最後の姿が思い浮かんだ。
姉の白い手首から真っ赤な血が滴り落ちていた。
「ねえ、由紀ちゃん、私はね、居場所が欲しかったの」
そういいながら、私の目の前でどんどん顔の色をなくしていく姉を見ながら、この人はなんて残酷な人なのだろうと思った。何であえて私の目の前でそんなことをするのだろう、本当にひどい姉だ。なんてひどい姉なんだ。なんでそんな気味の悪い笑顔を見せてくるんだ。やめてやめて。
「見つからなくて、自分の体を傷つけることで、どうにか居場所の蜃気楼みたいなものを見つけ出していたけれど」
手首にあるたくさんの昔の傷跡を何でそんな満足そうな顔でなでているのでしょう。なでればなでるほど、ぱっくり切れている傷口から血がドバドバ流れてきていますよ。なんでそんな満足そうな顔をしているのでしょう。
「でも、私ね、見つけたの。ふふ。見つけたのよ。居場所よ。私がいてもいい場所」
そういって姉が血だらけの手を私のほうに伸ばしてきた。そっと、今までにないくらい優しく私の頬に触れて、そしてその手を首に移って、軽く首を絞めてから、空ろな目で神様みたいに笑った。手にはナイフを持っていた。
「死んじゃうの?」
そう言ったのは、私だった。
「そうよ、死ぬの。あなたも私と一緒に死ぬのよ」
姉は神様のような微笑を崩さずに言ってのけた。
「どうして?」
「私たちはここにいても、幸せになれないからよ。辛いだけでしょ?」
姉の意見は、その声同様とても魅惑的だった。
私は、姉とのやり取りを全て思い出して、走った。あまりの衝撃に心を取り乱していたので、家を出て百メートルほど走ったが、チャリで行ったほうが格段に速いことに気がついて、やはり全力で家に戻ってチャリにまたがった。足の疲れなんか感じなかった。
ぐいぐい自転車に乗って目的地まで走った。休む暇もなくこいでいるのに、まったく足は疲れないが、焦る心が私の心を疲れさせているような気がした。
林の中でもチャリで爆走した。途中木や葉っぱで腕や顔をすりむいた気がするが痛みなんか感じなかった。ただ、今までにないくらい、興奮していた。
目的の物が見えて、私は、チャリを飛び降りた。あまりブレーキで速度を緩めていなかったから、チャリから転げるような形になったが、そんな形なんてどうでもいい。私は一心不乱にかけだしつつ、昨日の朝祠にお供えしたおにぎりが綺麗になくなっていることを確認した。
そして、あの暗くて、それでいて、姉と私を楽しませたあの洞穴に体当たりするようにかけだして、叫んだ。
「おね―――――ちゃ―――――ん!!」
私は手をひざについて、ぜえぜえと息を荒げて、洞穴を見つめた。奥のほうで、何かがごそりと動いた気がした。
あの時、姉を見た最後の瞬間、私の首を絞める姉に私は問いかけた。
「どうして?」
私のその質問に、血だらけの姉はこういった。
「私たちはここにいても、幸せになれないからよ。辛いだけでしょ?」
姉の意見は、その声同様とても魅惑的だった。
でも、このときの私にはわかっていた。姉が優しすぎて自分以外を責められないから、だから自分を傷つけてしまうこと。そして今、自分の痛みだけじゃ抱え切れなくて、私にも私たち家族の歪みを背負わせようとしていること。今まで、家族の歪みを見て見ぬ振りを続けていた私に、とうとう罰が下ったんだとわかった。
でも、私はこのとき、どういう罰を受けるかは、自分で決めたいと思ったんだ。姉のように刃物で立ち向かうことは嫌だった。だって、刃物は姉のきれいな腕を傷つける。だから私は刃物が嫌いで、私は私のやり方で歪みに立ち向いたかった。
「……うん、確かにここにいたら私たちは不幸だ。でも、他のところでは不幸じゃないかもしれない。お姉ちゃん、一度、他の場所に行ってみたら? ほら、あそこ小さい頃よく遊んだ秘密基地。その祠の向こうには大きな洞穴があったでしょ? そこにすんでみたら。」
「一人で?」
「うん。お姉ちゃんは頭がいいから、一人でもうまく生きていけるし、きっと逃げとおせるよ。それでもし、居場所が見つかったら知らせに行くから」
「……食事とかは?」
「私が毎日あの祠にお供えものしにいくよ。その食事を食べればいいよ」
姉はしばらく考えた後に、重々しく頷いた。そして今着ているセーラー服を乱暴に脱ぎさると、その服でさっき手首を切った場所にあてがって止血をした。そしていつもどおりの機敏な動きで、学習机の引き出しからボールペンと便箋を取り出す。そこにはつらつとした動きからは想像できないほどの弱弱しい筆跡で、
「お父さん、お母さん、先行く娘の不幸をお許しください」
とかいた。
「私はこれから死んだことにするわ。でも、由紀ちゃん、あなたは時々うっかり心に思っていることを口に出しちゃう癖があるから、その秘密を共有するには危険な人物だと思うの」
「大丈夫。私は忘れたことにするよ。忘れたことにするって120回ぐらい呟いているとね、本当に忘れられると思う。あったことをなかったことにしてやり過ごすときにいつも使ってるんだ。現実社会で生きるための術の一つだよ」
私は自信満々に言ってのけた。
姉がありがとうと言って頷き、いくつかの荷物をリュックの中に詰めこんで、あの手紙を持って旅立った。
その日の夕方、なんだか外が騒がしくなった。
母や警察の人が騒いでいるようだった。
母は泣きくずれて何も教えてくれなかったけれど、警察のおじさんが教えてくれた。
私の姉が、流れの激しい川の上から投身自殺をしたと言うことを。橋の上に姉の靴が並べられていて、そしてその靴の下に、「お父さん、お母さん、先行く娘の不幸をお許しください」と書いた紙がおいてあったらしい。
警察の人の大捜索にもかかわらず、姉の遺体は見つからなかった。それはそうだ。姉がいるところは、その川から5キロは離れた場所にあるんだから。川を探しても見つからない。
しかし、警察と母はしつこく川周辺を探し回り、姉の血が染込んだセーラー服を見つけ出した。もうこれ以上探しても無駄だと判断した警察は捜索を打ち切り、姉は死んだことになった。
そう、姉は死んだことになっていただけだった。




